言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

サンタクロース

「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでも、俺がいつまでサンタなんていう想像上の赤服おじいさんを信じていたかというと俺は確信をもって言えるが、最初から信じてなどいなかった。」

これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭のシーンのモノローグだ。確かアニメ版も小説版もこの出だしから入ったようなことを記憶している(ただし一番最初のアニメ版は放送順序が時系列に沿っていなかったので厳密に最初の話のセリフではない)。話の導入というか、本題につながるきっかけになる印象的な文言であるということで妙にはっきりと覚えている。
サンタクロース。12/25にやってきて、まあなんだかよく理由は知らないがプレゼントを子供の枕元に置いて行ってくれる存在である。私も小さいころ、それこそ小学生のころだが、12月の25日の朝にはサンタクロースもといプレゼントの存在があったわけだけれど、存在を信じていたかと言われればよくわからず、でも信じては居たような気がしているがよく覚えていない。信じると言っても何と言えばいいのだろう、それは神頼みというようなものであり、しかしながら少なくともプレゼントには両親の意向が反映されていることはわかっていた。家庭によって内容の差があるとか、縛りがあるとか(我が家にゲーム機がクリスマスプレゼントとして送られることは絶対にない、とか)そういったことが起こり得るということについても割と納得していた。

面白いことに、例えば何か外のイベント(子供会とか英会話教室とかそういうの)で出てくるサンタクロースが「本物」ではないことはちゃんとわかっていたし、初めからその"想像上の赤服おじいさん"は想像上の存在なんだということは承知の上であった。嫌な子供だけれど、まあそういった「家以外での」サンタクロースは絶対に自分の本当に欲しいものなんてくれなくて、せいぜいお菓子を配ってくれるだけなので、全くありがたみを感じなかったせいだろう。
それに対して、自宅にやってくるサンタクロースにはある種の可能性というか、ロマンがあったわけである。本当に欲しいものをくれるのではないかという期待。薄々は「欲しいと思っている物」はくれないんだろうな、と思いながらも、神に祈りをささげるようなつもりで様々脳内で念じたうえで朝を待つわけである。
非常に残念な子供だったので、「サンタクロースに欲しいものを手紙に書いて送ろう!」という発想に至らなかったのが惜しいところだ。手紙を書いて両親に託していたら、どうなったんだろうか。あの時欲しかったゲーム機やらカードやら本なんかをプレゼントするということになるのだろうか?
世の中の、別の家庭のサンタクロースには、手紙を書いたらその通りにプレゼントがもらえたのか非常に気になるところである。またその手紙に書かれた希望通りではないプレゼントを贈る場合は、子供へどんな話をするのだろうか。
たぶん私が手紙を書いていたら、小学校の中学年くらいであればゲーム機だとかそういう「(教育上我が家で禁止されていたものの)一応手に入るもの」を書いていただろうけれど、新聞の朝刊に一緒に入ってくる不動産の間取りのチラシを見るのが好きだった低学年の私は下手すると「庭付きの一軒家」とか書きかねないし、まあどうしたって両親は困ったんだろうな。