言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

飛梅


家から最寄り駅までの間に、1箇所だけ梅の木がある庭がある。庭木の梅は公園にあるそれとは違って、道路にはみ出さないように剪定されている、こじんまりとした枝付きのものだ。
今朝、ふと顔を上げてみたらその梅が満開であることに気が付いた。早咲きの梅もあるけれど、普段そこの家の梅は2月の中旬とか、後半あたりに咲いていたような記憶がある。花粉がもっと飛び始めてから、というイメージが強いからだろうか、もう満開なんだな、という驚きが大きい。
暖かい日が続いたり、けれども今日のように風強い寒い日になってみたりとせわしない気候の中で、季節を感じられるものに巡り合えるというのはとても嬉しいものである。
もっとも、ひどい花粉症である私の場合は梅の季節の訪れは花粉の季節の訪れであり、いよいよ耳鼻科に行って薬を貰ったり(既にそうだけれど)マスクで完全防備したりする季節の始まりということである。梅の咲くころに始まって、桜が咲き終えて若葉が芽生えようとする頃に終わる。山桜が咲くころがちょうど花粉が終わりそうな頃だろうか。悲しいかな、苦手な季節である。

梅の木の植えられた庭のある家なのだけれど、去年の終わりころからだろうか、その家は「空き家」「売地」の看板が掛けられている。以前の住人が引っ越したのか、あるいは亡くなったのかなどの事情は分からないけれども、もう数か月の間その家は空き家のままである。
誰かが手入れをしているのか、今のところ庭はきれいなままである。梅の他にも沈丁花金木犀あとは自生しているのかもしれないけれどオシロイバナなんかが咲いているのをよく見る、素敵な庭である。
家から駅の間で必ず通る道で、その家の前の道は少し狭くなっているからかよく目に入るのだけれど、冬の朝なんかは寒くて駅まで急いでいたりしてついつい目を向ける余裕がなかったりなんかして。それでもふとした時に満開の梅花だったり、沈丁花だったり、他にもいろいろ咲いていたりするのが目に入ったりして。無意識に眺めている日常風景の一部であるということに間違いないものなのである。

売地ということは、だれか別の人のものにいずれなっていくのだろう。家の築年数はかなりのものに見えるので、もしかしたら更地にして何か建て替えたりするかもしれない。その時に庭がどうなるかというのは次の家主のみぞ知ることだ。最近はこういう駅に近い好立地は一度駐車場になったりすることが多いし、そうしたら庭は無くなるだろう。
そう考えると、梅の花が咲き誇る様子を見られるのもあとわずかかもしれないのだ

「東風吹かばにほひをこせよ梅の花  主なしとて春を忘るな」

菅原道真が京を追われ、大宰府に左遷される前に家の庭にある梅の木を見て詠んだとされるものだ。菅原道真大宰府で亡くなっているので、この梅の木を二度と目にすることはできなかった。
その代わりにというわけではないだろうけれど、今でも太宰府天満宮には樹齢1000年を超える梅の木が本殿向かって右側に残されている。

まだまだ寒いけれども、きっともうすぐ、春が始まる。