言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

汽水とシジミ

 


汽水。それは河口や海の近い湖などでよくみられる、海水と淡水が混在しているような液体のことである。要するに中途半端にしょっぱい水みたいなものだ。舐めてみるとわかるのだが、海水のように明確に塩辛さはなく、あとから地味に広がる塩分……というかプールの臭いに塩味を添加したような、そんな感じの味である。

中途半端な塩水というのは実に美味しくない。夏場、スポーツドリンクをいつも粉から作って運動しに行くとしよう。その粉があいにく品切れになってしまったので仕方がないので水を持っていくしかないのだが、それでは塩分が摂取できない。ならばいつもスポーツドリンクを作るのと同じ要領で、だいたい同量の塩を溶かして持っていこう。それで出来上がった水は薄い食塩水である。砂糖やレモンあるいはクエン酸の類は添加せずに作った薄い食塩水。

これ、途方もなく不味いのである。先述したように、プールの臭いに塩味を添加したような、そんな不快感が舌の上やのどの奥に残る代物なのである、これならば水と塩を別々で摂取したほうがずっとずっと良い。何なら水を飲んで梅干を食べて、とかすればそれでいいんじゃなかろうか。何にせよ炎天下であればそんなものは地獄でしかない。美味しいとか美味しくないかより水が飲みたいような環境で、肝心のその水が途方もなく不味かったら。それこそ旧教区選択と言わざるを得ない。

昔読んだ「美味しんぼ」では、塩だけで美味しいお吸い物が作れる! という話もあったが、あれは熟練の職人ならば適切な塩加減が指先でわかるので、ある特定の量をきちんと入れればダシを取らなくても美味しいお吸い物が作れる、という話である。つまりまあその奇跡のバランスとかを偶然それこそ奇跡的にでもぶち当てない限りは、美味しい塩水ができるわけもないのだ。


汽水というのは、そういうわけで舐めてみるとあまり美味しくない、そういうものである。人工的に作り出した食塩水と違って、自然に作られた淡水つまり河川などの水と、それから海水が混ざってできたものなのだ。そこで暮らす生物にとっては、2つの異なる性質の水が混ざり合ってできたこの汽水域は、プランクトンなど栄養になるものが豊富であるため、かなり良い空間であるらしい。人間が舐めて「うわ不味い」となるのは、そういう「雑味」が変に混ざっているからなのかもしれない。

面白いもので、淡水と海水というのは単純には混ざらず、塩分の濃い海水の成分は下へ下へと潜り込んでいく。その反対に淡水は海水よりも軽い。そのため、場所によっては淡水と海水がはっきりと層になっているような場所もあるのだという。単純に混ざり合うことはない淡水と海水だが、海水のほうが重いため、淡水とぶつかったときに下へ沈む力が働くことによって、海水と淡水がぐるっとかき混ぜられるような事象が発生する(鉛直運動とか鉛直混合というらしい)。これにより汽水域が発生するのだ。ちなみに淡水と海水で「層」になるような場所が発生しうるのは、この「水のかき混ぜ」が発生しにくいような場所であるという。混ざらなければ分離する。混ざれば汽水となる。そういうわけだ。

汽水域の塩分濃度は海水に比べて低いわけだが例えばシジミなんかはそういった空間でないと生息できないらしい。淡水域に生息する種を除いては、塩分がなければなかったで生息できず、また海水ほど濃いとこれまた生息できないらしい。だから、海とほとんどつながっている宍道湖十三湖サロマ湖網走湖あたりでよくシジミが採れるのだ。
そんなシジミだけれど、最近はインスタント味噌汁の具材として、普通に常温でその辺のコンビニで買えたりする。付属の味噌を入れてお湯を注げば蜆の味噌汁の完成という、非常にお手軽な製品だ。この手の商品では、シジミ真空パックに保存されていることが多い。パックになっているシジミを取り出したとき、あの汽水的な何とも言えない貝のにおいがする。うっすらと生臭いような感じさえする。ところがほとんどの場合「美味しさを損なうので洗わずにそのままお湯を注ぐように」というような注意書きがあるものである。
半信半疑でそのまま味噌を入れてお湯を注いで食べてみると、不思議なもので全然生臭さは感じず、それどころか貝のうまみとなって表れるのである。袋を開けたときのにおいさえ気にしなえれば美味しく食べられるのだ。そんなに強いにおいではないし、鼻を近づけてかがなければわからないくらいのにおいである。

汽水(の味)は嫌いだが、汽水に住むシジミは美味しく感じる。面白いものだ。

そういうわけで最近は、女満別に行ったときに買って帰ったシジミの味噌汁を飲んだりしている。シジミなのにアサリのごとく大きいシジミである。買ってきてよかった。