言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

銀杏(いちょう)と銀杏(ぎんなん)

秋のイチョウ並木はとてもきれいだ。もうさすがにほとんど散ってしまっているだろうけれど、11月の終わりくらいだろうか、あれくらいの頃は並木道が黄色く彩られ、とてもきれいなものだった。

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ただまあ、イチョウ並木はきれいで好きなのだが、落ちているぎんなんがあるととにかく臭くてこれには閉口する。一面黄色できれいでテンションが上がった後、その臭いにテンションが下がったり。ぎんなんは踏みつけてしまうと靴の方にも臭いが行ってしまうけれども、並木になっている場合はもうぎんなんが1つ見つかれば後はもう通り中ずっとその匂いと付き合っていく必要が出てくるわけで、まあこれには本当に困ったものである。近隣住民は嫌になったりしないのだろうか。臭くて洗濯物を干したくないよ! とかそういうのってあるんだろうか。
イチョウ並木は遠くから眺めるのが賢明だとさえ思っていたのだけれど、最近どうも臭いイチョウ並木とそうでもないイチョウ並木があることに気が付いた。マスクをしているから匂いに鈍感になった、あるいは、コロナウイルスの症状でも出たのかとヒヤヒヤしたのだけれどどうもそういうことではない。
なんてことはない話で、イチョウにはぎんなんを実らせる木とそうではない木があるのだ。雄株と雌株に分かれていて、風によって花粉が媒介されることによって結実するのだという。なるほどそういうわけで、臭い並木とそうではない並木があったのか。納得である。まだ身を付けていないんだなとかここはラッキーだったとか勝手に思っていたけれど、木によって実がなるかどうか決まっているのだから、雄雌のパターンさえわかってしまえばなんてことはないことだということだ。もっとも、雌雄並べて植わっていたら同じことなんだけれど。
臭くないとわかればもう遠ざかる必要もなく、堂々と近づいて歩けば良いわけだ。
雄株と雌株でぎんなんを付けるかどうかが決まるわけなのでつまり、「おしゃれな街ではぎんなんを付けない雄株だけを植えている」なんて話もあるけれど、どうだろう。こればっかりは場所に拠るんじゃないかな、という感じ。何かしらの敷地内の並木は気を使ってそうだけれど、街路樹は普通に臭い気がするね。選ぶときっとお金もかかるんだろう。まあ臭くても、観光地の街路樹に向かってイーゼルを立てかけて絵を描いているような人は見るけれどね。写真もそう。臭いが伝わらない方がいいこともあるということだ。

踏みつけて嫌な思いこそするものの、食べ物としてのぎんなんは嫌いではない。茶碗蒸しの中に入っているぎんなんは結構好きだ。普通に炒っただけのものはたまにものすごく苦いものがあるけれど、そうでなければ美味しく食べる。茶碗蒸しだとほぼ苦くないのはなんでなんだろうな。助かるけど、何か理由がありそうだ。セブンイレブンのぎんなんのお菓子はめちゃくちゃ苦かった。あれは食べ物ではない。ほろ苦くらいなら普通に食べるのに。

ところで「イチョウ」と「ぎんなん」の変換がどちらも「銀杏」なのは困ったものである。音読みと訓読みの違いしかないらしい。前者は木、後者は実を指すわけだけれど文字からは区別できないというのはおかしな話だ。普通、果実なんかでは実の名前が優先されるわけで、「リンゴ」の木であれば「リンゴの木」としか呼ばないのだが、「ぎんなん」は「ぎんなんの木」というよりは「イチョウ」であるから余計ややこしいのだ。
「銀杏」と書くと素直な読みは「ぎんなん」だと思うけれど、「イチョウ」の読みはどっから来たのかと言えば中国由来だそうだ。漢字は別に書くらしいのに、「銀杏」の文字にいつの間にか当てはめられてしまったらしい。面倒くさいな。