言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

改元

平成が終わり令和になった。
何とも不思議な気持ちである。昨日も今日も祝日であったからか、どうも年末年始のようである。改元にあたって今年だけ休みが増えたわけだけれども、それが年末感をさらに増しているような気がするのである。

私の場合、平成に生れた人間であるので改元と言うものに立ち会った経験がない。下手をすると教科書に載っている歴史上の話であるように思える。それが目の前で取り行われているわけだから、なんとも感慨深いものである。

改元ではなく、新世紀と言う物は覚えている。エヴァンゲリオンではない。20世紀から21世紀へ変わる時のことだ。だが、その時の事は特段特別であったかどうかはあまり覚えていない。
西暦には0年が存在しない。西暦1年から始まるので、20世紀の終わりは2000年であり、始まりは2001年である。このあたりをちゃんと理解していたかと言えばそもそもそこから怪しいし、その上で自分の身の上に何か特別な出来事でもあったかと言えば思い出せないので、たぶん、特に何もなかったのだろうと思う。
いつもと同じように年が明けて、ちょっと特別だろうかとかは思っていたかもしれないが、年末年始はもともと特別なものであるし、それ以上に覚えている事は少ない。ただ世紀が変わるということでそれを扱った映画なんかは良く覚えているが、どうだっただろうか。
何にせよ新世紀を迎えるという所での私はまだ幼かったこともあって、強い思い入れがあまり感じられなかったというのは確かにあると思う。


そういった意味で、今まさに目の前で起きている改元なるものは、実に興味深いものである。
実際改元そのものは31年ぶりの出来事であるものの、こうして生前退位となったのは実に202年ぶりの事であるという。202年。一体いつだと計算しなくてもわかるのは江戸時代のことであるということだ。202年前とは幕末薩摩藩を率い島津久光が誕生した年であり、解体新書の翻訳者の一人である杉田玄白の亡くなった年でもある。そう聞くとなるほどかなり前のことであるなと思うだろう。私は思う。同時に202年と言うのがそれほど昔のことではないのだな、とも思うわけである。世の中なんでも繋がっているものなんだなと。


ちなみに改元の瞬間と言うか、5月1日を迎えるその瞬間はぐっすりと寝ていた。普通だったら起きているところだが、あいにく今日朝から出かける予定になっていたので、葉や根する必要があったのである。今日は5時半起き。0時に寝るのはさすがに遅いかな、と睡眠を優先させてしまった。

少々悔しいような、何とも言えない気持ちはあるけれども、まあ許して欲しい。

 

GW開けが怖い

今年のGWは10日間もある。毎年10日間休めればいいのにとかそういう事はとりあえず置いておいても、今年のGWには特別感があって良い。
特に私の場合、先月と来月、つまり4月5月が忙しいことが決まっていたので、GWということで会社自体が休みになってくれるのは非常にありがたいことである。作業量を見積もる時に会社休日は勘定に入っていないので、堂々と休めるのが良い(もっとも、遅延が発生したため同僚はGWにがっつり出勤することになっている、私がやらかしたわけではないものの申し訳ない)。


GWが長くてうれしいが、怖いのはその後である。

毎日の生活はかなりの部分で習慣化されている。
朝起きる時間。家を出る時間。どんなペースで歩けば間に合うだとか、頭では特に考えていなくても、身体が覚えているものであったりする。

普段の休みは2日間。ながくてもまあ3連休とかそれくらいなものだから、10日休んだらその辺の感覚がすべてリセットされてしまいそうで非常に怖い。社会復帰できなくなるのでは? とさえ思ってしまう。
なのでぜひ働くためのリハビリ期間が欲しい。GW開けて3日間くらい。ぜひ欲しい。習慣を思い出す期間としてというのと、仕事内容を思い出す期間として。え? GW中にやれって? いやいやそれならあと3日はGWにして欲しい。リハビリ期間として適当に出勤して定時で帰る期間が欲しいんだ。欲しいったら欲しいんだ。


仕事上、共同作業が多いので休みは出来るだけ同時に取ってしまった方が都合がよい。なので裏を返せば、他の人が働いている時にうっかり休んでしまうとリカバリーが結構大変なのだ。同僚はそれで今苦しんでいる。体調不良で休むことは仕方のないことだけれど、その分リカバリーをしなくては、と気負っている姿はかなり厳しいものがある。

GWのような一斉休暇であれば、全員休み明けの状態と言うのは同じである。仕事の効率的には何とも言い難いけれど、こちらとしては気が楽なものである。忘れていてもまあ大抵みんな似たような感じであるし。

とりあえずは何も考えず10連休を楽しんで、あとはGWが開けてから考えたい。
現実逃避? まあそんなものである。仕事の現実を忘れて過ごす日があっても良いじゃない。幸い去年より仕事の残り方と言うか、やり残しのようなものが少ないので、そういう意味では多少気楽かもしれない。
でもまあ、どんなに忘れたふりをしていても、仕事の締め切りは延びてくれないので、そのうち痛い目にあうのは自分なんだけれどね。

そんなこともあろうかと、仕事場にはGW前最終日の自分が残した覚書がある。とはいえただのメモでもある。それを見て思い出せるか、全部忘れていて何をしていたのか思い出すところから始めるか。

5月7日が怖い。

 

山桜、八重桜の季節

八重桜の季節と言うのは、いわゆる「桜」である染井吉野ソメイヨシノ)の開花時期よりも後にやってくる。お花見の季節は終わり。新生活が始まって、まずはGWまで駆け抜けようとしている最中に満開の時期が来るからか、どうも八重桜に意識が向く事は少ない気がする。
少しもったいない。

私はと言えば、先日ちょうど桜の葉っぱとか花を食べる話を調べていた時の名残で、どうも八重桜を「食べ物」と認識してしまっている節がある。だって、見れば見るほど口にしている桜のそれなのだ。桜の花の塩漬けと言えば、八重桜の花を使う。葉っぱの塩漬けは大島桜というこれは山桜の仲間のものを使うのだけれど、見た目はほとんど同じである。葉っぱの形状は変わらない。大島桜は産毛が少ないので食用に適している。


山桜は古来最もポピュラーな桜の一種である。和歌なんかで詠まれるのはだいたい山桜のことだ。染井吉野の親というか祖父母に当たるような種類らしい。山桜と大島桜の交配種が染井吉野の親の片方であるらしい。もう片方は江戸彼岸(エドヒガン)という種類の桜で、これは染井吉野より少し早いタイミングで開花を迎えるものである。
山桜は決まった時期にいっきに咲くことはなく、だんだんと咲いてだんだんと散っていく。大島桜もほぼ同じである。個体差や地域差がかなりあって、一気に咲いたりとかそういうことがないのが特徴である。
その3種類が上手く掛け合わさって出来たのが染井吉野なわけだけれど、あんなに一斉に咲いて一斉に散っていくようになったのは面白いものである。開花時期は山桜側の遺伝子よりもいわゆる里で咲く桜たちの遺伝子が色濃く出ているわけだ。

そういう意味では八重桜は結構見ごろが長い。花びらが舞い散るというようなイメージはなく、なんか気がついたら全部まとまって飛んで行っている感じさえある。花びら同士のつながりが強いんだろうか。染井吉野では花びらは一枚ずつひらひらと舞い落ちて行く感じがあって、それ故に桜吹雪と称されるのだけれど、八重桜のそれはあまり見かけないものである。

要するにジャンルが違うのだ。

花びらが舞い散るような5枚花弁の繊細なタイプの桜と、八重桜のようにまとまって幾重にも重なって丸くふんわりした桜。5枚花弁の物以外は全部八重桜と総称されていて、100枚で菊のようにまとまって咲くものもある。


八重桜は百人一首にも詠まれている。

「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」 (伊勢大輔


奈良時代の花見と言えば梅の事である。花と言えば梅、という風潮が変わったのは平安時代になってから。つまりこの伊勢大輔の時代と言うのは桜のブーム真っ盛りの平安時代なのである。いにしえの都の奈良(平城京)は、梅が圧倒的ブームだった時代の都であるわけで、八重桜はもう平安時代には奈良でもうかがい知れるようになっていたのである。
事実かどうかはさておき、そんな事を考えるのは面白いものである。


八重桜の季節が終わる今日この頃、いよいよGWが始まる。そうしていつの間にか梅雨がやってきて、あれよあれよと夏が来る。
季節の移り変わりとは早いものである。

酸味のあるバナナ

酸味のある若いバナナが好きだ。
青いバナナはもちろん熟しきっていないので硬い。皮をむくときに「メリメリ」と音がするような場合はさすがに若すぎるけれど、全体がほとんど黄色くなっている状態までになれば、茶色い斑点が出ていなくとも普通に食べられるものである。
甘味は確かに追熟をしっかり施したものと比較すれば劣るが、若いバナナには酸味がある。あれが好きなのである。甘くて少し酸っぱいのでなんだかバナナではない何かを食べているような気にもなるかもしれないが、さっぱりしていておいしいのである。

バナナの食べごろというと、たいていは皮の表面に茶色い斑点が出てきたころを食べごろと呼ぶ。茶色い斑点がシュガースポットと呼ばれるモノであり、これが出てきたら食べごろのサインであるという。追熟されて甘さが増すんだそうだ。
だが待ってほしい。私はそういった甘いバナナも確かに好きだけれど、若くて熟しきっていないバナナも好きなのである。私にとっての食べごろとは熟して茶色い斑点が出るよりも前、青さが消えてきたくらいのあたりからである。

酸味のあるバナナを食べるという場合の食べごろというのもそれなりに難しい。なぜなら買ってきた時点でどれくらい熟しているかが未知数であるからだ。あまりに若い、青々としたバナナはそもそも食べてもおいしくない。若干えぐいしなんというか「青い」味がすることもある。買ってきた時点ですでに熟しきっている場合もある。茶色い斑点が出きっているものだ。普通にバナナを食べる分にはそれで何ら問題がないのだろうけれど、酸味のある味が欲しい場合は買ってきた時点でその目標を達成できないのである。
意外と酸味と甘みの両立している期間というのは短い。


青いバナナは若干えぐい味がすると言ったが、とはいえ口にしてみるまで分からなかったりするものである。一度向いてしまったバナナはそのまま食べるか、保存するにしても冷凍するか。あるいは調理でもしてしまうしかないだろう。
冷凍バナナは結構美味しい。夏とかに食べると普通にアイスの代わりみたいになるし、さっぱりして美味い。ただ残念ながら若いバナナよりは完熟の甘いバナナを凍らせた方がずっとおいしいのは確かだ。輪切りにして保存しておけば、ヨーグルトとか杏仁豆腐とかといっしょに食べたりするときにすごく便利である。
じゃあ若くてそれもちょっとまだえぐみがあるのに皮を剥いてしまったらどうすればいいか。そもそも色を見たり、房から切り離すときに「メリメリ」っと音がしたら食べないのがいいのだけれど、それでも当たってしまったとき。私は無理して食べてしまっていたが、どうやら加熱調理してあげると甘みが増して美味しくなるらしい。調理方法も皮ごとトースターに放り込むだけ。これは盲点だった。今度ぜひやってみたい。

種類が違うらしいけれど、アフリカや東南アジアとかではバナナが主食の地域がある。ジャガイモのような感じで料理に使うらしく、でも味はバナナっぽさ(もちろんバナナではあるのだけれど)もあって面白い味がするとか。

実に食べてみたいものである。良く考えてみると、東南アジアというのはともかく、アフリカの料理と言うのはあまり縁がない。これまでチャンスもほとんどなかったように思えるし、実際どういったところで食べられるのかも良く知らないので、いい機会なので調べてみたいと思う。

新しいバナナを探して。

頭痛で帰りたい日

頭が痛いと何もできなくなる。頭痛と言うのは本当に厄介だ。ひたすらに眠い寝不足の時になったかと思えば、寝すぎてしまった時にも頭痛がやってくる。ちょうどいいという塩梅に足りなくても越えてもダメなのだ。

せっかくの休みの日。頭が痛いとそれだけで一日損をしたような気がする。気がするというか、実際に損をすることが多い。頭が痛いと食欲もなくなる。下手すれば吐き気すらある。でも熱があるわけでもないし風邪をひいているわけでもない。だから大人しくしているしかない。

大人しくしている、というのは案外大変である。だって、頭が痛い時に大人しくしているのはかなり暇である。例えばPCは操作できないし、スマホだってもってのほかだ。だって頭が痛くなる原因でもあるわけだから。私が家にいる時の時間の使い方なんてほとんどスマホやPCである。それが封じられてしまったらやることがない。
基本的に目を使うようなことができなくなるから、読書やテレビすらも無理だ。テレビを音だけぼんやり聞いている事は出来るけれど、それはあくまで「出来る」だけで、頭が痛いことには変わりがないので極めて不快になるだけである。

寝すぎていて頭が痛い場合は、寝ることも出来ない。入眠自体はまあ出来てしまうのだけれど、その場合頭痛の原因がさらに増幅されてさらにひどい頭痛になる事さえある。血管が拡張されて周りの神経を圧迫していることが原因だったりするので、頭を冷やしたりするのは案外効果的だったりする。でもまあそれで治るかと言えばそうでなかったりするので、もうその日は諦めて出来るだけ何も考えずぼんやりと過ごしてしまうに限るのである。


仕事中に頭が痛いというのも最悪である。何もしたくないのにしなくてはならない。ぼんやりしているわけにはいかないのだ。よりによってPCの画面を見つめなくてはならないと来れば、地獄以外の何物でもない。頭痛を抱えながら集中できる時間なんてたかが知れている。当然ミスも出る。ミスが出るから慎重にやらねばならないところなのだろうけれど、あいにく頭が痛すぎていつもより能率が下がっていて、上手くこなすことすら難しいのだ。


頭痛で会社を休むのは難しい。風邪みたいに明らかに調子が悪そうな場合は帰りやすいし休みやすい上に、病院にでも行けば風邪の診断が出て薬をもらえたりする。その事実だけでもずいぶん休みやすいものである。
頭痛はパッと見普通だから嫌だ。顔色が悪いかどうかなんて気づかれないものだし、悪くても風邪をひいている時のそれとは違う。あくまで自己申告的なものであるからどうも周りに気づいてもらうとかそういう事を期待するのは無理がある。じゃあ頭が痛くてしかめつらでもしてみたらどうかとなるけれど、どうせ毎日画面に向かってしかめつらをしたり時には悪態をついたりしているわけで、むしろいつも通りにしか見えないだろう。困ったことに頭が痛いのは一過性の場合がある。とはいえ一過性とは言え半日とかそれくらい引きずることもある。無理に作業をするとなおさらだ。
だからこそアピールが難しい。狼少年のようにはなりたくないのだ。頭が痛いですアピールなんて思われるのもいやだ。結局我慢してしまったりする。
頭が痛いのに。辛いのに。

頭が痛いので休みます、それでは。

同じ映画、何度も見ますか?

同じ映画を何回も見たいと思う時がある。
多い時は2度、3度と見に行く。何度も見る。なぜか? と言われても言語化するのは結構難しい。無理に言葉にすると「良かったから」なのだけれど、あのシーンをあの場面を、あのセリフを劇場のスクリーンで見たい。そんな気持ちを上手く言葉にして表現するのは難しい。ただまたあの時の感覚を体験したい。再体験したい。そんな気持ちになっているから何度も映画館に行くのである。

私はいわゆる「映画好き」の人間ではない。どちらかと言うと普段はあまり見ない方だ。ライブビューイングのために映画館に足を踏み入れる方がずっと多いくらいである。だから他と比べてどうとか、他と比べての良し悪しとかはよくわからない。純粋に気にいったかどうかとか、きっかけがあったかどうかとか、そういう基準しか持っていない。
だからこそ、好きだ、と思った作品に出会った衝撃というものはとても大きい。何度も何度も繰り返し見たくなる。見る度に好きになる。何度も衝撃を思い出しては映画館に足を運ぶのである。知らなかった頃には戻れなくなるのだ。何も知らなかった頃と、見てしまった、出会ってしまった後とではもう違う人間になったかのような、そんな感覚。巨大な感情が渦巻いて自分の中をぐるぐると駆け巡っているような感覚に襲われる。

物語は劇薬である。これは映画に限らず、物語と言うものは劇薬なんだと思っている。

映画館の広いスクリーンで見る映画はインプットされる情報が多い。知らないうちに見落としていることもある。何度も見るのはそうしたことに気が付いたり注目してみたりしたいという意図もある。
また原作のある作品であれば、原作に手を出してまた見に来るというパターンもある。多くの場合、映画では語られていない内容とかが補完されているので面白い。別の物語を映画で展開していることもある。どちらが正しいかとかではなく、違いをまた感じに行くのも良いものだと思っている。この小説から上手く映像化したんだな、なんて思ったらもう2度目の鑑賞のチケット手配に移っている、そういうものである。

本当に気に入った作品はBlue-ray(以下BD)を買うこともある。買うけれど、大抵映画のBD化は半年後とかそれくらい後だ。今見たいと思ったら劇場に足を運ぶ、それが正解。
映画を映画館で見られる期間と言うのは限られている。上映期間は無限ではない。まして、社会人にとって映画を見に行ける時間は限られている。だから何度も見に行くし、見に行くスパンは自然と短くなる。プライベートに使える時間が短くなっても、優先度が一気に繰り上がって、時には翌日の睡眠時間が気になるような時間に見に行く事さえある。それはやっぱりその映画が好きだと思ったから。

映画館の音の良さと言うのは、無音部分にあると思っている。映画の表現として、不意にBGMや雑音が消えるような演出がなされる場合があるけれど、あれを映画館で体験するのは本当に好きだ。BDで再現するのは結構難しい。家に素敵なホームシアターがあるわけではないし、素晴らしいヘッドフォンがあるわけでもない。だからできるだけ見られるときは映画館で見たい。そう思ってしまうのだ。
BDにはBDの良さがある。いつでも止められる。いつでも戻せる。一人でもじっくり見ることができる。気になっていた部分を検証したりするのにも最適だ。買ってしまえばずっと残るのも良い。家だとなかなか腰を据えてじっくり鑑賞する時間を取るのは難しいけれど、分割したり止めたり巻き戻したりでとにかく自由で誰にも邪魔されない空間を作ることだって出来る。それは素晴らしいことだと思う。


ということで、来週もまた映画、見て来ます。

マクドナルドがない最寄駅

地元駅の近くからマクドナルドが撤退して久しいのだけれど、未だになくなってしまった理由がよくわかっていない。
駅前立地でそれなりに広さはあった。割と混雑している印象で、屋内席ではなく屋外席を使うことが多かったような印象がある。それなのにある日突然、マクドナルドは撤退してしまったのだ。

飲食店の出退店なんてままあるものだし、理由なんてわからないものなんだけれど、マクドナルドはなくなった時に結構残念に思った記憶があるので、それを未だに引きずっているわけだ。


今、家の近くでマクドナルドを食べようと思ったら、電車に乗る必要がある。正確には歩いて行ける範囲にも一応ないことはないのだけれど、30分弱歩いて食べに行くのか? というのと、駅まで歩いて電車で一駅乗っていくのか? ということであれば断然後者である。幸い隣駅は定期圏内なので電車賃が別途かかるわけではない。

しかしながら隣駅にそんなに用があるわけでもなく、用があってもじゃあ目的地はマクドナルドなのかといえばそんなことはたぶんほとんどない。基本的についでで入るとか、つい寄るとか、そういう存在。ご飯を食べようと思って入るかと言われれば否定はしないけれど、それは朝ご飯が遅かった時とかの軽い昼ご飯とかそういう扱いである。
そんな扱いではあるけれど、やっぱりなかったらなかったでさみしいというか物足りなく感じるのだ。わざわざ狙って足を運びはしないけれど、なかったらちょっとだけ不便というか物足りないような感覚である。

ファストフードの店と言うのはわざわざめがけては行かないかもしれないけれど、目に着いたら意外と入るものである。だから遠征して行って入ろうかということにはなかなかならない。あるから入る。なければそんなに行かない。


ところでマクドナルドの代わりに(という表現が正しいかは置いておいて)モスバーガーの店舗が最寄り駅近くにはある。近いとは言ったが、旧マクドナルド店舗と比べるとずっと駅から遠い場所にある。
できたのはいつだったか。マクドナルドと共存いたかどうかは記憶が定かではない。似たような時期に無くなって似たような時期に出来た気がする。

モスバーガーは価格帯がかなり違う。私にとっての役割と言うか位置づけも結構違う。マクドナルドはポテトやナゲットを食べるのが好きだ。バーベキューソースなんかもいい。おやつとか軽食、時間つぶしに使ったりもする。
対してモスバーガーはもう少し位置づけが食事に近い。モスバーガー(商品名の方)のあのミートソースっぽい味が好きだ。

私にとってはマクドナルドかモスバーガーとは取捨選択の関係ではなく、共存し得る関係なのである。どちらも欲しい。どちらも一緒に在って欲しかった。

 

ファックス文化

ファックスって今時使います? という話なんだけれど、恐ろしいことに社会人になってから良く使うようになった。会社でやたらとファックスを使うのである。いやいや正気かよと思ったけれども結構いろんな会社でそういうことがあるらしい。一度広まった常識や習慣というものはそう簡単に変えられないのか、あるいは「初期投資は簡単だけど新しく仕組みから作り変えるのは大変だよね」ということなのか。わからないけれどとにかくファックス文化というのは往々にして社会の中に存在している。

そりゃまあ私が小学生くらいの頃は携帯電話は全然普及していなかったので、ファックスとかはそれなりに使った事はある。個人宅に固定電話があって、ファックス付きのものを使っている家庭も多かったと思う。
そんな思い出から早十数年。平成も終わろうという今日この頃にファックス文化というのは一切滅びようともせずに、残っているところには主力として今なお使われている現状がある。家庭では固定電話もかなり減ってきているのに、だ。

ファックス文化は印鑑文化と深く結び付いている。契約なんかが関わってくる場合、紙に印鑑を押して渡す必要がある。それが遠距離の場合郵送かなんかでやり取りをするととにかくタイムロスが発生するから、ファックスで送ることで代用していたりするわけだ。
それでも印鑑を押した原本が必要になることもしばしばあるので結局意味がないような気もするけれど、合意を得られたとか契約が成立したとかと「みなし」てさっさと仕事を進めたい場合なんかはこれでいいんだろう。
客先常駐の仕事での請求書作成なんかの時に良く使われるパターンがこれだ。

そもそもなぜデータで送りつけるのがダメなのか。pdfかなんかでメールにのっけて送りつければ事足りそうだし、何ならwordだろうとExcelだろうと簡単にデータ共有できる時代である。何も極秘事項で社外持ち出し禁止の書類を受け渡ししようだなんて思っちゃいないのだ。そんな極秘事項ならますますファックスなんて使っていられない。
つまり本当に必要なのは印鑑の押印であるという見方もできる。書類やそこに書かれていることの保障として印鑑を押印した、その事実こそが確認したいものなのである。じゃあ印鑑を押した書類をスキャンしてpdf化でもなんでもして送ればいいのに、と思うが、データでは複製が簡単にできるからダメなんだそうだ。

とある会社の例だが、その会社は総務部が違う建物に入っていたので、何かと書類を総務部に送りつける際にファックスを利用していた。契約云々の書類もそうだし、経費申請なんかもそう。下手すると退職にともなう誓約書すらファックスで送っている。
書類はPC上でデータを作成して紙に印刷し、そこに押印して送る。押印と言ったって名前と日付の入ったスタンプみたいなものだ。会社が利用している勤怠システム上でも各種書類の提出をしているのに紙でも二重で出すという、形骸化したファックス送信を重用するちょっと何言ってるのかわからないタイプの会社である。

驚くことにこれは特殊な1社のみで行われているような事例ではない。下手をするとそれなりに良くある事例であるから嫌になる。


自社に向けて外出先からファックスを送る。これは百歩譲って理解できる。契約書とか勤務表とか、自社ではなく他社に出向いて仕事をしている場合には帰社する以外に書類を直接やり取りする方法を考えないといけない。ただ会社で使っているPCというのは大抵USB等の外部からのデータのやり取りは禁止していたりするので、スキャンして取り込んで……とかも制度上NGだったりする。セキュリティー上仕方のない事が多い。

そういう時に郵送ではなくファックスokであれば多少楽だし、受け取った総務なり上司なりが確認するのも楽である。

印鑑を押した書類をファックスして印鑑を押してもらってファックスで戻してもらう。受信したファックスはコピー機に勝手に吐き出される仕様なので、いちいち内線で報告して速やかにピックアップしてもらう。こんな愚かなシステムを採用している会社よりはだいぶマシである。


ところで電話番号とファックス番号というのが併記されている場合がある。一緒の場合と違う場合があるわけだ。死ぬほど面倒くさい仕組みである。制度がつくられた時は画期的だったのかもしれないが、意識していないと本当に忘れる。それを調べる手間も面倒くさい。相手の名刺なりメール末尾の署名欄なりを探してきて見ないといけなくなる。さすがに連絡先としてファックス番号まで登録している自信はない。相手が個人ではなく会社や店の場合はなおさらだ。

いつも同じところにしか送らないなら別に何でもないしそのうち覚える(例えば自分の会社に書類を送るとかそういう)けれど、じゃああんたは200箇所ある量販店の支店全部のファックス番号と電話番号が違うかどうかを調べて違ったらどう違うのかを聞いて送ってとか一々やりたいのかと。電話番号が一緒だったら一緒だったらで電話中はファックス送受信ができないしファックス送受信中は電話ができない。なにこれ。10枚くらいうっかり送ったら10分くらい電話が使えないわけで。紙一枚ぺらっと送りつけるだけで意味分からない労力と時間を使ったうえ正式な書類は印鑑付きの原本が必要だなんて言われた日には発狂したくもなろう。

じゃあなんでファックスで一回送らせたんだよ、とは店も自分も思うだろうし、ファックスで書類を要求した方が結局確認目的とか監査対策とかにしか使わないなら本当に要らないと思う。本当に無理して自分と相手の時間を使って紙のやり取りをファックスなんかでやるべきじゃない。


ファックスが滅びてくれは言わない。滅びてしまえとは思う。思うけれどもう本当に業務上仕方なく使うこともある。だから使わなきゃならないものだけに使わせてほしい。意味のわからないやり取りや形骸化していて目的のわからないことに使いたくないよね、紙の無駄だし。

 

夜桜は暗すぎると見れないんだって知らなかった

夜桜を見に行ったと言えば聞こえがいいけれど、実際はメンバーが集まれるのがちょうど夜しかなかったという話なんだけれども、ともかく今年はそんな感じで花見をしてきた。


例年、花見というのはあまりしたことがない。なぜなら花粉症患者にとって花見は半分自殺行為だからである。常に外出時はマスクをしているわけだけれど、飲食するタイミングではマスクをつけている事はできない。店ならまだしも花見は完全に屋外なのである程度覚悟を決めて行くしかないのだ。

今年は花見に誘われたのでちゃんと覚悟(翌日外出しないでくしゃみを納めるべく、じっと屋内で過ごす覚悟)を決めて、出かけたわけである。


花見に行ったのは千鳥ヶ淵や武道館で有名な北の丸公園。それはそれは混雑している……と思いきや、夕方から行くような酔狂な輩は少なかったらしく、意外と空いていた。
大学入学式を武道館でやっていたらしく見かけ上の人はたくさんいたし、千鳥ヶ淵方面や田安門あたりは人で溢れかえっていたけれど、それもほとんどは花見客ではなかったようだ。拍子抜けである。
夜桜を見にと言いつつも17時くらいから場所を確保すべく来ていたものの、結局集合時間の18時まで丸々1時間待機時間になってしまったのである。

だんだんと減っていく花見客。家族連れが多かったのと、都心である事も含めて人が引いて行くのはわかるのだが、それにしても人が少ない。
例えばテレビで取材されるような代々木公園や井の頭公園なんかはもっと夜まで人で一杯なイメージがあったので、それも結構驚いた。まして土曜日である。翌日も休みであるのにどうしたのだろう、なんて話していた。

それもそのはず、この公園、街灯がかなり少ないのだ。つまりどういう事かと言うと、夜桜鑑賞にはあんまり向いていないのである。

私はと言うよりも我々はそれを完全に失念していた。桜の木の真下に陣取ってせっせとシートを引いて宴会を始めるも、すぐに日が暮れて来てあたりは真っ暗になっているのである。

さすがに笑った。

桜が見えないどころか手元も良くわからない程暗いのである。飲み物も食べ物もどれがどれだかよくわからないという有様だ。まあどうせ花より団子なので桜は見たり見なかったりするものだとは思っていたけれど、それどころか手元すら見えないとは思わなかった。

仕方がないのでスマホのライトをつけ、袋の中に入れて置くことで間接照明を創り出す我々。屋っていることがだんだんキャンプのようになってくる。暗闇の中ぼんやりとした灯りを囲んで飲んだり食べたり。人影まばらな公園内で、特に誰も騒いだりせず、それでも楽しく過ごしていた。それはそれで面白いものである。

面白いけれど「何で我々はこんな場所でこんな事をしているんだ感」がすごい。すごかった。


花見と言うのは場所取りが非常に面倒くさいイメージがあった。ともすれば座るところがないとか、シートを満足に置けないとか、そういうイメージすらあった。妥協して花の全く見えないところに場所を取るのか、狭いけれど桜の近くで場所を取るのか。そういうものだと思っていた。
たぶん今まで一番身近だった桜の名所が、結構狭いスペースだったのである。そんなことに今更気づかされたのだ。場所取りの競争率の低い花見会場は良いものである。今年は桜の見ごろが長かったのも良かった。花見の出来る土日が2回あったので、それで分散したということもありそうだ。

ただし人が少ないのにはちゃんと裏があるということも良くわかった。これだけ暗くては人も少なかろう。

人が少なくて暗くて桜は見えないけれど、それでも楽しかったのだからきっとこれはこれでありだったのだ。きっと。きっと。

春とつくしと

桜を見ると「春が来たなあ」と思う。あっという間に咲いて、満開になって、散っていくと新学期というか新年度が始まるんだなあと毎年のように思っている。
今年は桜の開花している時期が結構長かった。というか今でも普通に咲いているところはまだまだ咲いているくらい、長持ちである。雨がそんなに降らなかったからか、寒い日が結構あったからか。おかげて今年は4月に入ってからお花見をすることもできたので、万々歳である。

それはそれとして、桜の季節とだいたい同じくらいに出てくる、春を感じる植物が私にはある。それはつくしだ。土の筆と書いて土筆(つくし)。あれが生えてくるといやあ今年もこの季節がきましたな、となるのである。

つくしはおいしい。いやいやあれって食べるのかよ、と思うかもしれないけれど、つくしは普通に野草として食べられるものである。
その辺に生えているものだろうと何だろうと、つくしはつくしだ。調理すれば普通に食べられる。あまりに身近にその辺に生えているのでスルーしがちだが、その辺に生えてるものも普通に食べられる。食べたこともある。採取に特別な技術はいらない。本当に適当に、根本のあたりから摘んでいくだけだ。胞子が開き切っていない物の方が良いとか、10cmくらいの長さになっているものの方が良いとかそういった事はあるけれど、誤差の範囲内である。後のルール的なものは山菜採集やキノコ採集と同じで、「取りつくしてしまわない」ことくらい。お散歩が割に出かけて行って、せっせと摘んで、さっさと帰る。たくさん取れる場所を知っていればそれこそ遠征はほとんど必要ない。年によって出来不出来はあるけれど、まあ3か所くらいポイントを見つけておけば無難だろう。

つくしそのもののアクが強いうえに、「はかま」をとる作業で手が真っ黒になるので、食べられるようになるまで結構時間がかかるが、その手間をかけてもなお食べたいと思えるほどに私にとっては好きな食べ物である。できれもう安定供給してくれればいくらでも食べるけれども、それは野暮というものだ。
だいたいつくしは栽培向きではない。スギナの地下茎から増やしたり、つくしの胞子を撒いておくことでプランター栽培をおこなうことができないこともないらしいけれど、調べれば調べるほど大変そうだ。先に述べたようにわりとたくさん取れるポイントとかがあるうちは、採取してくるだけで間に合うので栽培の必要性は感じたことがないのも理由である。土手とか、畑の畔とか、そういう所に良く生えているので気になったら探して見て欲しい。活用するレシピなんかも今のこの時代、インターネット上で探すと簡単に出てくる。一番好きな食べ方である佃煮も調べたら今食べているのと同じようなレシピが出てきたので私も保存しておいた。

つくしのおいしさはあの独特の香りとほろ苦さである。表現しにくいのだけれど、実に「春の味」という感じ。
葉っぱではないので野草感はあまり感じないのも良い点だろうか。つくしはあくまでつくし。あの見た目と食感が苦手という人や、本当にその辺で生えているのを食べているのでそのあたりに抵抗のある人には向かない。


今年もまたつくしを食べた。春が来たんだなと思った。

ところでつくしというのものは今までずっと家で食べるものだと思っていたのだけれど、外で食べることもできるのだろうか。つくしが食べられる店、ぜひ知りたい。