言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

冬至

この季節どうしてもクリスマスに意識が行くが、明日はそう冬至なのである。日の出から日没までが一年で一番短い日、つまり一年にで一番昼間の短い日というわけだ。
お風呂にゆずを浮かべてゆず湯としたり、カボチャや小豆、群馬ではこんにゃくを食べる日でもあるという。結構地域の色のある行事であるが、これが特に日本だけでなく諸外国でも冬至(winter solstice)という言葉はあるし、ヨーロッパでは冬至にはお祭りになるという。

ユニークなのは中国の北の方で、冬至の日はみんなで餃子を食べるという地方もあるらしい。中身にお金を仕込んでおいて、それを引き当てた人は幸福になれるとか何とか。いろいろあるもので面白い。元々は羊肉と唐辛子や生姜などの香辛料と共に煮込んだものを小麦粉の皮で包んだのが餃子の始まりで、冬至に餃子を食べれば凍えなくなるという話が伝わって広まったという。

ここからが本題。「冬至」という呼び方についてずっと気になっていることが1つある。それは南半球ではどう呼ばれているのか? ということである。

季節が逆である南半球では夏真っ盛りである。一年で一番昼間が長い。じゃあ昼間が長いのだから夏至と呼べばいいのだろうか? それとも冬至冬至で季節だけは夏だということになるのだろうか?
明日を冬至と表現すべきか夏至と表現すべきかは諸説あるらしい。暦はあくまで北半球の視点で付けられている。なので、全世界的に冬至の日はこの日である、と定められている。時差もちゃんと加味されていて、今年のイギリスでは冬至は21日に迎えることになっていて、そこから9時間加算して日付をまたぐので明日が日本の冬至というわけである。季節だけならまだ良かったが、日付まできっちり決められているので、それならこれを南半球ではどう考えたらいいのかという話だ。
単純にこれが季節云々の話で済むなら夏至と呼びたい。文字的にも違和感は特にない。「もうすぐ夏至だ、すっかり夏が近づいたね」と言うところを、「日本はもうすぐ冬至だ、すっかり夏が近づいたね」とするとややこしいけれども、例えば南半球オーストラリアあたりでこのセリフがつぶやかれているのであれば別段おかしく感じることはないわけだ。
ところが冬至夏至も日付が決まっている。となると面倒くさい話で、季節の定義的には明らかに夏、つまり夏至と呼びたい所なんだけれども、北半球基準で考えると冬至だよ、という訳のわからない話になる。ややこしいけれど、暦もそうだが天文学とかにも使われていて、太陽は「冬至点」を通過する日だということになっている。
これはどう考えても名前を付けた時には地球が丸いなんて思われていなくて、なおかつ北半球とか南半球とか季節が違うとかそういう事は全く考慮されていないと、そういうわけである。

もっともオーストラリアや南アフリカなんかでは柔軟に考えて呼称していてもおかしくはないだろう。いくら12月でも暑ければ全土で夏至的な呼称をしてしまえば済む話だろうし。ただ南半球、特に南太平洋あたりには結構イギリス領やフランス領の島々があるけれど、こういったところではどうしているんだろう。どうでもいいことだろうけれど、ちょっと気になる話だ。
南半球での夏至冬至問題については軽く調べてみたけれど、特に明確な回答が見つからないので、知っている人がいたらこっそり教えて欲しい。単純に気になるので。

クリスマスツリーの準備

会社にはクリスマスツリーがある。高さはたぶん2mくらい。だから天井のすぐ近くまでてっぺんの部分がにょっきりと立っている。もちろん手は届かない。

もうすぐクリスマスだからということで、クリスマスツリーの飾りつけをするようにとの命が下ったのは先日の事。面倒くさいなと思ったが、業務時間を使ってやっていいよと言われれば話は別だ。私は喜び勇んで組みたてに参加した。頑張りすぎて30分サビ残をしてしまったほどだ(気づいたら普通に定時を過ぎていた)。

家にもクリスマスツリーはあったけれど、一生懸命組みたてて飾りつけをするのは大抵父の仕事だった。そりゃあ幼い頃は一緒に飾りつけをしたものだ。でもまあ、だんだんと興味がなくなってくるというか、面倒くさくなって、一生懸命はやらなくなった。というのも、父はそれこそこういった行事ものが大好きで、一生懸命張り切って飾りつけなんかをするんだけれど、「美しくない」とか「バランスが悪い」と注文がつくのでややうるさいのだ。気持ちはわからなくもないけれど、面倒くささには勝てず適当にやってしまうのでなおの事口出しが入るわけである。そういう攻防を経て、何日か時間をかけて飾りつけが完成するわけである。部屋を真っ暗にして電飾の電源を入れる瞬間は綺麗なので、その時だけはなんとなく今年もクリスマスが来たな、という気持ちになるので、なんだかんだ言えどもそれはそれでいいものである。

家のツリーこそ適当でも良くて、会社のツリーなんてそれこそちゃんと飾らなくては、と意気込んで飾りつけをしていたのだが、どうも会社では逆に「適当でいいんじゃないか」という温度なので面白い。電飾のバランスとか、そういう事を全然考えない。むしろ天井付近は手も届かないし大変だからと電飾すらついていない。電飾も銅線むき出しのタイプなのであちらこちら絡まってしまっているのだけれど、一部ほどかないまま飾ってある。それでもいいと言うのだからそのままにしているけれどなんとなく納得はいかない。まあほどいていたらサビ残が30分では済まなかっただろうから、帰って正解だったのだけれど、知らず知らずのうちに父の教育によって、そのあたりのこだわりというような物を受け継いでしまっているから自分に驚いたものだった。
自分自身、割と細かい事は面倒くさくて投げる方なのにねと。

そんなこんなで毎日飾り付けしたクリスマスツリーを横目に見ながら業務を行っているわけだが、いつか朝早く着いた日には手直ししたいな、と目論んでいる。絡まった電飾を少し直せばもっと綺麗になるような気がしてならないのだ。

手袋ってままならない


手袋という奴は実にままならないやつだ。

寒い季節、特に雪なんかが降るような寒さの日は手袋が欲しくなる。指先が冷えて本当に困ってしまうからだ。寒い日冬の日の朝なんかには、素手のままで外を歩いただけで手が強張ってしまったような経験はないだろうか。私は特にそういうことが良くあって、例えば役所みたいに着いたらすぐに何か申請書なりなんなりを書かなければならない時などに大変苦労するわけである。あるいは、雪の降る温泉街を歩いて宿に着いた後、名前やら住所やらを記帳しなければならない打とかそういう時にも苦労をする。温まってこないと指が動かないのだ。寒さに強張って、うまく文字が書けない。まるで利き手ではないほうで文字を書いているような感覚である。指ではなく手首から動かしてやっと文字を書いて、それで出来上がったものなど読めたものではない。が、それでも書くしかないから書くのである。

手袋をしていれば、そうした悩みもそれなりに解決してくれる。手袋があればわりと強張らずに済む。
だがまあ、わりと、であるから何とも言い難いところではある。性能があまりにピンキリすぎるからだ。雪を触っても染み込まないような完全防水の機能の付いているものから、ただ単純に手を覆う毛糸の塊のようなものまである。買う瞬間は温かい店の中にいるから「まあこれでいいだろう」なんて買ってしまいがちだが、いざ使う段階になって後悔したりする。しょぼいものはしょぼいなりに使い方もあるものだが、せいぜい低温やけどせずにカイロを持ちっぱなしでいられる(薄いから熱がちゃんと伝わってくる)とかそういうしょうもない、本来の役割とは関係ないような利点を無理やり見出して使わなければならなかったりするわけだ。そんなに安い代物でもなければなおの事愛着を持って使わざるを得なくなる。感情的な問題だけれど。


また、手袋をしているとスマートフォンは触ることができない。ボタン操作のガラケー時代ならいざ知らず、このスマホ時代にあっては致命傷である。特に外出先で調べ物をしたり地図を見たりする時にわざわざ手袋をはずしていては意味がないというものだ。
そういう時のために、スマホ用手袋というものがある。ただこいつはかなり曲者と言うかピンキリで、安いものを買うとただただ手指の先が薄くなっているだけのものだったりして、手袋のていをなしていないものだったりする。なのでちゃんと実際に試して見て購入するのがよさそうだ。私が持っているものは適当に買ったものなので、指先は普通にしていても何だか冷たくなってくるし、さらにスマートフォンだってほとんど反応しない。どうにもならない代物である。だから次に買う時はちゃんとお金を出して、実際に触ってみて使えるものを買おうと思う。そうでないとひたすら邪魔になる。

電子機器は熱に弱いが厳しすぎる寒さにも強くはない。スマホはわりかし寒さには強い方だと思うけれど、それでも雪に突き刺したりすればあっという間にバッテリーがなくなる。人間の身体と同じで、温めれば回復したりするから不思議なものである。

今年ももうとっくに寒くなって、そろそろ雪の降るような場所に出かけることもあるだろうから
、早く性能のよい手袋を購入したいものである。だが指先以上に懐が寒いので、今あるものでなんとかしのがなければならないような気もしている。
果たして私は、冬のうちに北海道に行きたいなぁ、なんて言っている場合なのだろうか。北海道は北海道でも、稚内に行ってみたいという私の明日はどっちだ。

 

温泉

どんな季節に温泉に入りに行ってもいいが、やはり冬の温泉は格別である。つい先日も毎年恒例となった群馬県草津温泉に行ってきたばかりだが、何度行っても温泉というのは良いものである。

お湯はそれなりに熱い方が好きだ。しかし熱すぎるのは良くない。長く入ることができないから。あでも、水風呂と行ったり来たりする「交互浴」をするなら、やっぱり熱いお湯の方が良い。冷たい水風呂と熱いお湯、3度くらい行き来するとだんだん水風呂に肩までつかることだって容易になるし、その後に湯につかる時の感覚もまた良い。雪の降るような寒い露天風呂に向かう前等にこれができると、そうやすやすと冷えない身体が「できあがる」のである。寒さに体が慣れて熱を脱がさない様に対応してくるとか何とか。それでも流石に露天風呂で湯につからず、ずっと話していたりしてしまえばその限りではないけれど。
それにしても露天風呂と言うやつは、どうにも長居をしてしまいがちだ。何人かで一緒に入ってる時なんかは特に、お湯から出たり入ったりを繰り返しながら長話をしてしまう。夏場であれば出たり入ったりもせずに、ずっと足湯状態にして離していたりする。身体が冷え過ぎるのは良くないとわかっていても、どうにもやってしまう。決してなにか景色が良いとかそういうのではなかったとしても、ただ外にあるというだけで露天風呂と言うのは特別な意味を持っているのかもしれない。あの涼しさ、心地よさは良いものだ。
去年の年末に行った檜枝岐温泉の露天風呂は、豪雪地帯であるが故にものすごい量の雪が露天風呂のすぐそこまで壁のようにせり出していた。当然気温も氷点下でありとても寒かったのだけれど、あの顔から上は冷たくて身体は温かい感覚がより強調されていて良かったし、なんなら雪を触ってわざわざ冷たい思いをしたものだ。風呂で触る雪、風情もあるけれどそれ以上に楽しい。


スーパー銭湯タイプの温泉というのもまた良いものだ。町の銭湯のように気軽に使えるのが良い。普段使いでも旅行でも、なんでも要望にこたえてくれる良さがある。極楽湯のようにチェーン展開している施設の多くで天然の温泉を使っているというのもすごい話である。近くにあったら流石に毎日は使えなくても、回数券なんか買って通ったりするのもいいだろうなぁ、と思う。前橋に良く行っていた頃はホテルのすぐ近くにそういう温泉タイプのスーパー銭湯があって良く通っていたものだ。仕事とはいえまいにちビジネスホテルの風呂ばかり入っているとどうも気持ちがしぼんでくる。トイレと風呂が一緒のあの空間はどうにも好きになれない。シャワーするのには手軽かつ簡単でいいのだが、それでも近くに温泉があるとなればやっぱり行きたくなるものである。温泉宿に泊まるとなれば流石に会社の許可が出ないどころか罪悪感がある物けれど、スーパー銭湯にちょっと寄り道するくらいなら別にいいじゃないかという気持ちが働くのだ。
いつもの風呂に入るのではなく、ちょっと温泉に入るだけでも違うものである。
風呂は命の洗濯だとある人は言った。いつも同じようにするのでなくても良いだろう。たまにはゆっくり温泉につかって、日々の疲れを癒す。そんな日があってもいいだろう。

 

資格試験の勉強は業務内でやりたい


資格試験の勉強と言うのはとても面倒なものである。そもそもスキルアップという言葉からして苦手である。学校の試験や受験、課題なんかのように、それをしなければその先に進めないような勉強とはまた違う。必須の資格だってもちろんあるけれど、そう言った者を除けば資格取得というのは往々にして自分自身のために行うものである。だから面倒くさい。

例えば学校の試験と言うものを思い出してみて欲しい。あれは成果によって成績を付けられる代わりに、課業の時間を使って勉強をすることができる。だが資格試験に関しては、かなりの場合仕事中に勉強に勤しむことは許されていない。仕事は仕事でこなして、その上で資格修得のために自己学習を行わなくてはならない。一極集中というのが効かないから困ってしまうわけである。
仕事に関連した資格の習得のためなら、受験料を負担してくれる(合格した場合に限る会社もあるよね)場合も結構多いだろうけれど、私はどっちかと言うとお金より仕事を1週間休むかわりに必ず合格するから集中させてくれ、なんて言いたくなる。金が返ってくるのは嬉しいが、それより仕事で使える資格なら仕事の時間を使って勉強したいものである。
まあそうは問屋がおろさないのは重々承知なんだけれど、ソシャゲの課金と違って金をいくら使っても自分の体調とか疲れとかやる気とかをどうにかするのには限界値が低すぎるのでじゃあやっぱり時間が欲しいよね、となるわけである。

自己投資というのは苦手だ。余暇については、できれば遊んでいるかだらだらとしていたい性質である。だから実際仕事が立て込んでいるとかそういうことがなければ、休日は実に適当に過ごしている。
仕事のために研鑽を積むとかそういった方向性の事は特にしない。最近は違うが、前までは土日は平日の遺産(溜まった事務作業とか)を片付け、体力回復に努める時間出会ったし、平日で失われた時間を取り戻すというどうもマイナス方向に傾いた休日を送っていたので、勉強なんか到底する気にはならなかったわけである。スキルなんて当然付かない。身につくのはしょうもない「その日暮らし」の精神だけ。朝起きて今日の予定を考える。出来ない事はどんどん後回し。予定は組んでてもどんどんずれて行く。修正できない。休日にずれ込む。
これではスキルアップどころかスキルダウンだ。一生近代化やIT化、ましてや効率化なんか出来やしなくて、ひたすらマンパワーに頼る前時代的な脳筋的な思考停止なお仕事を繰り返すだけの日々。自己投資はもともと得意ではないがますますやらなくなった。


かなり話が脱線した。

しかしまあ、それなりに余裕を手に入れた今は、会社の命令とはいえ資格修得のために勉強がわりと出来ている。驚きだ。時間があってちゃんとした環境があると、勉強のハードルと言うのはこうも低くなるものであるかと。
それでも面倒くさいと感じる部分もあるのだから難儀なものだが、まあこれくらいは許容範囲内であろう。
これは仕事の一環として勉強ができていることが大きいし、かといって試験一辺倒でも仕事一辺倒でもなく両立できているのは環境面がすごく大きいと思う。「勉強してスキルアップすることが会社の利益になるからがんばれ」とは良く聞くが、それを課業の外でやるのと課業の中でやれるのとでは大違いだし、選べるなら絶対後者がいいよね、とは今更ながら思うわけである。
出来る人はきっとたくさんいるだろうし、実際資格はみっちり仕事してもちゃんと取れたよ、なんて人はごまんといるだろうけれど。じゃあ逆に楽をしたいのかって言えばそこまでは言わないけれど。
買ってでも苦労をしろなんて言わずに、どうせ苦労することはいっぱいあるんだから、楽にならなくてもいいから苦労の度合いをちょっとでも小さくできたらずっと生きやすくなるだろうねって。そう思うわけですよ。

ピザ食べたくないですか

ピザと一口に言っても、大きく分けてそれはイタリアの「ピッツァ」とアメリカの「ピザ」の2種類があってどうもそれは結構大きな違いがあるらしい。イタリアの「ピッツァ」と呼ばれるものは薄くてぱりぱりした生地を使っていて、それもかなりシンプルな具材のものが多い。いわゆるマリゲリータなんかがそうだ。生地も余計な混ぜ物はせずに、小麦粉と酵母、それに塩と水だけで作って、窯で直に焼く事までもが定義づけられている。要するにそれなりに条件があって認められている物のようだ。それに対してアメリカンなピザと言うものには特別な定義はない。元々イタリア人がアメリカに渡って広めたものであるらしいけれど、好きな具材を好きなように乗せてオーブンかなんかで焼いて提供する。ハンバーガーやフライドチキン何かと並ぶようなファストフードである。
日本で食べるピザというのはどちらかと言えばアメリカ的だ。しかしながらイタリアそのままのものももちろん存在するし、日本風にアレンジされているものだってある。
私個人的には特にそのあたりのこだわりなんてないので、美味しいピザがいろいろあっていいなぁ、くらいのどうしようもない感想しか出てこないわけで、こうして調べてみるまでアメリカだのイタリアだの違いなど知っているようで特に気にした事はなかった。

どうしてこんな話をしているのかと言うと、家の近くに素敵なピザを出すお店があるからだ。割と最近リニューアルオープンしたばかりの店で、かなりこじんまりとしている広さのお店である。ピザ屋さんと言うよりは、小さなイタリアンバルと言う方が近いかもしれないが、ランチタイムは500円で焼き立てのピザが丸々一枚食べられたのですごく驚いたものだった。
ピザはおそらく純粋なイタリア風のものに限りなく近いものであり、500円と言うのは驚異的である。いや、驚異的であった。安すぎたためピザばかり注文が来たのか、最近800円に値上げしていた。まあそれでも安いとは思うけれど。

ピザ一枚500円の頃はよく休日の昼時に利用していたものだった。店は空いているので、ゆっくり食事を楽しむのに素晴らしいと思ったからである。
ただまあこの店には窯が小さすぎてピザが1枚ずつしか焼けないという致命的欠点があって、自分より先に注文が入っていると20分くらいは平気で待たされる。だから美味しい店なのに店内は空いてるのだ。
ランチタイムは持ち帰りもできる。これは一見するととても便利だが、店の中で食事を取るべく待っているとそれはもう素敵な待ち時間を告げられることになる。店内には誰も他の客はいないのに、料理が一切運ばれてこないというなんとも面白い店である。だからGoogleマップの口コミ欄に暴言を書かれるんだろう。もったいない。
持ち帰り注文なら美味しいし安いし待つ時間込みで注文してからゆっくりお出かけすればいいので最高なのだが、残念ながら店の中に入って注文なんてした日にはいつピザにありつけるかわからないというのが実情である。電話注文なら立て込んでるときは断れるけれど、店内の注文は断れないもんね。そりゃあ立てこんだら大変だ。この店は時間制限のある食べ放題もやってるらしいけれど怖くて行けない。せめて時間無制限なら、と思ったけれどそうしたら終電どころか始発の時間になりそう。家の近くだからいいのか。そうか。

そういうわけで最近はピザが800円に値上げして、無限とも思えるような待ち時間はおそらく発生しなくなった。パスタは相変わらず500円でやっているようだが、どういうわけだかこれを食べに来ている人は少ないようで、特に値上げの予定もなさそうだ。
かくいう私もこの店ではピザしか食べたことがない。窯で焼きあげられたピザが3ケタ円で手軽に食べられるのがいいんだもんね。考えてみれば、パスタの美味しいお店はいろんな価格帯の様々な形態の店があるけれど、ピザの店は宅配のものを除けばかなり限られる。一人でも入りやすくて、手軽に楽しめる。この条件のピザを食べられるお店と言うのは案外貴重なのである。

最近、夜に店の前を通りがかると、店主が暇そうに座っているのを見るのでかなり心配であるが、まだまだ店がこのまま生き残ってくれれば良いなと無責任に思うばかりである。

模型

私はとんでもなく不器用なので、細かい作業にはとんと向かない。なので、模型の類は結構好きなのだけれども、専ら鑑賞する専門となっている。
今の鉄道模型なんてのはすごい。現実そのままにミニチュア世界が再現できる。実際に動かすことだってできる。電源付きのコントローラーを使うことで線路に通電し、列車を走らせることができるのだ。私自身が本格的に手を出したことがないが、私の父が鉄道模型好きなので、動かしたりして遊んだことは幾度となくある。少年時代の私にとってはプラレールの大人版くらいの認識だったが、今思うとなかなか贅沢な遊びである。


父は私と違って不器用ではないようで、家には駅舎と山岳のジオラマがあった。どちらもちゃんと電車を走らせることのできるものだ。山岳に関してはトンネル内の線路のメンテナンスができないということもあり、遊びに駆り出されることはほとんどなかったが、駅舎に関しては幾度となく買り出されることになった。2面3線の立派な作りである。作っているところを一緒に見ていたような記憶はなんとなく覚えているけれど、私が幼すぎたこともあってあまり鮮明には思い出せないのが惜しいところだ。
今でもこのジオラマは一応存在している。ただ埃をかぶっているから使えはしないだろうけれど、たまに思い出して見てみたいという衝動にかられることは今でもある。


私はといえば、鉄道模型には手を出そうとは思っていない。あれは沼のようなものである。一つ一つがお金がかかるのはそうだけれど、一番の理由はスペースだ。突き詰めれば絶対場所が足りなくなる。
もし、もしもだけれど宝くじを一発当てたり、超絶売れっ子作家になったりとかすれば話は別だけれど、そうでもなければ実際に運転させるようなジオラマは作らないだろう。なんかの間違いで、30cm四方くらいに切り取られた小ジオラマを作るようなことはあるかもしれないけれど、まあたぶん作り込んでいるうちに飽きてしまうだろうな、と思う。繊細な調整は苦手である。見る分には詳細な作り込みは大好きだが、作るぶんには絶対こだわれないだろう。
だから、私がブックマークしてたまに眺めている某HPの架空鉄道都市ジオラマ(気になる人は直接聞いてくれれば)の人なんかものすごい作り込み具合で、本当に尊敬する。架空なのに現実みたいだよ。といつもそのクオリティに驚嘆してばかりいる。

だからギリギリ実現できそうな夢としては、PC版の「A列車で行こう」を買う事。あれなら詳細なエッチング技術とかは必要ない。必要なのはPCのスペック。あとはまあ想像力とか。もっとも、あれを買ったら無職になれるだろうね、やり込みすぎて。


私が模型類でそれなりに完成させたことのあるジャンルとしては「ガンプラ」だろう。ガンダムのプラモデルシリーズ。あれは小学生の時に結構作ったものだ。ただこの不器用な私、指を一本ずつ動かせるような繊細な動作ができる部品などの組みたてはものすごい苦手だった。なので、1/100サイズのいわゆるMGではなくてそれよりも小さい1/144ばかり作っていた。手も足も苦手だったということで、まず足のない「ジオング」に流れ、最終的には「ボール」を作った記憶がある。ボールは手も足もない。ただマニピュレーターだけはある。単純な作りをしているので私にはちょうど良かった。
ガンプラはこの手の模型の中では格段に難易度が低い。接着剤もいらないから、結構やり直しも効く。だからそれなりに作れたのだろう。
ただまあ、クオリティはお察しである。墨入れくらいしかまともにやらなかったし、ヤスリがけもまじめにやった記憶がない。それでもそれなりには見えるのだからガンプラという奴はすごいのである。模型という敷居の高いものをあれだけ一般化したのだから。


でもまあ、なんだかんだと言っても模型と言うものは「夢」そのものである。現実で手に入らないものを具現化する、それだけではない魅力がある。
それがきわめて現実的なものであれ、架空のものであったって、私は模型を見ているあの時間が好きである。ただ単に頭の中でいろんなことを考えるのも楽しいけれど、物が目の前にあると想像が捗るというものである。

 

誕生日


もう子供ではないので、今更誕生日なんてと思ったりする瞬間もあるが、それでもやっぱり特別に感じるのが誕生日と言うものである。流石に今時のパーリーピーポーではないので、「何をやっても許される日だ!」とは言わないし大げさにはしゃいだりはしないが、それでもただ単純に「おめでとう」なんて言われることだってとても嬉しいことである。だいたいおめでとうなんて言葉をかけられるときはそうそうないのだ。1年過ごしてきておめでとうなんて声をかけてもらえることなんて誕生日以外にそうそう思い当たらない。
高校生のとき、特に自分の誕生日についての話をしたことのなかった人におめでとうと言われたことがある。朝、学校に行ったら真っ先に「誕生日なんでしょ、おめでとう」と言われてもうなんだかすごく嬉しくなったのを覚えている。

逆に、自分自身はどれだけ誕生日おめでとう、と言えているだろうか。これは難しい。
例えば、とても仲の良い人であれば誕生日についてそらんじている場合がある。両親や兄弟なんかの誕生日は普通に思い出せることであろう。ではそれが友人関係なんかになると急に怪しくなる。バレンタインデー生まれとか、クリスマス生まれとかそういうインパクトがあれば別だが、そうでなければ何かを見たきっかけなんかで思い出すものだ。

まめな人はそれこそ手帳などに予定として記録するだろう。私の場合はiPhoneのカレンダーを見て気がつくことが多い。連絡先に誕生日が登録されているのだ。昔のガラケー時代の遺産である。あの赤外線交換とかそういう時代のものが、機種変更を経て今の今まで続いているのである。連絡先を交換した際に自動的に入っているものもあれば、メールアドレスに4桁の数字があればそれは大抵誕生日なのでそれを勝手に登録したものもある。それがカレンダーに表示されるから気がついて連絡をしたりするわけである。
それから最近だとTwitterやLineで知るようなことも多い。Twitterなら誕生日をプロフィールのところで見れるし(公開設定にしていれば)、誰かがおめでとうと言っているのを見て気付くこともできる。これは便利だ。Lineは最近タイムライン上で通知を流してくるのでそれで気がつくことも多い。何にせよ、まめに記録していなくても、ある程度どこかで開示されていれば誕生日を取りこぼしにくくなるのである。時代は進んだものだ。
ただまあ例外として、どこにも誕生日の記載のない、全く個人情報を出さないタイプの人は誕生日を祝いにくいというのは、どうしてもある。口頭では1度か2度くらいは話したことがあるんだろうけれど、なかなか誕生日と言うのは記録していない限り覚えられないものである。それが大事な人の誕生日であれば、聞いてその場でメモでも取るんだろうけれど、よほどのことだろう。
だからぜひ誕生日はそれとなくで良いのでアピールしてくれたらいいな、なんて思っている。

私なんかはおこがましくも誕生日アピールをする方だ。フィギュアスケート羽生くんと同じだよ! という持ちネタでアピールしているおかげで、それなりに気づいてもらえているのであるが、今年はさらにおこがましくこんな記事まで書いているわけである。

何も言われないよりは言われる方がずっといい。親しい人でも、そうではなかった人からでも、言われれば嬉しいものだと、少なくとも私はそう思っている。

気温差と花粉と

このところの天気と行ったら妙なもので、木枯らしこそ吹かなかったもののもうすっかり寒く冬になってきた……と思っていたら急に20度を超す陽気になってみたりと落ちつかない。落ち着かないだけで済めばいいが、こんなに気温の上下があると身体の方が付いていけなくなってしまって困るというものである。


私だけでなく一般的にもそうだと思うが、季節の変わり目と言うのは風邪をひきやすい。私は寒暖差アレルギーなのかどうかは良くわかっていないものの、大抵季節の変わり目になると鼻水がよく出たりする。今年は特にそれがひどい。本当にたまたまだけれども、20度を超える陽気を観測したその直前の土日で、草津温泉のような最低気温が-4度の極寒の地に行ってしまった事も大きい。もともと鼻水が出るような所はあったが、あまりの寒さに鼻水が止まらなくなった。そしてこの陽気である。もう参ってしまうのを無理はない。

ただ、鼻水が出るのは何も陽気のせいではない。
花粉。それも秋の花粉ではなく、春のスギ花粉の影響である。

どういうことなのか。

それは至極簡単な話で、春先のスギ花粉真っ盛りの時期まで来ていたコートやらマフラーやらを引っ張りだして来たからに他ならない。衣服に付着した花粉がここにきて再び私に襲いかかっているのである。これではたまらない。初めは気のせいかと思ったが、とうとう目がかゆくなってきたのでこれは間違いなく花粉の影響であると思わざるを得なくなったのである。

無論、仕舞う前にクリーニングには出している。でもそれでは足りなかったらしい。慌ててコロコロを掛けて物理的に花粉を排除しようと試みたものの、完全には取りきれていないらしく相変わらず目がかゆい。鼻水は出なくなったが、目がどうしようもなくかゆいというこの状況はまさに春先のスギ花粉真っ盛りの時の状況そのものである。なんでこんなに辛いんだろう。


でもなんで今年に限ってこんなに酷いのだろう。今年の春はそれこそスギ花粉の攻勢は例年より酷くなかったはずだ。例年と違ったのは花粉がせっせと生産されている山の中の道を多く車で走った事くらいで、むしろコートでそれほど歩き回っていない分思い当たる節もない。
となるとコートの材質だとかその辺だろうか。思い返せば今使っているコートは結構新しい奴のような気がする。だからかもしれない。

気温差でやられているところに、春先からのありがたくない贈り物。体調こそ崩していないものの、目がかゆくて鼻が出るこの状況は一刻も早くなくなって欲しい。どうせあと2カ月もすれば本版がやってくるのだから、今から予行練習なんていらないんだよ。

台湾野球のすすめ

台湾に旅行してやりたい事を挙げてもらった時に、たぶんだけれど多くの人は「野球観戦」とは答えないだろう。だが待って欲しい。台湾野球というのはとても楽しいものである。
私もこの間、初めて台湾で野球を観戦してきたわけだが、かなり面白かった。もちろん言葉はさっぱりわからないし、選手だってあまり知っている人はいなかった。でもすごく楽しむことができた。
それは私がある種野球についてマニアックな知識を持つ人間だからという要素も多少はあると思うが、それよりも例えばライブだとかお祭りだとか、そういうのが多少なりとも好きだという人にはすごくお勧めな代物、それが台湾で観戦する野球というものであると私は言いたい。

台湾プロ野球の球場は圧倒的な地元贔屓。まず内野席はすべてホーム側のチームの応援席として使われる。日本で言うとあの春夏の甲子園吹奏楽部がいるような場所が、左右両方とも見方チームの応援みたいなもの。そんでもって外野のレフト側にだけ相手チームの応援団がいるというわけだ。私が見に行ったのは台北から一番近い新荘という場所に本拠地を構える富邦ガーディアンズというチームの試合であったが、スタジアムに詰めかけている人のかなりの立ちあがって応援歌を歌い、腕を掲げ、さらには皆が踊っている。この熱気はすごい。
驚くべきはこのチームがこの新荘体育場野球場に本拠地を移したのが昨年2017年のことだという事実である。それまでは義大ライノズという名前で高雄(台湾の南の都市)を本拠地として闘ってきた球団だった。それが移転してきてわずか2年目なのである。座席はかなり空きがあるのにもかかわらず、これだけ盛り上がっているのは素晴らしい。

私自身、2000年代の横浜ベイスターズの惨状というものをよく見てきたわけである。横浜-ヤクルトの試合で4千人しか入らない横浜スタジアムのあの盛り上がらなさ。この新荘に集まる熱狂的野球ファンもだいたい5千人くらいが平均だと言うけれど、比較にならないくらい盛り上がっている。盛り上がっているのにバックネット裏ですら座席を取るのが容易なのだから、単純に観戦に出かけるにはうってつけの環境である。毎試合座席稼働率98%だとかいう横浜スタジアムもすごいものだが、稼働率50%くらいでしかも空いてて安いなんて最高だろう。私はなんとバックネット裏の前から3番目とかいう日本では見たこともないような好位置で試合を見てしまった。最高かよ。

応援も日本のそれと比べてもかなり独特で面白い。興味のある人は調べてもらうとすぐに出てくるだろう。何を言っているのかはわからなくても雰囲気だけで楽しくなれる。


台湾は日本からとても近い。沖縄に行くのとほとんど時間は変わらないし、気候も似たようなものだ。夏に行くと突然スコールみたいな雨に襲われたりもするけれど、東南アジアのそれと言うよりはやはりどこか沖縄を含めた日本的な夕立(あるいはゲリラ豪雨)のそれに近い。
定番の観光地もいいし、美味しいご飯を探しに行くのももちろん楽しみだけれど、チャンスがあればぜひ台湾で野球を見に行こう。来年の4月あたりに私の周りの人は台湾に行く用事がどうも出来そうな人が多いから今のうちに宣伝をしておこうというわけだ。
台湾野球、お勧めです。