言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

改元

平成が終わり令和になった。
何とも不思議な気持ちである。昨日も今日も祝日であったからか、どうも年末年始のようである。改元にあたって今年だけ休みが増えたわけだけれども、それが年末感をさらに増しているような気がするのである。

私の場合、平成に生れた人間であるので改元と言うものに立ち会った経験がない。下手をすると教科書に載っている歴史上の話であるように思える。それが目の前で取り行われているわけだから、なんとも感慨深いものである。

改元ではなく、新世紀と言う物は覚えている。エヴァンゲリオンではない。20世紀から21世紀へ変わる時のことだ。だが、その時の事は特段特別であったかどうかはあまり覚えていない。
西暦には0年が存在しない。西暦1年から始まるので、20世紀の終わりは2000年であり、始まりは2001年である。このあたりをちゃんと理解していたかと言えばそもそもそこから怪しいし、その上で自分の身の上に何か特別な出来事でもあったかと言えば思い出せないので、たぶん、特に何もなかったのだろうと思う。
いつもと同じように年が明けて、ちょっと特別だろうかとかは思っていたかもしれないが、年末年始はもともと特別なものであるし、それ以上に覚えている事は少ない。ただ世紀が変わるということでそれを扱った映画なんかは良く覚えているが、どうだっただろうか。
何にせよ新世紀を迎えるという所での私はまだ幼かったこともあって、強い思い入れがあまり感じられなかったというのは確かにあると思う。


そういった意味で、今まさに目の前で起きている改元なるものは、実に興味深いものである。
実際改元そのものは31年ぶりの出来事であるものの、こうして生前退位となったのは実に202年ぶりの事であるという。202年。一体いつだと計算しなくてもわかるのは江戸時代のことであるということだ。202年前とは幕末薩摩藩を率い島津久光が誕生した年であり、解体新書の翻訳者の一人である杉田玄白の亡くなった年でもある。そう聞くとなるほどかなり前のことであるなと思うだろう。私は思う。同時に202年と言うのがそれほど昔のことではないのだな、とも思うわけである。世の中なんでも繋がっているものなんだなと。


ちなみに改元の瞬間と言うか、5月1日を迎えるその瞬間はぐっすりと寝ていた。普通だったら起きているところだが、あいにく今日朝から出かける予定になっていたので、葉や根する必要があったのである。今日は5時半起き。0時に寝るのはさすがに遅いかな、と睡眠を優先させてしまった。

少々悔しいような、何とも言えない気持ちはあるけれども、まあ許して欲しい。