言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

行った場所の話

去年の6月に「行きたい場所」について書いた記事があるのだが、そんな事はもうすっかり忘れて半年以上の月日が経ってしまった。今更ながら読み返して見ると、なるほど中身は忘れていもさすがに自分の手で書いた文章である。結構実現していて面白いものだ。

fwbc0416.hatenablog.com

 
優先順位が一番高かった宇治への旅行は、秋に実現した。とんでもない旅行だった。平等院鳳凰堂以外にまともな観光はしていない。ずっと『響け!ユーフォニアム』のアニメ映像と比較しながら同じ場所同じ角度で写真を撮ることに執心していたからだ。逆に言えば、本編で出てこないのに訪れた場所は泊まったホテルと平等院鳳凰堂くらいなのだから、いかに平等院が偉大かということだ。もっとも、平等院も「10円玉の聖地巡礼」と言えなくもないので、どうしようもない。そういう性なのだ。天ケ瀬ダムまで往復3キロくらい歩いてみたり、黄檗駅から1キロくらい丘を上って舞台になった高校のあたりまで歩いてみたり、三室戸駅近くの宇治川の水道橋の下に座ってみたり、さらには明かりの全くない大吉山に真っ暗になってから夜景を見に行ったりととにかく歩いた旅だった(この日3万5千歩を記録している)。さすがに足が疲れたものだ。
そういう旅行も実によいものである。

宇治の次に挙げられているのは稚内である。日本最北端の地。先の記事にも書いたが、稚内も検討はしたのだが、いろいろ考えた挙句稚内ではなく根室なった。本土最東端という場所である。
前日夕方に根室に入り、当日は車を借りて納沙布岬に行ってきた。そのまま釧路まで戻って、駅前の和商市場の牡蠣を食べて当たって腹を壊した。蒸牡蠣なのにたぶん蒸しが甘かった。だって味が生だったから。

納沙布(ノサップ)岬と野寒布(ノシャップ)岬とでは前者が根室で後者が稚内である。紛らわしい。ちなみに納沙布岬は本土最東端だが、野寒布岬の方はこれまた間違いやすいのだが本土最北端ではなく、宗谷岬が最北端である。
稚内根室もどちらも行きたい場所だったので、結果的に根室が先になっただけで稚内もそのうち行く事になるだろう。ただ、特急宗谷に乗りたいという願望があるので、その兼ね合いが大変である。7時半札幌発、稚内12時40分着。下りはこの一本だけなので、前の日に札幌に入ってないといけないだろうしうまく日程を合わせないとと思ってずるずる行けずにいるのが実態だ。とりあえずこれは夏あたりに行こうと思っている。


そして宇治、稚内以外にとりあえず名前だけ挙げた場所がいくつかある。書いた中で、南伊豆(雲見をカウントしていいかはかなり微妙だが一応)、函館、台湾は行く事ができた。只見や徳島は行けていない。只見はともかく、徳島は実はかなり前から考えてはいるのだが、どうも実現しておらず、今年こそは、という思いでいっぱいである。

47都道府県で宿泊をしたことがない残りの県が2つだけあって、それが徳島と香川なのだ。どちらも足を踏み入れたことはあるが、寝台特急サンライズ瀬戸で早朝に到着して、泊まりは高知だったので宿泊してはいない。徳島と香川の2泊3日の旅、これをしてしまえば全県宿泊制覇となるので、これこそさっさと済ませるべきなのだろう。2019年、今年はまずここから始めてもいいかもしれない。

そういえば、全国に53か所展開中のコンフォートホテルの制覇もじわじわと無理はしない程度に進めているのだが、
釧路、北上、仙台西口、山形、天童、郡山、前橋、成田、岡山、呉、新山口、小倉
とこの12か所なので、22%制覇とまだまだである。コンフォートホテルの方をライフワークと呼ぶのにはいささか抵抗があるが、気長に泊まって行けたらいいなと思っている。

 

今時そんな人って、いるんだね


ネットでよく見るトンデモ商品の広告を、本気で信じている人がいるのはまあまだ分からなくもないのだが、先日ついにそれを人に勧めている瞬間を見てしまった。
早い話がマルチ商法的なものの勧誘である。
デトックス効果のすごい高いサプリを飲んでるんだ」という言葉に、体調崩し気味の人が「どんなやつ?」と聞く。「これを飲んで私は4キロ痩せた」「血管年齢が若くなった」「ずっと体調がいい」「これを飲めばアレルギーも良くなる」と、どこかで聞いたことのあるようなテンプレートのような言葉の数々がずらずら並び立てられる。いやいやそんなのあるかよ、エビデンスを見せてみろよと思いながら聞いていると、話はさらに怪しい方向へと転がって行く。
そしてとうとう、さらなる定型句が飛び出してくる。「これは知り合いから買っているんだけど、すごくお勧めなんだ」だと。いやいや、本当にあるんだね、こういうのって。これ進研ゼミでやったことあるやつだ! という状況に近い。どんな誰でも最低限知ってそうなテンプレートに乗っているような誘い文句。しかもさらに聞くと、今度の金曜日に血管年齢を計るイベントがあるらしくて、そこには「すごい人」も来てくれるとか何とか。

役満、それもダブル役満である。このまま教科書に載せたいくらいの、素晴らしいくらいの怪しい勧誘である。
ここまで綺麗に話すのは初めて見たし、ついでに言えば勧誘された相手もかなり興味を持っていて正直引いた。テンプレ勧誘をする方もする方だし、引っかかる方も引っかかる方だ。
しかも「ネットでは検索しないで欲しい。ネットでは叩かれてるからね。でも、それは効果を信じてない人が買わずにアンチになって叩いてるだけだから。私はこれで実際痩せたしずっと体調もいいんだよ」とかなんとか怪しさ満点の言い訳を信じているしもうどうしたものかと思ってしまった。

これ、全く知らない人たちの話ならいいのだけれど、実は両方とも知り合いなので参ってしまう。仕事で関わりのある人たちなので、何なら私まで巻き込まれてしまいそうで最悪である。だから会話には混ざらずそっと距離を取って聞いていないふりをした。
100%の善意を持って勧めてきそうで本当に面倒くさい。

100歩譲って医薬品が出てくるのだとすればまだ良い。医薬品には一応効能効果が書いてあって、基準もあるものだから最低限の裏付けはある。あとは「効くか」「効かないか」の世界である。間違っても「信じるか」「信じないか」の世界ではない。プラセボという言葉があって、偽薬でも投与された人が薬と信じていれば良い効果が表れることもある訳だが、医薬品ならそのプラセボ込みの実験を経て効果を確認しているわけで、特に信じていなくとも効果は表れるものである。だからその時点で前提から大きく間違っている。

今時こんなこともあるのだなと思いつつ、今は火の粉がこちらにかからないようにするのみである。

学生の休みの日

正月休みとかって、学生時代の方が圧倒的に忙しかったように思える。年末年始はたいていアルバイトだった。大みそかや元旦はさすがに行っていなかったが、ここは人出がものすごい薄い時期であるので、短い時間でもシフトを入れてくれと懇願された覚えがある。小売業は大変だ。需要があるかどうかで言えば需要がある。それも私の場合はドラッグストアで働いていたもんだから、開いていない病院の代わりに薬を買いに来る人がそれなりにいて、まあそれでは店を閉められないよね、と多少納得はできたものだ。それでもこういう営業時間やら開店閉店なんてのは店に権限はなくて、最終的に上の方で「開けろ」と言ったら開けるしかないから小売りは大変なんだ。
大抵昨年の同月からどれくらい売り上げが伸びたか、で評価されるわけだから、一度年末年始の通し営業を行ってしまうともう元には戻れなくなってしまう。店舗単位ではどうにもならないから、大本営で一斉に休業を宣言でもしてくれないと大手を振って休むことなんてできないわけである。
世に言う「ブラックバイト」というやつはこういったタイミングで大学生なんかを店に縛り付けようとする。私のアルバイト先は決してアルバイトに対してはブラックではなかったので強要はなかったが、店長が不憫すぎて1月2日から店に出た事はある。結局こういうのって店長あたりとの信頼関係だよね、と思うわけで。扱いの悪い店長の時は言う事を聞きたくなくなるのも人間というもの。ならば逆もそうで、いつも良くしてもらっている店長のお願いは聞きたくなるものだ。

小売に限らず、製造業(とひとくくりにしていいのかわからないが一応まとめておく)の営業職なんかは、カレンダー通りに休みが貰えるとはいえ、休んだ分だけ平日に頑張らなければいけなかったりする。営業成績のノルマはまあ毎年同じような日数で行われているのでしょうがない点もあるが、毎月必ず80件訪問するだの何だのの余計なノルマを少ない日数でこなせと言われるのはアホらしい話だ。アホらしいけど本当にある話なのだ。
上記の例は特殊だとしても、休めば休むほど自分の首が締まって行くのは本当の話である。悠久なんて使ったらさらに同じことだ。マンパワーでなんとかしようとするとすぐに自分に覆いかぶさってくる。
長期休みは楽しみだけど、休みが開けた後が地獄だな、なんてのはきっと良くある話だ。悲しい。


この年末年始、ラーメンチェーンの「幸楽苑」が31日の15日から元旦いっぱいまで全店休業すると発表して話題になった。その告知の新聞広告も出た。

 「売上2億円を削ってでも、全店休みます」

手放しで喜べるわけではないけれど、こうして休む企業が増えてもいいと思っている。

働き方改革をしろと国に言われているから全員定時に退社しなさい(退勤とは言っていない)、とか、お前らが休んだおかげで下がった売り上げをどうするつもりなのか考えろ、とかそういうことじゃないんだよな。


そういえば、最近は大学の時間割もかなり休みを削って作られているそうだ。月曜日に祝日を集中させた結果、月曜日にある祝日は基本的に平日と同じように授業日としてみられるようになった大学は多いと聞く。GWなんかもそうだ。国民の祝日だろうと容赦なく授業日である。教授のお情けで休講になっても、1日1授業とは限らないので全員休みにしてくれない限りはやっぱり行かなければならないわけで。
文部科学省が授業のコマ数やらなんやらを定めているそうなのでそこが悪いんだろうけれど、そのせいで、シラバスには全15回と記載されていても、実際には11回しか授業スケジュールはない……なんてパターンはざらになってしまっている。公式資料には建前のコマ数、でも実際はその通りには行わない。だいたい半期に15回本当にやろうとカレンダーに当てはめたら補講が3回くらい必要になるとか馬鹿みたいな話もあるし、これはこれでかなり形骸化しているものだとはっきり分かってしまうものになっている。
ようするに制度を作ったりしたおかげで最終的に授業を行う個々人の裁量に任されてしまっていて、学生はそれに振り回されるという事になるわけだ。

年末年始や休みの日はアルバイト、祝祭日は授業、就活も早まったり長引いたりで、もういつの時代も意外と大変なんだな、と思わされるわけである。

 

初詣とおみくじ

 

お正月と言えば初詣、初詣と言えばおみくじだろう。おみくじにはいろいろ作法があるし、いろんな習慣があるので一概に言えないが、私の場合は新年のこのタイミングにだけおみくじを引くことにしている(もちろん例外はある。出雲大社に行ったとかそういう場合なんかは2回目だろうと引く)。
と言っても、そんな大層な信念やら信心やらに基づいているがゆえのことではなく、ただなんとなく何度も引くのは何だか負けた気がするというだけの理由だ。

さだまさしの「飛梅」の歌詞にこんな一節がある。


  手を合わせた後で 君は神籤(みくじ)を引いて
  大吉が出る迄と も一度引き直したね
  登り詰めたらあとは 下るしかないと
  下るしかないと 気付かなかった 

とまあそういうこともあって、大吉がでたらでたでそれはひと喜びしてそれで良し、それ以外が出ても引き直したりせずに受け入れよう、と。そういうわけである。
もっとも、このところはずっと吉とか小吉、末吉なんかが続いていて、引いた時のリアクションをどうしたらいいのか難しいので、たまにはどちらかに振れた者が出てくれてもいいと思う。


このおみくじの「大吉」や「凶」らの出る確率というものは、その神社によってかなり差があるものだ。ここ10年くらいで毎年初詣行っている神社(電車で15分のところ)は、わりと大吉や凶といった極端なものは比率が低い。わりとオーソドックスなタイプだと思う。最近では凶なんかは少なくしてあったり、さらには出さないといった神社もあるという。それだけおみくじの影響力は計り知れないものなのだ。

そういったおみくじの「信奉者」を追い込む「凶」や「大凶」比率の高い神社と言えば鎌倉の鶴岡八幡宮である。あくまで体感だが、あそこはかなりおみくじの内容が「厳しい」。かくいう私も大凶を引き当てたことがあるのは鶴岡八幡宮においてのみである。書かれている内容も結構厳しくて、吉や中吉でもチクリと警告を入れるような文が載っていたりする。新年早々気を引き締めなさいよ、というタイプのおみくじだ。知らずに引いたら結構びっくりする人もいるだろうし、そういった所でもあっさり大吉なんかを引いてしまう猛者も存在する。そういう人が運がいい人というのだろう。私だって出来れば大吉を引きたいけれど、ガチャを回す感覚でおみくじに挑んだって1つもいいことなんかないのでそれはやらないでおいている。


そんな厳しい鶴岡八幡宮だが、世の中にはこの真逆を行く、というか、おみくじの概念が少々変わっている神社も存在する。
近年足を運んでいないのでどうなっているのかわからないが、地元の有名な神社がそれだ。
そこは新春夢みくじと題して、おみくじの結果によって粗品をプレゼントしてくれるおみくじがあったのだ。まずおみくじを引く。大吉が出たら、プレゼント抽選に移ることができる。特賞はハワイ旅行とかで、それ以外にも電動自転車とか、ゲーム機だとかがある。
つまりおみくじはおまけなのだ。つまり、大吉を引くことができなかったらその時点でプレゼントをもらう権利はない。

これ、おみくじとしてはどうなんだろう。と思ってしまうのだが、実際問題子供の頃はずっとそのおみくじを引いていた訳だから、まあ別にいいんだろう。システム上、大吉の確率は非常に高かった(体感4割くらい)し、その上ちょっとした粗品をゲットできるチャンスがあると来ればやりたくなるものだ。神社で射幸心を煽ってどうするのだという気持ちは拭えないが、毎年あれを楽しみに参拝する人が沢山いたのだから、戦略としては大当たりなのだろう。

最近その神社に行かなくなったのはあまりにも初詣の参拝客が多くなりすぎてしまったためなのだが、今年くらいは様子を見がてら行ってみた方がいいのかな、と思っている。もう三が日は過ぎてしまうので、初夢みくじをやっているかどうかを確かめられないのだけれど。

正月太り

あけましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い致します。


さて新年早々こんな話題で申し訳ないが、切実な問題であるから語らせて欲しい。
お正月は本当に太りやすいのだ。というかかなり太る。もともと食事量は多い方ではあるが、それがお正月ともなると、一気に量が増えてしまうのが大きな原因となり太ってしまうのだ。

お正月はおせち料理を始めとした豪華な料理が食卓を飾る。たまにしか会わないような親戚が着たりして、お酒を飲みながらわいわいと食べて行くわけである。いわゆる宴会のように大騒ぎにならない我が家の正月はまずひたすらカニを剥いて食べることから始まり、その後はおせち料理をたらふく食べ、刺身なんかをつまみ、デザートにみかんや干し柿を食べ、チータラとかポテチみたいなお菓子をつまみ、お年賀のまんじゅうやらせんべいを開けたり、最終的には化らつきの落花生が出てきたりととにかく食べるお正月である。騒いだりしない分良く食べる。そして食べ過ぎる。

2日になれば電車に乗って初詣に出かけるのだが、その帰りはいつも決まった店で食事をして、帰ってきてお茶を呑みながらお菓子を食べる。そして夕飯も普通に食べる。3日は今度は母方の祖父母の家へ行って寿司やらピザやら食べて、飲んで、またおかしが出てきたり……。食べてばっかりの三が日だ。

原因はやはり火を見るより明らかなのである。1日やそこらではなくて、毎日食事量が多い。さらに言えば間食も多い。だんだん身体の方が沢山の料理を受け付けられるようにしてくれているのか知らないが、満腹を感じにくくなってしまうから恐ろしい。
よく大食いの人が「胃が大きくなる」とか言っているのを聞くけれど、そういう感覚なんだろう。一度許容してしまうと、それが容易に元の大きさには戻らない。お正月だから、お祝いだからとたくさん食べて閉まったら最後、普通の一人前の量で物足りなくなってしまうように思えてきたら正月太りの幕開けである。三が日が終わって普通の食生活の戻ったところで、別に食事量が極端に減るわけではないのでそのままずるずると太って行ってしまう良くないスパイラルである。

この下地は間違いなく年末に作られている。忘年会だ。そもそも飲み会というのは揚げものを食べたりおいわいのけーきなんかを食べたり、さらにはお酒の力で食欲が増進されて過剰に食べ過ぎてしまっていたりするわけである。間違っても痩せる要素は存在せず、帰り道で締めのラーメンなんて食べてしまった日には目も当てられない。忘年会シーズンはこれが続くから良くないのだ。たまにならいいのにいつもになると身体が「重く」なる原因となる。

そしてお正月にドカ食いする下地が整っているので食べまくり、そのまま今度は新年会シーズンの到来だ。忘年会ほど過密スケジュールで行われることはないが、そもそも正月太りの身体に追い打ちをかけるのにはあまりにも十分すぎるわけだ。
1月末くらいになるとだいたい後悔して痩せる努力をするのだが、今年も懲りずに既に元旦のドカ食いをやってしまっている。座り仕事で痩せる要素がさらに薄いというのに、これはもう、どうにもならないね、と今からすでに現実から目をそむけている真っ最中である。

 

大晦日

年末、特に大晦日は色々な思い出があるけれど、私はなんだか大晦日に締め切りを設定してものを書いたりするような事が多く、「今年のうちに書き切らなきゃ」という気持ちでいる事が多かったように思える。たぶんそれはいいことなんだろう。

だいたいいつもこの時期というのは冬休み期間であるから、創作意欲が湧いてくるのだろう。私としては、いろいろイベントもあるし、環境が変化したりしたものが一区切り付いて、さあ振り返ってみようかな? となりやすい。だからクリスマス終わりくらいから書き始めて、今年のうちに終わらせたいというような意識が働くのだろうだから大晦日を締め切りに設定しがちなのである。今年の文章は今年までに。もっともらしく自分を納得させモチベーションを上げることも必要なことだ。

 

物事は締め切りがあったほうが捗るものだけれど、特に大晦日というのは効果が高いぎしてならない。今まで書いたものの中で、この時期に書いたものが一番良いものになる。それは何故なのだろう。

ちなみに、同じ長期休みのある夏、お盆はあまりこういったことはない。お盆は旅行に出かけているからそもそも何も書いたりしないというのもありそうだ。年末は出かけても、大晦日の夜なんかは大抵家に居るから、書きやすい。きっと理由の1つにはそう言うこともある。

あとはまあ年末になるとなにか今年のことを思い出してものを書きたくなるものだ。特にそういうつもりは意識になくても、しばしば総括的になる。今年は~とか来年は~とか、まあタイミングがいいというのもあるけれど、色々なことを思い出すのにこの時期が最適なのだろう。

やはり大晦日には色々な思い出がある。特別な思い出もたくさんある。年末はなにかと忙しくてあっという間に時間が過ぎていくけれど、ここでちょっと一息入れて、そうして新年を迎えるのである。

 

今年の大晦日に向けては特になにも書いてないので、強いて言うならまさにこの文章だけを書いている。だらだらと続いてきているけれど、元々、しばらく物を書くと言うことから離れていたからそのリハビリ目的で文飾を書く感覚を取り戻したいと始めたブログだった。いつのまにか随分と続いてしまって驚きである。こんなに習慣化するとは思わなかった。

いつかまた、大晦日に向かって物語を書いたりする日が来るのかもしれないけれど、それはまた別のお話になりそうだ。

かつてそうやって書いた物語を、同じように大晦日に向けて物語を書いた人と交換しあった事があった。その時間はとてもかけがえのないものであった事を今でも鮮明に覚えている。いつかまた同じ事が起こるとは思ってはいない。けれども、やっぱり何かを書くって面白い。いろんなアイデアや物語を思いついたとしても、それを作り上げて完結させていかないと意味が薄いから、だからこうして少しずつでも書き上げて積み重なっていけばいいんだろうな、と思っている。決してまとまっているような代物ではなかったとしても、だ。


今年は色々あった、来年はこんな事をしたい。抱負なりなんなりを述べて締めればいいんだろうけど、あいにくそういった高尚な言葉は思いつきそうにないので、まあ来年もきっとこんな感じで進んでいくんだろうな。

 


良いお年を。

また来年もよろしくお願いします。

フットサルと運動不足

日頃からものすごい運動不足な私だが、先日なんと一緒にフットサルをやらないか? と誘われた。聞けば参加者は皆座り仕事を日々こなす面々であるということで、「これならちょうどいいのでは?」というわりと浅はかな思いでその誘いを快諾したわけである。

考えてみれば、私がフットサルをやるのは実にぶりであった。あのときも誘われて大会のような物で出場したわけだったが、やはりその頃から運動不足だった私はものの5分ですっかりバテてしまったという記憶がある。インドア系サークルのメンバーとしてフットサル大会に出場したというだけですごい話だが、相手は運動部……と言っていいのかよくわからない釣りの専門のサークルだったわけで、そう途方もない話ではなかった。だがほぼ全員のメンバーが開始5分で戦力外になったことも手伝って試合はわりと普通に2点くらい取られて負けたのを覚えている。

フットサルはそんなわけで、すぐ疲れるものだというのは分かっていた。でもまあ、それくらいは運動にはつきものである。翌日以降の筋肉痛だって、動けないほどのものではないだろう。だからもう、当日の私はそれはそれは馬鹿みたいに全力で運動してしまった。

過去から何も学ばない。あまりに愚かである。

それでまあ、すぐにバテるのは想定内であったが、呼吸が苦しくなるのは本当に想定外だった。走りすぎて足が疲れるとか以前に、息が上がってしまって戻ってこれない。その日がものすごく寒かったということも手伝って、大汗をかいているのに、同時に喉の奥に痰が絡まってしまっているような違和感を覚え、あっという間に息が上がったのも手伝って呼吸が苦しくなる。
完全なオーバーワークであるが、まさか肺活量とかそっちの方が影響して先にダメになるとは思ってもいなかった。
あっという間に戦力外である。

人工芝が濡れていたのでやたら足もとが滑るし、疲れて足がもつれるのでただでさえ不器用な私がすっかりお荷物である。ついでに相手は知らない人たちだらけだし、全員年上だったからラフプレーをするわけにもいかず守備すらもどうにもならない。真っ直ぐ走るのだけは普通に速くできるので、ドフリーでボールをもらった人を抜き去って驚かすくらいしか後半はやっていなかった。追いつくとかじゃなくて抜き去るだけである。だって止まろうとすると滑るし、ボールを取りに行くと勢い余って危険タックルになりかねなかったから。

ちなみに翌日からちゃんと筋肉痛はやってきたのだが、なぜか足よりも腕が痛い。フットサルだし、腕は使った覚えがないのになぜか腕がかなりの筋肉痛である。何をして筋肉痛になったのか。全く覚えがないのである意味これはこれで恐ろしい話であるが、何度か派手に転がったからそれがいけなかったんだろうな。足は旅行とかでも使うのでまあまあ丈夫だが、腕は本当に貧弱なものである。ライブでサイリウムを振りまわした翌日は筋肉痛である。そういうものだ。
そういうものなのだ。

何もしないと本当に衰えて行くんだな、という恐ろしくも哀しい話である。以上。

通勤のストレス

最近、通勤のストレスってバカにならないな、と改めて思うようになった。特に朝の通勤ラッシュがそう。


車通勤の場合と電車通勤の場合があるが、ここはひとまず電車の場合を考えて欲しい。

 

通勤時間を考える時に考慮されるものと言えば、トータルの乗車時間である。通勤に関わる電車の乗車時間が1時間半を越えれば、住宅手当を支給するというような会社もあるわけで、やはり一番わかりやすい指標であるのは間違いない。

ただその乗車時間というものは、乗り換え検索などで算出されるわけだが、ひとまとめにその結果の合計時間の数字だけを見るのは危険だと私は思っている。

 

例えば、通勤時間は最速1時間であるが、極めて混雑の激しい優等列車(快速とか急行とかの類)に乗らなくてはならない場合。座席に座れる望みは限りなく薄く、ひたすら我が身は流されるがまま。これはかなり辛い。各駅停車のような混雑が多少緩和される列車を使うとなると、さらなる早起きを強いられるとなればかなり通勤時間は辛いものとなる。混雑が激しい路線は遅延も良く発生するし、出社する頃には疲れ果ててしまう。これは以前の私がそうだったのだが、さらに途中駅で乗り換えなどが絡んで合計1時間……となると、実際問題1時間では出社できないし、1時間半くらいの長い長い苦行に耐えなくてはならない羽目になる。

これで「もっと遠いところから来ている人もいるんだから頑張らなきゃ」とでも思えればいいのだろうけれど、あいにくそうできた人間ではないのでひたすら己の境遇を呪うだけになってしまうわけである。


だから昨今、通勤ライナーのように「追加でお金を払えば必ず座れる列車」が私鉄各社で増えているのもわかる話である。お金を出せば多少楽ができるなら乗りたい。そう思うのは自然な流れだ。通勤のストレスはできるだけ減らしたい。平日毎日毎日疲れていて、それで朝からヘトヘトになりたいなんて思わない。


意外な落とし穴としては、座れるには座れるが、乗り換えを複数回する必要がある場合である。先ほどの例に比べれば楽なのだが、複数路線が絡むと遅延等が発生した場合の影響が馬鹿にならなくなる。遅延証明書には5分だとかそれくらいの時間しか書いてないので言い訳もしにくいしいいことはない。


乗り換えは少ない方が良い。乗り換えという言葉の中には、例えば山手線から東海道線というような他路線の乗り換えだけでなく、各駅停車から快速に乗り換えるようなそう言った「緩急接続」もまた愉快なものではない。大抵の通勤路線は優等列車の方が混雑している。だから早い列車に乗らざるを得ない路線はなかなか大変だ。

各駅停車は何本か早い列車に抜かされる。その回数が多ければ多いほど優等列車に乗り換えた方が早く目的地に到着する。そうすれば家を出る時間を遅くできる。始業時間の早い会社などでは死活問題である。比較的ゆっくりでよければ「すし詰め乗車は嫌だから早めに出て各駅停車で行こう」という気にもなるが、その10分とかの時間を捻出すべく早起きするのは嫌、という時間帯であればもう乗るしかないのである、すし詰めになりながら。


鉄道会社はこのところ「オフピーク通勤」というのをよく推奨している。乗客の集中しすぎない時間帯に通勤してくださいね、という話なのだが、果たして自分がそれをできる環境にいるのか?という話でもあるわけで、なかなかうまくはいかない。早起きは嫌だが遅刻はしたくない。なら早い電車に乗る。皆同じことを考えているからか、ピーク時の混雑というのは変わらず存在している。ストレスでもなんでも他に優先しなきゃならないことがあるからだろうか。私は睡眠の方が大事だからそうやって通勤していたけれど、結構そんなもんなんだろうかな、みんな。


ちなみに、車通勤というのもした事があるが、私個人の感想としてはあれはもうやりたくないというのが本音である。

電車のように、例えどんなにぎっしりすし詰めだったとしても、眠い目をこすり大渋滞の首都高を運転して会社に向かうのはもうごめんだ。事故らなかったのが不思議なくらい。


通勤のストレスというのはつきものだけれど、だからこそできるだけ軽減できないかと日々戦うわけである。

毎日お疲れ様です。

 

年末の買い出し

近年ずっと年末は忙しくて家にいない年が続いている。理由は明白で、大学生の頃は冬になれば「冬コミ」という名の戦場に出かけており、社会人になったここ数年は年末は旅行をsディているからである。無論、どちらの場合も31日にはさすがに家に帰る。家に帰ってやらねばならない仕事があるからだ。一家総出できんとんづくりをするという、他家から見たら「なんじゃそりゃ」という大事な仕事があるからである。おせち作りではない。おせちに匹敵するものは、例えば煮物とかは祖父母が作ってくれるのだが、なぜか「きんとん」だけは一家総出(叔父なども含めて10名で行う、よく考えると意味がわからない)の行事となっている。なんでか知らないけれど、きんとんをでかい鍋2つ分も作って食べまくるのだ。我が家はおかしい。そのために大晦日に大集合するのだからそれはそれでいい事なんだろうけれど。

晦日にはそうやってきんとんを作る謎行事があるわけだが、それとは別に、買い出しに出かける日がある。年末はほら、上野のアメ横あたりが大混雑している様子がテレビで取り上げられるけれど、そういうあれである。ただし我々の行き先は上野ではなく、三浦半島の先っぽの三崎港である。
買い出しは専ら叔父の役目だ。なぜなら車を持っているのが叔父しかいないから。私は良くそれについて行った。少年時代の私は今以上に車酔いするたちで、車に乗るのは出来る限り避けるような生活をしていたが、この時ばかりは喜び勇んで同乗したものである。
それはなぜか。簡単な話だ。買い出しの荷物持ちという名目で付いて行けば、美味しい三崎のマグロが食べられるからである。年末のご褒美のような感じである。

だって、買い出しといっても重いのは葉付きの三浦大根くらいなものである。それだって運ぶのは市場と駐車場の間だけで、あとは冷凍のマグロを買って、いいタコがあればそれも買って、酒のつまみになるようなエイヒレとかそういうのを買って……と大の男が二人必要な大した荷物になんてなりはしないのだ。
買い出しという体でマグロを食べに来ている。そういうわけで、いそいそと買い出しを終わらせて、あとはゆっくりマグロ尽くしでも食べて帰るのである。それもただのマグロじゃない。マグロ尽くしだ。マグロの皮の天ぷらやマグロの卵の煮つけ、内臓の酒盗なんかでごはんをたらふく食べるのだ。素晴らしい。自分が社会人になってから改めて値段を見ると申し訳なくなるくらいいいお値段(1人4千円とかする)お店に連れて行ってもらえるのだから、まあ味をしめて毎年行くよね、と。

今年も私は年末家にいないのでマグロ尽くしは食べることができないのだが、いつかまた叔父と一緒に行って、その時は私が叔父に御馳走しないとなぁ、なんて殊勝な事を考えているけれども。
それはいつになるのやら、今のところはわかりません。

 

プレゼント交換

プレゼント交換というのをやったことがあるだろうか。みんなで1つずつプレゼントを持ち寄って、ランダムに受け渡しを行うというもので、どういうわけだかクリスマスのイベントでこれを行うことが多い気がする。私だけかと思って「プレゼント交換」でGoogleにお伺いを立ててみたところちゃんとトップヒットがクリスマスだったので安心した。
誕生日プレゼントでも悩むものだが、クリスマスプレゼントを用意するとなるとそれはもう悩ましさに拍車がかかるわけだが、さらにプレゼント交換として誰に渡るのかわからない状況でのプレゼント選びというのは難しすぎて困ってしまうものである。
想像してみて欲しい。クリスマスソングに合わせてプレゼントをぐるぐる回していく、あのプレゼント交換を。ぐるぐる回していくうちに曲が止まって、そうして誰かが私の買ったプレゼントに当たるわけだ。その時の相手の反応が問題である。「うわーすごい!」これなら万々歳だ。プレゼントとしては最高の反応である。「うわーなんだこれやベーぞ!」これでも良い。イベント的には大外れでも盛り上がればそれでもまあ良いだろう。だが例えば「あっ、ああ……」みたいな微妙な反応、これが一番気まずい。自然「これは誰の選んだやつだ?」という話になるわけで、それはそれは気まずいものである。この塩梅が非常に難しい。難しすぎて私は無難に無難を重ねてマグカップを買って包んだ記憶が残っている。12月のクリスマス一色の「LOFT」の店内で、ああでもないこうでもないとうんうん唸りながら決めたものだ。ハードルが高すぎる。
そういう意味でLOFTには非常に助けられたものである。高校生くらいのときは何かあるととりあえずLOFTに行っていた。プレゼントそのものを探しに来るよりも、どちらかというとそれを包むための袋とかラッピングだとかを買いに行くために使っていた。

プレゼント的な物は大抵、買った店でラッピングをしてもらうことができる。でも、それだけではなくて、自分でラッピングをするという手段もあるわけだ。中身で勝負する前に、見た目をそれっぽくするだけでもなんとなく雰囲気ができるものだし。

最近怠惰に逆戻りしている私はあまりやらなくなってしまったのだが、プレゼントを自分でラッピングするというのは案外プレゼント選びの際の選択肢を広げられることにもなるので、ここぞという時ほどラッピングは自分で行うようにしている。
まあ単純な話で、自分で包めば他に何かを付け足すのが容易だからである。クリスマスならクリスマスカードとか、そういうのを「仕込む」のには自分でラッピングするのに限るわけである。あとは、小さめのものを複数購入した場合や、プレゼントにおまけ的な役割の物を付ける時のも同じことが言える。手間だけれど、貰った時の感じ方や、細かく二つ手渡しするよりもまとまっていた方がお互いいいよね、という点からも、この手法はすごくいい方法だと個人的には思っている。
もちろんこれは完全に人から教えてもらったやり方である。LOFTでの買い物に付き合った時、ラッピング用品を買っていたので聞いたら上記のような事を教えてくれた。そしてすぐに真似をした。そういうわけだ。

ただ1つだけ困っているのは、12月にLOFTに行くと延々クリスマスソングが大音量で流れていることである。そのせいで、最近カラオケで友人が歌ったクリスマスソングに「あ、LOFTの曲だ!」という反応をしてしまい笑われてしまった。