言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

色紙の話

我が家にはなぜか元横浜DeNAベイスターズ監督の中畑清のサイン色紙がある。もちろん私が横浜DeNAベイスターズのファンであるというのはあるのだけれど、直接もらったわけではなくて、何だったかな、誕生日プレゼント的な感じで人づてに貰ったものであったはずだ。くれた人は中畑清のカラオケ仲間の友達と言う間柄らしい。友達の友達くらいなもんなのに、ちゃんと色紙に私の名前まで入っていて、中畑清という人はとても優しい人なのだと思う。
監督退任の翌年か翌々年あたりにもらったもので、意外と最近のものである。
サインボールも一緒に貰ったのだけれど、そのままの状態で普通に手渡されたのでむき出しのままだけれど、何かガラスなりプラスチックでもいいのでケースに入れて飾ったほうがいいのだろうか。調べたら400円くらいなので、今度買ってこようかな。

有名人にはこんな感じで色紙にサインを書いてもらうことが多い。
スポーツであればその道具とかユニフォームとかにサインが入ったりして、アーティストであればCDにサインが入り、作家であれば本にサインが入ったりする。職業というか立場特有のサイン箇所というのは挙げたように色々あるけれど、やはり基本は色紙へのサインなのだろう。
私は一般人なので色紙にサインをしたことはないけれど、やっぱり色紙が一番使われているということは、見た目もそうだけれど書きやすいとかそういうこともあるんだろう。少なくとも色紙であれば紙そのものが硬いので、例えばスポーツ選手とかにさっと手渡してその場で書いてもらうには便利なのかもしれない。台座とかいらないし。それでまあやっぱり目の前で書いてもらえるというのは嬉しいものだし、渡してすぐに書いてもらえてというのは理にかなっているのかもしれない。

色紙と言えばサインだけれど、もう一つよく使われるのは寄せ書きである。たいてい卒業とか引退とかそういう行事の時に書いたりするのが色紙への寄せ書きである。書いたことももらったこともあるけれど、どっちにしても結構緊張するものだなと思う。まあどちらかと言えば見るときの方が緊張するかな。「いろいろあったけどありがとう」とか含みのある感じで書いてあると、あとから思い出してそれこそいろいろ思うことがあったり、なかったり。逆に自分が人に何を書いたかと言うのは結構時間がたつと忘れてしまうので、変なこと書いてないかなとか恥ずかしいことやらかしてないかなとは思ったりする。受け取った人のみが知るわけなんだけれど、まあなんというかこう気持ち的には嫌だよね。過去の自分が一番信じられない。
有名人もサインを書くときにとかに似たようなことを思っているかもしれない。サインに限った話じゃないだろうけれど、いつどこで晒されているかなんてわからないわけだし。そういう意味では一般人よりもずっと大変だろうなとは思う。これ書いてもらったんだぜ、なんてまあ人に見せがちだしね。寄せ書きでそんな風にいろいろなところにさらされたらたまったもんじゃないけれど、よく考えたら最初の方に書けば書くほど人からは読まれてるんだよな。読まれて恥ずかしくなるようなことは書くなってことなんだろうけどさ、本質は。

そういえば、寄せ書きとは違うけれど、こないだ合同ファンレターみたいな企画があるのを見て、軽い気持ちでメッセージを寄せたりした。メッセージと名前をフォームに打ち込むだけだったんだけれど、なんと製本されて本人の所に送られたらしい。これもある意味では寄せ書きみたいなもんだよな。わーっと一発書きした短い文章だったからそれこそちゃんとした内容は覚えていないけれど、結構個人的なことを書いた(新宿でやってた舞台観に行きましたとかそういうのの結構細かい話)気がするので、思い出すとやっぱり少し恥ずかしいような、でもファンとしてのメッセージとしては正しいような、ちょっと複雑な気持ちである。

でもまあ何だろうな、色紙とかをもらう側としては、ちょっとおもしろいことが書いてあったり、読むと「ああそんなことあったよな」と思うエピソードが連想されるモノだったりするとまあ楽しいよね、とは思う。
サインでも寄せ書きでも、貰ったときのエピソードとかもあるわけだし、まあなんか、「書く側」と「貰う側」感情と感覚のせめぎあいの結果生まれたものだと思ってみるとそれは面白いものだよね、と改めて思うわけである。