言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

もうソメイヨシノの時期も終わり頃で


今年の桜は咲き始めてから満開になるまでがずいぶんと早かったように思える。あっという間に満開になった。そして咲き始めの頃に寒い時期が少し挟まったからなのかもしれないが、例年以上に場所によって満開の時期がずいぶんとばらけている印象だ。
家から最寄り駅に行くまでの道中にもいくつか桜の木があるが、もう既にほとんど散ってしまっているものもあれば、まだまだ満開というものもある。ずいぶんとムラがある感じがするものだ。日当たりによってだいぶ違うのかなとも思うのだけれど、どちらも同じような感じがするからよくわからない。メンテナンス(手入れ?)の感じが違うのだろうか。
先週末などはお花見日和だったようだ。少しもう散り始めだったようだけれど、桜の木が集まる場所に行くとたくさんの人が集まっているのをよく見かけた。今年もいわゆる宴会的なお花見というのは公共の場ではできないようで、皆歩きながらの形でお花見を楽しんでいた。シートを敷いてご飯を食べながらお花見をする、というスタイルはここ3年で全く見られなくなった。過剰に集まるとなかなかどうだろうと思うこともあるけれど、この時期だけの光景であるわけで見られないと思うとそれはそれで少し寂しいものだ。
ちょっとうらやましいな、と思ったのは個人宅の庭での花見である。大きな桜の木がある家が近所にあるのだけれど、この間家の前を通ったら木の下でバーベキューをしているところだった。家だったら終わって帰ることを考えなくていいし、ご時世的な意味で人の目を気にしなくてもいいのもなかなかのメリットである。年間を通して桜の木を個人宅で維持管理するのはそれなりに手間がかかりそうなのでただただうらやましいというのは違うかもしれないが、それにしたってなかなか良い光景だなと思った。
もうその家の桜の木はすっかり散ってしまった。桜の見ごろというのは本当に短いものである。不思議とまだまだ満開という木も周囲にはあるが、もうさすがにこの週末で終わりになったのではないだろうか。でもまあ、まだまだ遠目に見る分には十分に綺麗だったりもする。電車なんかで移動しているときに一瞬だけ見える桜の木というのは、もう散り始めていたとしてもずいぶんと綺麗に見えたりするものだ。この季節以外はなかなか視界に入ってこなかったりするのだけれど、桜の花の色が視界に入るとつい顔を上げて探してしまうものである。

先週日帰り小旅行をしたときも、電車の中からずいぶんと桜の木を見たものだ。一番凄かったのは、駅横の河川敷に菜の花と桜の並木が一緒に満開を迎えていた光景である。たぶん鷺宮駅だったと思う。ホームに沿って流れる川の河川敷に伸びる菜の花の黄色と桜の薄紅色のコントラストがそれはもう、まぶしかった。
菜の花の咲いている期間が比較的長いからこその光景だとは思うけれど、思わず電車を降りて見に行きたくなるくらいには素敵な光景だと思った。桜もいいけれど、菜の花畑というのも結構いいものなのかもしれない。有名なスポットもあるし、天気のいい日に満開の菜の花というのもいかにも春っぽくて良いかもしれない。

桜の季節が終わるともうすっかり春だなという感じがするけれど、今年もきっとあっという間に梅雨になって、そして夏になっていくんだろな、という気がしている。とりあえず5月にでもなれば花粉の季節が終わってだいぶ過ごしやすくなるだろうから……などと「少し先」のことを考えて待ち望めば望むほど、季節の流れが速く感じるような気がする。早く週末を迎えてほしいと思うのも同じで、時間の流れの感覚を圧縮しているような気がしてならない。