言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

極寒の地での観光

 

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度を越して寒いと、外で動き回る観光はできない。そう実感したのは、先日の北海道旅行でのことである。
飛行機は着陸するとき現地の気温がアナウンスされるものだが、降り立ったとかち帯広空港はなんと-12℃とのことだった。時刻は朝10時頃である。夜中ではない。普通に日中でその気温だ。帯広の中心地は-5℃くらいと聞いていたのに、帯広市内の南のほうにある空港はさらに寒いというわけである。
積雪はさほどではないのだけれど、飛行機を降りた瞬間からものすごく寒い。そしてレンタカーを借りにレンタカー屋に向かったのだけれど、店舗がものすごく暖房されていてそれはそれで笑ってしまった。北海道のどこも屋内はこんなに暖かくしているのかよ、と内心思ったものだが、結果的にはこのレンタカー屋が度を越して熱せられていただけだった。度を越して暖房の効いた部屋というのは、少し息苦しさを感じるものである。そして眼鏡が曇った。
レンタカーを借りて観光に臨む。レンタカーはちゃんと暖房が効くので安心だ。しかし外に出ると途端に凍り付くほど寒い。
初めは案外と大丈夫な気がするのだけれど、それは温まった室内の感じが身体に残っているだけで、すぐに冷えていく。身体はそれでもコートを着ていたりしているので大丈夫なのだけれど、何も覆われていない顔などはだんだんと痛くなる。寒いというか、痛くなる。手先も手袋をしているうちはいいが、スマホを取り出して写真を撮ろうとすれば本当にみるみるうちに手先が冷えていく。そのためのスマホ用手袋なのだけれど、ついつい外してしまう(そのほうが早いから)。
それでまた基本的にスマホで写真を撮ったりしていたのだけれど、あまりの寒さに充電がどんどん減っていく。もともと買ってから2年半が経過し充電のヘリが早くなりつつあるのだけれど、それでも極寒の中スマホを使おうとすると一気に10%ずつくらいの間隔で減っていく。
後で冬季開園中の動物園に行ったのだけれど、充電器を車の中に置いてきてしまって(音楽を流すときにケーブルを使っていた)、ぎりぎりの充電で写真を撮りまくったりしたのである。どうでもいいけれど、雪の上をキリンが歩いていたり、ライオンが寝ていたりと、「サバンナ出身じゃないのかこいつらは」という気持ちになるなどした。寒くないんだろうか。寒いと思うけど。

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雪の上をうろうろするキリン

極めつけは展望台である。吹きさらしの展望台はとにかく寒い。夕日が沈むタイミングで、展望台を訪れたのだがまあとにかく寒くて、外にいるのもやっとであった。さっさと写真を撮って、あとは車の中に退散する。
もう、そうなると行先はおのずと温泉になる。寒くて外にいられないし、体もすっかり冷えてしまったら温泉に行くしかない。幸い帯広の近くには十勝川温泉という素敵な温泉がある。そこのホテルの日帰り入浴には、3日間のうち2回も入ってしまった。それくらい極寒の地での温泉はありがたい。
ただし、温泉に入る時には貼ってあるカイロを捨ててしまうので、その後の行程で貼りなおさない限りはずっと寒いままである。
私はそのまま件の展望台に向かってしまったため、下がった気温とともにもろに大打撃を受けた。

 

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寒い時のお出かけには気を付けよう。

 

元旦と今年行きたい場所

 

あけましておめでとうございます。
今年もどうかよろしくお願い致します。


さて、年明け早々なのだけれど、ふと「去年はそんな話を書いたんだったかな?」と昨年の年末年始の記事を見返したところ、大晦日の話が見事に被っていた。まあそんなこともある。あるよね? すみません。
そんなわけで今年の話をしたいのだけれど、これまた怖いので昨年の記事を読み返した。去年は正月太りの話をしている。これなら被らないから安心だ、なぜなら当時よりもすでに5キロくらい太っているからだ(全然よくない)。
毎日座ってばかりの仕事だし、そのくせお腹だけは立派に空くのだ。しかも、帰る時間が早くないので、自然と夕ご飯の時間が遅くなる。夕ご飯ではなく夜ご飯だ。同じか。21時以降に食事をするのは本当は良くないのだろうけれど、帰宅時間や通勤時間、それに経路上に全く立ち寄る場所がないこともあって、遅い時間にばかり食事をしている。
できれば私もそれはもうやめたいのだ。もっと早い時間に食事をしたい。だから頼む、もっと早く帰れるようにしてくれ会社よ。今年のとかではなく、恒久的な願いである。

元日ということで今年の目標となるものを立てればよいのであるけれど、どうにも思い至らない。なので、今年行きたい場所をここに書き記すことにする。
理由は単純で、行きたい場所というのは棚卸をしないと本当に忘れてしまうからだ。忘れてしまって、あとから思いだして、ああそういえば行かなかったな、とか思うわけである。そうすると本当に行けなくなる。
実際に今年中に行けるかと言われればたぶん無理だし、タイミングとかもあるけれど、積み残したものはまた来年どこかで棚卸して書き記せばいいので無問題だ。そういうわけで、これは去年の記事である。

 

 

fwbc0416.hatenablog.com

 


ちなみに2019年は本当に、まず徳島と香川に訪れた。これで47都道県全件宿泊を達成である。

今年訪れたい場所は以下のとおりである。

・秋田
正確には、新潟から特急「いなほ」で秋田に行きたいのである。前々からずっと検討はしていたけれど、実行に至っていない。そうこうしているうちに「いなほ」が秋田まで行かなくなりそうで怖いので、今年のうちに行ってしまいたいものである。あと、秋田自体は何度か訪れているものの、乗り換えの拠点としての側面が強く、ちゃんと見て回ったことがないので、ぜひ泊っておきたいところである。

稚内(北海道)
これはもう行くことがほとんど決まっている。なにせ2018年からの積み残しである。昨年も行くチャンスがあったのだが、その時は、網走に行ってしまった。理由は特にない。稚内のことを考えていたのにただ単純に網走のほうに目が向いてしまった、それだけのことだ。
網走行きの特急「オホーツク」の札幌出発時間が朝6時台であり、稚内行きの特急「宗谷」は7時代であることからも「キツそうなほうから先に行っておこうかな」とか言う心理が働いた、たぶんそういうことだ。実際は大して変わらないんだろうけれど。
今さっき、稚内に行く予定で飛行機の予約を済ませたので、よほどのことがなければ稚内には行くのは決まっている。最東端の根室には訪れたことがあるので、最北端、実に楽しみである。

・大内宿(福島県
できれば雪の大内宿に行ってみたい。大内宿は、かなり昔に一度行ったきりである。その時は夏だった。古民家を改造した民宿で、いろりを囲んで夕食を取ったのを覚えている。きっと冬だとまた違った風情があるだろう。今シーズンに訪れられないのでたぶん行くとすれば年末である。あるいは来年? 慎重にタイミングを見たい。

・高知
高校生の頃に行ったきりで、最近行っていない場所である。あの時はちょうど正月休みに出かけたので、驚くほど寒かった。今度は暖かい時期に訪れたいものである。ついでに四国の内陸のほうはあまり訪れたことがないので、併せていけたらうれしいし、あるいは2泊以上の日程があるのならば、愛媛県宇和島あたりと組み合わせてみるか、宿毛あたりと組み合わせるか。いろいろな可能性がある。
ただし、純粋に飛行機の距離になるので、北海道や九州に行く予定が入ると、高知行きはなかなか厳しい。


とまあこんな感じで、きっと今年もいろんなところに行けたらな、と思うわけである。


今年もどうかよろしくお願い致します。

 

大晦日

 

気が付けば大晦日である。毎年、年末のこの時期は大抵どこかに出かけているのだけれど、大晦日には必ず帰って来るようにしている。今年は丙繰りが良かったので、土曜日から3日間旅行に出かけても大晦日に被らなかった。昨年は大晦日の昼間に家に帰って来るような形をとっていて、確かそういう都市のほうが多かったような気がする。
それでも2泊3日しただけでもう翌日大晦日である。冬の休みというのは思っているよりもずっと短いものだ。中高生の時の冬休みというのも似たような感じだったはずなのだけれど、でも確かクリスマスあたりから休みになるし、何なら定期テスト後のテスト休みのようなものもあったりしたので、今思えば結構休みがあった。
昔はそんなとき何をしていたかといえば、短編小説を書いていた。大晦日を締め切りに設定して、何か書くというものである。忙しいときほどアイデアが浮かぶものなので、テスト期間のような時間でうっかり思いついてしまったものを、その後の休みを利用して書き上げようというものだ。クリスマスあたりはいろいろ思うところもあり、筆が進むもので、それから休み期間に入ってラストスパートである。大晦日は夜になるまでは忙しいので、そのあとから日付が終わるまでに何とかする、というような感じ。締め切りがしっかりとある闘い(?)なので、結構面白かった。
近年はコミケなり旅行なりと出かけてしまうので、家で過ごす時間はなく、あまりそういったものを書く機会がなくなっている。そもそもしばらくモノを書くことから離れていたのもあって、リハビリ的な意味でこのブログを書き始めたのだけれど、まあなんだか最近は手段が目的になってしまっているような感じは否めない。別にいいけれど。どこか温泉旅館に出かけて、明るいうちから翌日ずっと部屋で小説を書くような旅行をしたら面白そうだけれど、来年はやってみようかな。
こうやってやたらと遠くへ行くようになったからこそ、モノを書く時間が減ったのではないかと思うけれど、それが両立できれば言うことはない。温泉の露天風呂でぼんやりと湧き上がる湯気を見ているときに、浮かんでくるものがあったりするから。

それにしても今年はずいぶん遠くへ出かけた年だった。そのうえでずいぶんといった地域に関しては偏った年だった。飛行機の予約履歴を見ていて驚いたのだが、今年5往復している飛行機のうち、4度が北海道なのである。年の初めのほうに急遽行った(飛行機代がめちゃくちゃ安かった)徳島と高松以外は全部北海道。令和元年の初日は飛行機に乗って新千歳空港である。その時が往復新千歳で、その次は往復函館。夏休みに新千歳で行って女満別で帰る。それで昨日までが往復帯広である。北海道は好きだけれど、年に4度も北海道に行ったのは初めてのことである。そのせいで(悪いことではないのだけれど)西のほうにはほとんど行っていない。九州どころか、一番西に行ったのは香川の琴平である。面白いものだけれど、旅行先というのは意識しないとこんなにも偏るものなんだなと改めて思う。バランスを考えて出かける必要はないのだけれど、今年は特に似たような地域に出かけることが多かったのは、こうして傾向として現れるので、年末に振り返ってみると面白いものである。
来年はすでに用事が決まっていて、神戸と北九州に訪れる予定がある。それ以降の予定は特に決まっていないけれど、たぶん北海道には行くだろう。
来年はどこに行くことになるんだろうか、何をすることになるんだろうか。


また来年、どうかよろしくお願い致します。
よいお年を。

 

雪景色

 

雪景色が好きだ。朝起きたら家の周りが真っ白になっているのを見るのは、たとえその日が出勤であろうともちょっと嬉しくなる。寒いのは得意でないけれど、雨よりはずっと雪の方が好きだ。雪なら全然許せる。寒くても「まあ雪だしな」で何とかなる。要するに気持ちの問題だ。
雪景色は好きだが、反面、雪深い地域を真冬に訪れるというのはあまり経験がない。一昨年のちょうど今頃に、福島県檜枝岐村に行ったときくらいだろうか。あまりに雪深くて、車で向かうのも一苦労であるし、1日置きっぱなしにでもしたら車がつぶれてしまうような雪が降るのだからすさまじい。その反面、雪の降り積もる村は非常に静かで、ざくざくと雪を踏みしめる音だけが響くようなそんな素敵な趣のある場所だった。
ただし、自分で運転して向かうには技術と度胸が足りず、せいぜい数センチ積もるようなところでしか運転経験がない(群馬の山奥とか)ので、おいそれと迎えるような土地ではないのは確かなことである。

雪の積もる地域自体は毎年なんだかんだで訪れている。群馬の山の方であれば草津だとか、北海道も函館だとか。秋田や北海道の中でも雪の深い新十津川のあたりは真冬ではない時に訪れている。
東北は3月でも普通に雪が積もっている状態で、それでも季節は進みつつあるので雪もスギ花粉も舞っているというような状態になることが多い。勝手なイメージとして「少し暖かくなってくるとスギ花粉が舞う」なんて思っているのだけれど、結局寒かろうとあまり変わらなかったりするもので、雪が降っているから季節的はまだスギ花粉ではない! なんて思っていても結局ダメだったりするわけだ。それを身をもって知ったのが2月末当たりの東北である。
北海道の豪雪地域に関しては、今年のGWに訪れた時でも所々で雪の残っている場所があった。イメージよりも雪というものはどうやら残りやすいものらしい。春、それも桜の季節が終わったような頃合に、出かけた先でまばらに残る雪を見つけたときの感覚というのは実に面白いもので、気温も相まっていったい今の季節とは何なんだろうか、という気にさせてくれる。季語というやつがあるけれど、北海道なら春でも雪が残っているから季語になりうるわけだよな、とかそんなことを考えたり、考えなかったり。雪というと明確に冬な気がするけれど、ある意味それも思い込みなんだろう。

話が逸れた。

雪景色が好きだ、と言いながら、今まで函館以外で冬の北海道というのは訪れたことがなかった。なかったので、今、北海道の帯広へ来ている。最高気温は氷点下。-5℃とかそれくらい。
非常に寒くて、寒すぎるとそれはもう「痛い」という感覚に変わっていく。これでも帯広はまだ雪が少ない地域なのだけれど、非常に寒くて、でもだからこそ面白い。屋内と屋外との温度差がありすぎて、外から中へ入るときは眼鏡が曇るし、温度差がありすぎて急に温かい室内に行くと鼻水が出たりする。温まってから外に出ると、「おや、さっきよりも気温が上がったかな?」なんて幻想に陥るけれど、すぐに寒さがやってくる。すごく面白い。

あとなんだかよくわからないのだけれど、雪が山とか小高くなっているところには全然見えなくて、そのかわり畑の上が真っ白になっていてびっくりした。山が白くないから積もってないのかと思ったけれど、平らな畑は真っ白なのである。

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あまり降らない、というのは北海道内での話で、ちゃんと雪が降るとそれなりに積もりはするのだ。そして太陽の光が当たるととても眩しい。雪の白さは思っているよりもずっと眩しい白だ。

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寒ささえなければこの色をずっと見ていたい。

真っ青な空と、白い雪と。

 

ああそれにしても寒い、寒すぎる。写真を撮るとスマホの電池がみるみるうちに減っていく。手袋をしていても、操作しているうちにどんどん寒くなる。

 

ああ、北海道に、試されている。

期限の切れたカイロ

部屋の片づけをしていた時に、ずいぶん前に購入したであろうカイロが出てきた。期限を見ると、2018年との記載がある。
冬になるとカイロをよく使う。毎日通勤用に1枚張るタイプを使うのと、雪でも降れば枚数が増えるなり、貼らないカイロをポケットに入れて置いたりと、頻度はかなり高い。
基本的には、シーズンが始まると買ってきて、その冬が終わる頃に使い切るようなイメージである。だが例えば豪雪地帯に旅行する時なんかに、1日1枚とかではなくて複数枚使いたいようなときがあると、現地や行くまでの間に追加でカイロを買って持って行ったりするわけだ。そういうイレギュラーなカイロは、旅行鞄、それも冬にしか使わないような大きなものの奥底に忘れ去られる運命にあったりするわけで、今回もそんなカイロが発掘されたというわけである。
カイロには使用期限がある。とはいえ、生鮮食品のようなものではないので、期限が切れても使用できる……はずである。一応調べてみたら、自己責任で使う分には問題ない(意訳)というようなことがカイロメーカーの公式HPのQAに載っていたので、大丈夫だろうとは思う。そのまま長い昼寝とかしなければいいわけだし。
そういうわけで2018年期限であれば丸2年の月日が経過しているわけだが、せっかく発掘したので使ってみることにした。

どんな塩梅だったかと言えば、しばらくは新しく売られている物と遜色ない使い心地であった。ちゃんとあったくなるし、あったかくなりすぎることもない。ところが数時間経つとどうしたことだろう、温まり方にムラが発生するようになった。一部は暖かいが一部は冷えているような、そんな状態である。だんだんと温かくない部分が広がっていって、ついには貼るカイロではあるが「貼らないカイロの翌朝発見したやつ」のような、中身が少し塊になっているような、そんな感じになってしまう。
熱がちゃんと持続しないのである。今時のカイロは「12時間持続」とか銘打っている物が普通にあって、本当に朝貼って夜家に帰るまでずっとあったかいものが多い(もっとも、部屋が暖かいので昼頃には取ってしまうことが多いけれど)。実際ピークが12時間持続するだけであって、もっと長くあたたかいような気がする。
期限が切れて1年以上経過したカイロはどれもこの持続力がなかった。何枚か試してみたが基本的に冷めるのが早く、ひどいものだと朝8時に貼ったものが昼の12時には冷たくなっているようなことさえあった。新しいものを買うのには意味があるし、使用期限にも意味があるということだ。

明日からまた北海道に行くので、手袋を買ってきた。数年前に買ってきた「スマホ対応手袋」はスマホは使えないわ指の所は寒いわで(単純に指のあたりの毛糸が薄く作られているのでスマホができるといういいかげんな代物)いまいち意味をなしていなかったので、そんなに高い買い物でもないし新たに購入したのである。試してみたらちゃんと裏起毛で温かいし、スマホもいじれる。

カイロもまたケチらず新しいのを買っていかないといけない。古いカイロは会社に行くときのような一時的なものに使うとして、長持ちしてあったかいやつを買っていこう。そうでないと、最高気温-5℃予報の出ている北の大地を乗り切れる気がしないから。

 

サンタクロース

「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでも、俺がいつまでサンタなんていう想像上の赤服おじいさんを信じていたかというと俺は確信をもって言えるが、最初から信じてなどいなかった。」

これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭のシーンのモノローグだ。確かアニメ版も小説版もこの出だしから入ったようなことを記憶している(ただし一番最初のアニメ版は放送順序が時系列に沿っていなかったので厳密に最初の話のセリフではない)。話の導入というか、本題につながるきっかけになる印象的な文言であるということで妙にはっきりと覚えている。
サンタクロース。12/25にやってきて、まあなんだかよく理由は知らないがプレゼントを子供の枕元に置いて行ってくれる存在である。私も小さいころ、それこそ小学生のころだが、12月の25日の朝にはサンタクロースもといプレゼントの存在があったわけだけれど、存在を信じていたかと言われればよくわからず、でも信じては居たような気がしているがよく覚えていない。信じると言っても何と言えばいいのだろう、それは神頼みというようなものであり、しかしながら少なくともプレゼントには両親の意向が反映されていることはわかっていた。家庭によって内容の差があるとか、縛りがあるとか(我が家にゲーム機がクリスマスプレゼントとして送られることは絶対にない、とか)そういったことが起こり得るということについても割と納得していた。

面白いことに、例えば何か外のイベント(子供会とか英会話教室とかそういうの)で出てくるサンタクロースが「本物」ではないことはちゃんとわかっていたし、初めからその"想像上の赤服おじいさん"は想像上の存在なんだということは承知の上であった。嫌な子供だけれど、まあそういった「家以外での」サンタクロースは絶対に自分の本当に欲しいものなんてくれなくて、せいぜいお菓子を配ってくれるだけなので、全くありがたみを感じなかったせいだろう。
それに対して、自宅にやってくるサンタクロースにはある種の可能性というか、ロマンがあったわけである。本当に欲しいものをくれるのではないかという期待。薄々は「欲しいと思っている物」はくれないんだろうな、と思いながらも、神に祈りをささげるようなつもりで様々脳内で念じたうえで朝を待つわけである。
非常に残念な子供だったので、「サンタクロースに欲しいものを手紙に書いて送ろう!」という発想に至らなかったのが惜しいところだ。手紙を書いて両親に託していたら、どうなったんだろうか。あの時欲しかったゲーム機やらカードやら本なんかをプレゼントするということになるのだろうか?
世の中の、別の家庭のサンタクロースには、手紙を書いたらその通りにプレゼントがもらえたのか非常に気になるところである。またその手紙に書かれた希望通りではないプレゼントを贈る場合は、子供へどんな話をするのだろうか。
たぶん私が手紙を書いていたら、小学校の中学年くらいであればゲーム機だとかそういう「(教育上我が家で禁止されていたものの)一応手に入るもの」を書いていただろうけれど、新聞の朝刊に一緒に入ってくる不動産の間取りのチラシを見るのが好きだった低学年の私は下手すると「庭付きの一軒家」とか書きかねないし、まあどうしたって両親は困ったんだろうな。

 

冬至と年末


スーパー銭湯に行ったら、露天風呂に大きなゆずが置いてあってそれで初めてもうすぐ冬至であることに気が付いた。それが土曜日のことである。今年の冬至は22日の日曜日だった。つまり、つい昨日のことだ。

カレンダーや手帳にはもともと記載されているというのに、特に気が付くことはなかったのは、自分の書き込んだ予定だけを目が(脳が?)追っていて、それ以外は曜日とせいぜい日付くらいしか見ていないということの現れなんだろう。書いてあるのに読み取っていない、書いてあるのに読み飛ばした、ということがこうして発生するわけである。別に冬至を忘れたり逃したところで何もないんだけれど、なんとなくこのくらいの時期の、せわしない年末へ向かっていくカウントダウンの始まりというか、そんなものを冬至に感じたりするわけで、ああそうか今年もそんな季節になったのかと思わせるのに一役買ってくれるのである。

 

去年も冬至について書いたような記憶があるけれど、いつの間にか1年たってしまったということである。今年は本当に日が過ぎていくのが早い。例年に比べて土日に活動しすぎているのと、あとはたぶん仕事が忙しい日が多かったからだろう。

 

冬至を過ぎると急に翌年のことを考えるようになる。

年末の予定というのは早い段階で細かく詰めておくのだけれど、そういえば、と思うと、年明けの予定がよくわからない。

例えば仕事始めは当然1月の6日だろうと思っているけれど、それは今年のカレンダーがたまたま月曜日が6日なのであまり疑いようがない、というだけであって、実際聞いていないのでよくわからない。もともと予定がコロコロ変わったり、直前まで教えてくれないような職場だが、こちらから聞かなければ本当にわからないままなので、今のうちに聞いておかなければならないと気が付いたことは非常に重要である。そう思って慌てて今日聞いたら案の定「27で仕事は終わりの予定だけど、30日にうっかり出勤があるかもしれない」とかいうコメントをいただいたので、聞いておいて正解だった。ついでに言えばその日は出かけているので呼ばれても駆けつけられませんよ、とは言っておいた。

「どうせ何もないから呼出しなんてないし、いいよ」と言われたものの、「どうせ何もない」は完全にフラグなので、信用していない。ともあれ「いいよ」と言ってくれた(言わせた)以上は行かなくても良いという言質を取ったことになるので、まあ30日の呼び出しの可能性なんてのは忘れて出かけようと思う。ちなみに飛行機の距離なので行くのは物理的に無理だ。

ただし、翌年の予定を聞いたら「4日になんかあるけどたぶん我々は関係ない」とかいうこれまた不安なコメントをいただいたので、とりあえず聞かなかったことにした。とりあえず家にはいるだろうし。

2020年、来年、とは言うけれど来月でもあるのだ。丸々ひと月先はもう1月23日だと考えると、ずいぶん1月というのはすぐ近くに来ている。来年という言葉に騙されて(騙しているわけじゃないだろうけれど)適当に先延ばしにするわけにもいかない、すぐ先の出来事なのである。

年末はいろいろ立て込んで怖いことも多いけれど、その先の休みのために、今週一週間を無事に切り抜けたいものである。

 

マスク

インフルエンザが怖いのと、あとはなんか最近花粉だか何だかわかってはいないのだが何かに鼻がやられているのもあって、外にいるときはマスクをしている。インフルエンザがマスクで対策できるのかわからないけれど、例えば満員電車の中なんかではマスクをしている方が精神衛生上良い。あとは朝の通勤時間帯であれば、座れた場合は大抵寝るので、そういう時にうっかり口を開けて寝てしまっていても恥ずかしくないとか、まあそんな感じである。

眼鏡族なのでマスクをしているとよく曇るのだがそんなのはもう慣れてしまった。電車に乗り込んだ瞬間とかのマスクの曇りは、たいていちょっと急いで乗ったことによる息の水蒸気量の増加に起因するのでそのうち落ち着けば曇らなくなる。温室とかビニールハウスならば一度その曇りを眼鏡拭きで拭ってしまえばあとは大抵問題ない。電車の中でくしゃみを連発する羽目になるよりずっと良い。


マスクの好みというか、合うかどうかというのは使ってみないとわからないこともあって、一度使いだしたマスクで不満がなければ、そのシーズン中は大抵同じものを買って使うことが多い。

ストックが切れたので、昨日も同じものを買おうと思ったらば、何かキャンペーン中のようで別のマスクの試供品が1枚付いてきた。普段使っているのがマイナーな商品(PBみたいな扱いをされている安いやつ)なのだけれど、ついてきたのは同じメーカーのメジャーな商品だった。同じメーカーだったと知らなかったので、おまけでついてきて見て初めて気が付いたわけだえけれど、せっかく試せるならば使わない手はないと思い、早速使ってみた。

いつも使っている物より値段が高いものであるからか、耳の紐のあたりがすごくやわらかである。眼鏡族なのでマスクの紐とその上から眼鏡をかけているということで、結構耳とこすれて痛みが出ることが多いのだけれど、ここが柔らかければそれもなくなりそうだ。

いいじゃないか、今度からこっちに乗り換えようかな、と1日使って帰宅。ゴミとして捨てようと思って外したら、何かマスク表面に書いてあるのを発見した。商品のブランド名である。文字が書かれている、というのはあまり正確な言い回しではなくて、正確にはその部分だけ素材が薄くなっていて、それで文字を表現している、ような感じ。だから、表からでも裏からでも見えてしまう代物なのである。ついでに言えば、なぜか自分の方(つけている側)に文字があるから、外から見れば裏返った文字が右顎のあたりにくっついているように見えるのである。


なるほどこれはどうなんだろう。鏡で確認してみると、一応顔のシルエットに隠れて正面からは文字が見えないようになっている。うまく作られているもんだ。目立たないなら今度はこっちを買ってみようかな。

試供品施策ってこんな風に行うものなんだな……。

いちご狩り

いちご狩りに行った。実に何年ぶりだろう。12,3年前くらいだろうか、伊豆のあたりでやったような記憶があって、ただまあイチゴを食べたことやバスみたいなやつで行ったことなんかは覚えているんだけれど、何分間だったのかとか、肝心のいちごの味がどうだったかとか、そういったことが全然思い出せないのである。ただただ「いちご狩りをした」という記憶が強く残っていて、私にとってのいちご狩りは「やったことはあるけれどあんまり覚えていない」ものだった。

いちごはもともと好きな食べ物の一つである。小さいころから好きだったような気がする。それと同時に「いちごって飽きるほど食べたことはないな」と思ったわけで。それならば、いちご狩りに出かけて飽きるほど食べてやろうじゃないかとまあそんな感じで思ったわけである。
何にしてもいちご狩りはいちごが食べ放題なのである。当たり前だ。実っている物をもいで(狩って?)食べるのがいちご狩りだ。それならば端から全部狩りつくしてやろう。くらいの気持ちでいちご狩りに出かけたわけだった。

今の時期のいちごはまだ出始めである。最盛期はもう少し後になってからということで、よく考えたら私もまだ今年のいちごを食べていない気がするので、図らずも今季初いちごがいちご狩りになるわけだ。スイーツの中に入っている物は年中どこかしらにあって食べている気がするけれど、それとこれとは別である。
多くのいちご狩りができる農園は1月頃からの開園だが、12月のそれも頭からいちご狩りの出来る農園を見つけてそこを予約した。観光バスが来るようなところらしい。観光バスたちはたいていお昼時に来そうなので(食事といちご狩りのセットというものがあるのでたぶんそれなんだろう)、微妙にそれを外して、11時頃に予約した。遠方であったので、農園から30分山の方に入っていったところにある温泉旅館に1泊してから向かった。朝ご飯は軽めに。朝風呂にも入った。

いちごのビニールハウスはかなり温かく、そして湿度が高めに設定されていた。いちごの旬は冬から春とされているけれども、本当は5,6月のもう初夏と呼ばれるような頃合いが旬の果物であるらしい。だからこうしてビニールハウスを用いて促成栽培が可能なわけだ。そんなわけなのにうっかりコートを着たままビニールハウスに入ってしまったのと、湿度で眼鏡が真っ白に曇ってしまったりとなかなかのスタートであったが、無事、十数年ぶりのいちご狩りに興じることができた。
いちごの実の付き方は面白いもので、一気に全部の実が熟していくわけではないようだ。だからまだ花が咲いているものと同じ株に(というか枝分かれした真横とかに)真っ赤に熟した実がついていたりと、様子がさまざまである。
熟した具合も本当に同じ枝(茎?)から分かれているのにバラバラで、赤く熟していてもそれが例えば熟しすぎていたりすると食べるのには抵抗があるし、逆にまだ緑の部分があっても良くない、なんていろいろ選ぶ余地があるのである。
最初の2,3分は目についていたものをずっと適当に食べていたが、それぞれ当たりはずれと言えるくらいの味の差があることがわかってからは、色つやの良いものを選んで食べるようになった。あとは巨大ないちごも結構あるのだけれど、なんというか大味なことが多いので、途中からは選ばないようになった。詳しい目利きはできないけれども、そういった消去法で選んでいって、食べ進めていくのは結構面白い。やっぱり色つやが良くて形がいいものが美味しいことが多いけれど、たまにいい意味でも悪い意味でもその予測が外れることがあって、後半になってそういう「はずれ」をひいてしまった時の虚無感と言ったらなかった。
そういえば飽きるほど食べたい、と冒頭の方で述べたけれども、結論から言えば10分くらいでかなり満足したわけだった。飽きるというよりも、味に慣れてしまってくる、といったほうが正しいだろう。はじめは久しぶりに美味しいいとごだな、とかいろいろ思いながらひたすら口に運ぶのだけれど、だんだん変化が欲しくなってくる。甘酸っぱくて美味しいいちごだけれど、途中で例えば何か塩気のあるものが欲しくなるのである。同じものを食べ続けるというのは案外大変なものだ。なので途中からはかなり見た目を選んではずれのないようにできるだけ選んで食べるようになったし、あとはずいぶん写真を撮ったりして時間をつぶした。授粉用にミツバチが放たれているので、よく花弁で蜜を集める姿を見ることができたのも面白かった。普段、外でハチを見たらまず逃げるけれど、温室で放たれているハチであればなんとなく安心して見ることができる。たぶん結果的に刺されている様子もないし、全身真っ黒な格好だったけれど大丈夫だったようだ(耳元でブンブンは音を立てるのは嫌だったけれども)。
いちご狩りの時間は30分。はじめは短いと思ったけれど、案外普通に持て余すくらいだった。よく考えたら食事で30分はまあまあゆったり食べられる時間だ。

紙コップを渡されて、そこに食べ終わったいちごの"へた"を入れていった。私は一応それがいっぱいになるくらいまで食べた。1年間で食べているいちごと同じくらいは食べたような気がしている。こんなにたくさん食べたのは初めてだ。
そういえばわんこそばの時にも似たようなことを思ったけれども、あっちは本当にひたすら満腹だったので、それからひと月くらいはそばすら食べなかった記憶がある。
いちごは案外大丈夫なもんで、一昨日見つけたいちごのスムージーをもう3日連続で飲んでいる。割と大丈夫なもんだな。


念願のいちご狩りはクリアしたわけだが、ほかに似たようなものはあるだろうか。サクランボ狩りかな? ちょっとシーズンまでに調べておこう。

 

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温泉に行って、帰ってくるとまた温泉に行きたくなる

温泉旅行をしてきた。やっぱり寒い季節は温泉である。温泉に行くのは季節を選ばないと思っているが、季節には季節ごとの良さがあって、温泉の良さも季節によって都度都度変化していくものであると思っている。

寒い季節の温泉は良い。特に今回は朝風呂がとても良かった。朝晩とても冷え込む山の中、ともすれば起きるのも面倒くさいような寒さ。前の晩、日付が変わってすぐくらいに寝たこともあって、平日よりも少し長いくらいゆっくり寝ることができた。

起きたらそのまま朝風呂。布団にいるときはゴロゴロダラダラしてしまうし、なんなら一瞬「面倒だから朝風呂はパスかな……」とか思うわけだけれど、まあどうせ顔を洗うならあったかい風呂でいいか、と自分を説得して起き上がる。

寒い脱衣所。寒いけれど、耐えられないほどではない。

前の日は暗くなってから入浴したので外の様子が見えなかったけれども、朝は外の様子がよく見える。昨晩は雨だったけれど、どうも駐車場のあたりが白くなっている。雪なのか、凍ってるのかわからないけど、ああもう冬なんだなあ、と思うには十分。

温泉は熱すぎない温度。朝風呂にちょうど良い。あんまり熱くても寝起きには大変だから。

朝風呂は、働かない頭でぼーっと何もせずに過ごす、あの時間が好きだ。

それほど汗もかかず、かといってぬるすぎもせず。壁のタイルに着いた水滴を見て、ぼんやり過ごす。

 


温泉の朝。

 


後からじわじわとよみがえってくるのは、また行きたい、とか、いや今すぐ舞い戻りたい、とかそんな感情。

同じ場所にもう一度行きたい、という思いを抱くことがあるけれど、それよりももっと、今度はどんなところに行こう、という感情の方がすぐに湧き上がってくる。道中見つけた看板、立ち寄った道の駅、地図で目にした温泉の文字。温泉に向かっている時、帰るときにそれらを目にして、今回は寄れないけれどどんなところなんだろう、とか頭の片隅に置いておくわけである。家に帰ってきて、あれはどんなところかな、と記憶から引っ張り出してきて、ああこんな温泉だったのか、とか、ああこんな旅館があるのか、とか、もう調べたら行きたくなっているわけである。

しばらく温泉に行かないと、今度は過去のことを不意に思い出す。季節が同じ時に思い出すとそれはもうなんというか間に合わなかったり、弾丸で行くことにしたりとせわしないけれども、例えば真夏に真冬の温泉を思い出したりして、タイミングが良ければじゃあどこか探して冬にでも出かけよう! なんて思うわけである。

もちろん弾丸で行くのも面白いし、閑散期やあまり人気のない場所であれば普通に2週間くらい前ならば通常の値段で出かけられたりする。まあそういうのはたいてい一人旅の時にしか適用できないけれど。

 


準備と勢い。飛行機の距離だと、飛行機予約を先にしてしまうことで、忘れた頃に「もうすぐ旅行だしカード明細でも確認するか」とか「今月は出費がかさむな」とか思いながらも飛行機代はすでに支払ってあるので行き帰りは実質タダ……みたいな気持ちになるわけである。過去の自分が払っているのだからタダではないけれど、今の残高から減らないのはとても気分が良いものである。ある程度の先払いは未来の自分を幸せにするのだ。

 


寒い季節の温泉は最高だと言ったが、寒くない季節の温泉も最高だ。真夏の温泉は汗を流せるし、水風呂がとても気持ちのいい季節である。秋も良い。露天風呂に長く居ても寒くならないし、涼めるので浸かりすぎてのぼせる事もない。春は花粉さえなければ最高かな。露天風呂と花粉はちょっとばかし相性が悪い。でも入る。言うほど悪化はしない。身体に付着した花粉を洗い流すから、なんだろうか。

 

 

ああそれにしてもまた温泉に行きたい。それは温泉に行ったからこそ、なんだろうな。