言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

『とても親密な見知らぬ人』という舞台をみた

ひょんなことから舞台を見に行く(観劇と言った方がいいのか?)機会に恵まれた。ほとんど舞台というのは見たことがなかったのだけれど、いろいろ条件が重なって、ちょうどタイミングも良いし見に行っているか! と軽い気持ちでチケットを購入したのだった。
舞台と一口に言ってもいろいろあるわけだけれど、正直そのあたりのジャンル分けに関しては私自身はかなり疎いといったようなレベルである。ミュージカル……はなんか学生時代に学校行事で見に行ったような気がするし、ああそういや劇団四季の劇場にも同じように学校行事で行ったな、とか。伝統芸能もここでいう「舞台演劇」に入るのであれば歌舞伎とか能とか、そういうものも行った気がするなあ、という程度である。
つまり、たいていの場合自分の意志で見に行ったものではないのである。芸術鑑賞というか教育的な観点で連れて行かれたようなものばかりで、だからこそあまり印象になく、学生であったがゆえにただその日の授業がなくなるので良いとか、そんな感想ばかり抱いていたものだった。
だからかもしれないが、舞台を見に行く、というのは少しハードルの高いようなものだとどこかで思っていた。ただ、このところ某アニメ作品がアニメと舞台とで二層展開しているのを見に行ったりと、かなり自分の中での舞台への観劇ハードルは無意識のうちに低くなっていたのは確かにあった。
そういった背景もあり、タイミングよく機会が訪れたので「よし、舞台を見に行くか!」という感じになったわけである。
前情報ゼロ。演者も直接行くきっかけになった人しか良く知らない。期待するとかしないとかの次元ではなく、これから一体だれがどんなことをするのかわからないといった状態である。ただなぜか面白くなかったら嫌だな、というのもなくて、まあきっと面白いんじゃないかな、と根拠のない思いを抱いて劇場に足を運んだのであった。

まずいきなり驚いたのは会場の小ささである。小学校の教室のサイズくらいと言ったらいいのだろうか。私の座席は12列目であったけれど、普通に教壇と後ろの方の座席の距離と言えばいいのだろうか、かなり至近距離で演じてる姿を見られたのだった。
さらに言えば、演者の声がすべて肉声であることにすら驚いた。演劇界では当たり前のことなんだろうか、普通に目の前で役者がその自分の肉声で話している。考えてみれば小学校で先生がマイクを使わないで話すのと同じなのだけれど、「役者」なるものは舞台の上の遠くの存在でマイクを通してこれまた遠くの観客に声を届けるとかそんなイメージもずっと固定観念として持っていただけに、マイクを通さない肉声で話すさまはそれなりに衝撃的な事実として目の前にあった。特に見に行くきっかけになった演者の人に関しては、今までそれこそ豆粒大の大きさしか見たことがなかったので、とにかく距離は近くて等身大だし、初めて聞く肉声だし、ああこの人ってこんな感じのたたずまいでこんな声をしていたんだな、とか本当は当たり前のはずのことを改めて感じてしまった。
何度も見たことがあったはずなのに。

ちなみに座席はちょっとふかふかな折り畳み式の椅子だった。座り心地は普通。客席を確保するために前後の間隔はかなり詰められていたけれど、それでも別に不快さはなくて良かった。ただ、私の後ろつまり最後列の人たちはなぜか椅子ではなく机(たぶん高さを付けないと舞台上が見にくいからだと思う)に座っていたので、少しかわいそうではあった。何とかしてこの限られた「ハコ」に多くのお客さんに来てもらおう、なんてことを試行錯誤した結果だったのかもしれないけれど、すごく手作り感があってそれはそれで面白いものだなと思った。
思っていたよりも遠くではなくてずっと身近で、そしてすべて人の手で作っていて、人の手で演じていて、人の手で運営しているんだな、なんてことを思ったわけだ。

公演の内容はとても面白かった。面白すぎてびっくりした。舞台のことはよく知らないけれど、これってきっと舞台の上でしか表現できないよな、なんてことをいろんな演出の端々に感じたりもした。こんな世界があったんだな、という感覚でもある。これは面白いものだ、この世界は面白いんだ、と。

残る公演が平日公演だけなのでたぶんもう足を運ぶことはできないけれど、できることならもう一度見たい。
なにか新しい扉を開けてしまったのかもしれない。


『とても親密な見知らぬ人』