言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

ご飯の量


私は基本的に味の濃いおかずで白いご飯を食べるのが大好きなので、並盛だろうが大盛りになっていようがうっかりたくさん食べられてしまう方である。だがまあご飯ばっかり食べてもそんなにいいことはないので、特別な理由がなければせめて普通の1杯分である並盛以下で頼むようにしている。
でもまあなんだろう、世の中の並盛ご飯というのは実のところ標準よりは少し多く盛られているものだ。茶碗1杯のご飯というのは通常150gくらいであるとされている(農林水産省のQAページなどにも品種によって異なるが150g程度と回答がある)が、定食における並盛というのは大抵200gくらいは盛られているようなところが多い。

例えば牛丼チェーンの松屋であれば定食のライスは並盛で200gだ。同系列のとんかつ屋である松のやでも同じようである。別のチェーンだと吉野屋の定食もご飯は200gのようだ。ファミレスで言えばガストは180gなので、牛丼チェーン系はちょっとご飯の量が多いのかもしれない。まあ牛丼並盛のご飯の量は250gくらいあるし、そもそもの茶碗1杯の量よりも基本的に多めに盛られているようである。

そういうわけなので私にとって外食でのご飯の量というのは悩ましいところである。ついつい食べすぎてしまうからだ。

何もなければ小盛にするという選択肢はある。たいてい130gくらいだろうか。それくらいの量でも、おかずの感じだったり時間をかけた食べたりすれば十分満腹感を得ることはできるのだけれど、どうも見た目的なガッカリ感みたいなものを覚えてしまってそれは良くないと思っている。
これはもうお腹がいっぱいかどうかという体感よりも、目で見たときの量の感じ方に問題があるわけである。お椀が並盛と変わらない店だと余計にそうだ。どうしても少なく、寂しく映ってしまうのである。食事を始める前はお腹が空いているから、余計にご飯の盛り方が寂しいと気持ちも下がってしまう。
でもなんだろう、さみしく感じるも何も小盛で頼んでいるのはほかでもない自分自身である。そこは納得しないといけないところだ。誰が悪いわけでもない。強いて言うなら私が悪い。自制のためにやっているのだから自制を試みるほかない。

ところがまあ疲れていたりすると小を選ぶ余裕みたいなものはなくなっていくわけである。下手をすると大盛り的なこともしてしまうだろう。
沢山働いてかなり疲れているときに「こんなに働いたら痩せちゃうよ」みたいなことを思ったりするのだが、実際痩せないのはご飯をたくさん食べて相殺してしまっているからに他ならない。
疲れてお腹が空いているときに我慢なんてできないのだ。

まあでも、だ。本当に疲れて、カロリーを消費しているならちゃんと食べたほうがいいわけで、そのこと自体は間違っていないかもしれない。しれないのだけれど、目とか胃とかがそのご飯の量に慣れてしまうというのが問題だったりする。食べる量を増やすより減らすほうが難しいからだ。お腹でも壊してしばらく食欲がなくなりでもすれば別だが、そうでない場合、また同じ量を食べたくなってしまう。そして減らすと物足りなくなる。悪い流れである。
そういう時はご飯を減らしておかずを増やす、みたいな総合的なボリュームで何とか自分を騙すしかない。ご飯が少なくても全然いいよね、問題ないよね、と思うようにしないと。

学生時代、食べても全然体型に影響がなかった頃というのが懐かしいものだ。意味の分からないほどの大食漢であったわけではないが、平均よりはたくさん食べるほうであった。運動をしていたから、というのは大きいだろう。
だからこそ、なんとなく今、小盛のご飯を見ると寂しく見えてしまうのかもしれない。極々稀に食べる、大盛りのご飯の美味しさが何倍にもなったような気もするけどね。大盛りと、それからあとはお代わりのご飯か。矢場とんでいつも最初の1杯悩んだ末に普通盛で出してもらうけれど、結局半分くらいお代わりしちゃったりして。まあそういうもんだ、そういうもんなんだ。無理して自制してもしょうがない。そういう時もある。
そういう時しかない、となってしまうとダメなので意識はしないといけないんだけどね。今日だけは……!