言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

楽しい水風呂

水風呂といえば真っ先に思い浮かぶのはサウナである。サウナで汗をかいた後、水風呂に浸かるのは最高に気持ちがいいことであるらしい。らしい、というのは私がサウナにはほとんど入ったことがないからであるけれど、熱いお湯に入った後の水風呂も気持ちがいいものであることはよくよくわかっているので、そういうものだろうと理解をしている。北欧ではサウナに入った後、極寒の湖にそのまま飛び込むことさえあるというから、水風呂の概念そのものは結構普遍的なものなんだろうと勝手に思っている次第だ。

とは言うものの、私が水風呂に入るようになったのはここ数年の話である。それまでで一番好きだったのは露天風呂で上半身を冷たい外気にさらすことであった。今でももちろんよくやる行為である。雪の中の露天風呂で涼んだりお湯に浸かったりするのはとても気持ちのいいものであり、また解放感もあって良い。

水風呂もまた気持ちよさと解放感の得られるものである。もっとも、水風呂の解放感とは露天風呂のそれとは多少趣の異なるものであるのは間違いがない。解放感というのはより概念的というか、意味が違うというか、なんというべきか。まれに露天風呂のような形で水風呂が設置されている場合もあるが、ほとんどの場合水風呂は屋内、それもサウナの近くであることがほとんどである。だから外部に向けて特に開放的ということはない。どちらかというと水風呂そのものの話であって、服を着ないで入る冷たい水、への何とも言えないむずかゆさが解放感そのものであるかもしれないと思っている。裸で入るのはお湯であって冷たい水ではない、という普段の常識がなんとなく体に染みついていることを気づかせてくれる貴重な機会でもある(別にそんなものなくてもいいのだけれど)し、。水着で入る温水プールや温泉はそこまで違和感を覚えないのに対して、裸で入る冷たい水風呂というのは不思議な感覚に襲われるのはなんとも面白い話である。

私が水風呂に何のために入るのかといえば、それは交互浴というやつのためである。理論は気になったら調べてほしいが、何度も熱いお湯と冷たい水を行き来することで身体が温まったまま冷めなくなるので、冬にはとてもよい温浴方法だと言える。極寒の露天風呂に出向く前に行うととても良い。水風呂に初めて入るときはかなり抵抗があるものだが、1度目は身体に軽くかける程度にとどめ、2度目の水風呂タイムで肩までつかるとそこまで抵抗がない。1度浸かってしまえば後はもう慣れたもので、平気で入れるようになる。
気持ちがいいのでぜひやってみて欲しい。私はそこまで長風呂するほうではなかったはずなのだが、この方法を使うようになってからはかなり長い時間居座る場合も増えた。端から見れば「何度も移動してどうしたんだコイツは」という感じだろうけど、水風呂と大浴場とを交互に行き来しているだけの事である。

温まった身体を冷水にいきなりさらすという行為は、そうめんを茹でて氷水で「締める」ようなものだと時々考える。水で締めて、お湯でほぐして、また水で締める。そんでもってまた解きほぐす。そうめんはたぶん繰り返しても美味しくならない気がするけれど、人間の身体はとても温まるし、水風呂に入っても熱さを失わなくなる。私はこの時の事を勝手に「整った」とか呼んでいる。たぶん誰かも言っていた。整えてどこに行くかと言えばせいぜい露天風呂くらいなのだけど、まあそれでいいんだと思う。

身体を洗って温まるためだけにお風呂に入るのもいいけれど、せっかくスーパー銭湯とかに言ったのならば設備をいろいろ使ってみるのも良いと思う。普段使いとちょっと違った利用法。それが水風呂の活用にあると思う人はぜひやってみて欲しい。
くれぐれも心臓の弱い人とかは気を付けてゆっくりやってみること。

窓のない部屋


この間台湾旅行をしたときに泊まったホテルが窓のない部屋だった。ご丁寧にカーテンまでつけてあったのだが、残念ながらカーテンの向こうは壁であった。窓がない。外界とのつながりがあるのはたぶん換気扇くらいのものだろう。屋上に出てみてわかったことだが、このホテルは決してビルの中に埋もれてしまっているわけではなかった。むしろ裏通りではあったが道に面している様子だったので、どうして道に面している側にあったほかの部屋にも窓がなかったのかは正直よくわからない。そういうものなんだろうか。

日本のホテルではさすがに窓のない部屋に泊まった事はない。窓が開かないとか、あるいは目の前が壁であるということはビジネスホテルではよくある話だ。もっと言えば、窓がすりガラスになっていて、なおかつ開けることができないものもあった。でもまあ一応光は差し込んでくるので、今が昼間なのかそれとも夜なのかくらいは分かった。

ところがまあ台湾で泊まったホテルは窓が完全にないときた。鍵をかければ密室である。ミステリーでよく出てくるあれ。そこに3泊もしたのだから誉めてほしいと言いたいところだが、意外と普通に生活することができた。どうせ夜と朝しか帰ってこないので、日が入らないとかはあまり気にならなかったからだろう。換気も空調も普通にできるし、台北市内のど真ん中、それもビジネス街のど真ん中(隣が富邦銀行の本店? 的な場所)のビジネスホテルであった割には格安であったので、窓がないくらいでそんなに不満はなかったという事情はある。
ただ唯一怖かったのは、沖縄が震源緊急地震速報が来た事を知った時。外の様子が全く分からないのは災害の時にはかなり怖いものである。幸い台北震度1くらいだったのでなんてことはなかったけれど、本当に大きく揺れていたら困ったと思う。

ホテルならば基本的に夜間のことなので、リゾートホテルでもなければさほど気にすることはないかもしれないけれど、例えばそれが仕事環境となると少し事情が変わってくるものである。なぜなら日中、明るいうちにずっとその場にいるわけだから。例えば会議室とかで窓がない部屋はよく存在すると思う。そんなところに1日中押し込められていると、不思議と時間の感覚というものがなくなってくるわけである。数字では時間を確認できるけれど、どうも外の様子がわからないと調子が狂ってしまうものである(体験談)。外の様子なんて見てどうするものでもないけれど、なんとなくまあ毎日のことだと変な気持ちになっていってしまっているのである。不思議なものだ。

そういう環境に、今は毎日押し込められている。駅直結でいよいよ外の様子がわからない。雨が降っているかとかはもちろんわからないし、気温の漢字も正直良くわからない。通勤で汗だくになっているので、自宅と最寄駅くらいしかヶい気に触れることがない。良いのか悪いのかよくわからないけれど、しばらくは窓なし生活が続くので、気がふれてしまわないように頑張ります。

 

歌詞カード

昔はずっと歌詞カードを読んでいた気がする。音楽を聴いている時だけでなく、聞いていない時だって下手をすると読んでいた。読んで脳内で歌うのだ。お気に入りの曲を何度も歌詞カードと共に反芻した。そんな時代があった。学生時代である。それも中学生くらいのときの話だ。
元々詩作というかそういったものが好きだったのもあって、歌詞だって詩だよなと思ったのがのめり込むきっかけだったか、あるいは曲をとにかくカラオケで歌いたくて覚えようとしたのがきっかけだったかは思い出せない。とにかくそれまで洋楽もJ-POPもほとんど聞いてこなかった私が、アニソンとかその辺の文化に浸かってから急に音楽好きになった事もあって、とにかく何でも覚えたいというような、そんな時期だったのだ。
その気持ちが勉強にも向けばよかったのだろうけれど、好きな科目しか頑張れないオタクにありがちなアレがあって勉強の方はかなり疎かになってたと言えよう。部活も運動部だったし余計に拍車をかけた。


そういうわけでとにかく曲を聴きまくったわけだけれど、大事にしていたのが歌詞カードだったのである。インターネットはとっくに普及していたし、有線ではあるがルーターからちゃんと繋いでやれば滞りなく見ることができたが、学生であったしハードルは依然として高いものであった。そういう意味でアナログな歌詞カードは非常に便利であった。見ればそこに書いていある物を参照する方が便利だった時代である。携帯電話は持っていたけれど、通信料金がダイレクトに値段に反映されるプランが主流であった時代に、毎度歌詞を見るためにネットを使うなんてのは非現実的であった。

だから、歌詞カードはCDケースからは取り出された状態になっていることが多かった。すぐに歌詞を見られるように、いちいち取り出すのが面倒くさいからそのまま置いておく。光景としては美し光景ではないけれど、実用性第一でそういうことになっていた。
いつもそうやって歌詞を見ていた。

学校でも授業中に見られるようにルーズリーフとかメモ帳とかに書き写したものを持っていて、板書とかをノートに取りながらちらちらと見ていた。早く家に帰って曲を聞きたい気持ちの行き場をつくってやるためや、あるいは頭の中で曲を流しておくための事である。何も見ずにそらんじていると、無意識のうちに同じフレーズばかりが流れてしまうので、歌詞を見るという事はとても大事だった。
友達やあるいはTSUTAYAなんかで借りてきたCDは、音源はiPodに入れてしまえば良かったけれど、歌詞カードは返却してしまう。だから一生懸命書きうつしたり、あるいはPC上でwordファイルとして打って残したりしていた。必死の作業である。今でもデータは消えていないので外付けHDDのに残っているが、下手をするとそれをプリントアウトしたものさえ残っているものがある。今となっては全く意味のないことだけれど、当時はとても大事なことであった。だからなんとなく捨てられずにいる自分がいる。
今はそれこそスマホで歌詞くらい数10秒で参照できるから歌詞カードだってちゃんとCDケースにしまっているけれど、当時は紙ベースであっても持ち運べるのは便利だったし、控えやバックアップの意味でも優秀な代物だった。中学生なんて、授業中に漫画を読んだり携帯を使ったりしたらそれこそ先生に没収されてしまうわけで、紙切れ1枚ならいくらでも偽装できるし、見つかったところで痛くも痒くもない。今思えば馬鹿な話であるし非常に滑稽な光景なわけだけれど、当時は大まじめにそれをやっていた。それほどのめり込んだということだろう。

今では歌詞カードはほとんど読まなくなってしまった。スマホで検索して見たり、下手するとカラオケで表示される文字を見る方が多くなってしまったかもしれない。読んだら結構発見があったりするし、歌詞と照らし合わせて音楽を聴いたりするのも良いけれど、きっと歌詞カードはもうあんなに紙で読み込むことはこの先ないんだろうなぁ。

全都道府県の宿泊制覇

すでに47都道府全県の制覇というのは完了していたのだが、先日ついに47都道府県の全部の県での宿泊を達成した。
最後に残っていたのが徳島県香川県で、これを一気に制覇することによって達成することができた。徳島はともかく香川が残っていたのが意外だったが、そういえば前回香川に足を運んだ際は「サンライズ瀬戸」でやってきたので、早朝に高松駅についているのである。そのままうどんを食べて、それで高知に行ってしまったから香川で宿泊はしていなかったのだ。意外な落とし穴だ。
徳島は立地上、香川というか高松から行きやすい土地である。例外として淡路島や和歌山からという方法はあるものの、車でいろいろ動けるようになったのが割と最近なこともあって、鉄道移動を考えると基本的に高松(あるいは多度津)あたりを経由する必要があるわけで、その高松がおろそかになっていたのだから自然と徳島にもほぼ行ったことがなかったわけだ。


そもそも関東在住の私からして、陸路で四国入りするのは絶対的な距離があって大変であるということだ。新幹線で岡山まで行って、そこから高松まで1時間はかかるし、それならばせっかく存在している寝台特急でゆっくり出かけたほうが旅情があってよい。どうせ似たような金額を払うならば割高でも寝台のほうがよいというのが正直なところだ。飛行機は定価だとさらに値が張るので、パッケージツアーとか早割とかLCCとかそういうものを駆使する必要がある。さすがに倍額ポンと出せるようなほどではないので、せっせと割引を探していくわけである。

四国は行きにくいならば九州は、となるが、九州は福岡空港の存在が大きい。主要空港であるがゆえに便数が多く、時間帯も価格も航空会社もそれなりに選ぶことができる。何よりLCC程安くはないものの羽田からスカイマークが出ているのも素晴らしい。LCCの良いところはその安価さであるが、反面成田空港までのアクセス面で大きくマイナスであるし、18きっぷでも使わない限りは結局安くもないし近くもない。成田エクスプレスに乗った日には普通に4千円くらいかかる距離に住んでいることも余りいただけないポイントだ。そういう意味で近くてアクセスしやすい羽田から安価で飛び立つことができるメリットは計り知れない。


今回は徳島空港高松空港を使ったのだのだけれど、これはJALの宿泊と航空券のパッケージが思いのほか安く(1泊と航空券込みで24,000円)それならば容易に行けるではないかと実行に至ったわけである。新幹線と宿泊のパッケージ等も検討したが安く見積もっても3万以上はかかったし、時間もイレギュラーだったので実現させるのが難しかった(17時出発とかで考えていたので、新幹線だと終電との兼ね合いがあった)。定価なら5万はかかってしまうし話にならない。
よくよく考えてみればLCCの就航している松山空港には依然Jetstarで訪問したし、高知も行きは寝台で帰りは高知空港からの飛行機であった。図らずも四国4空港を制覇してしまっているのは、私にとって四国が絶妙に行きにくい場所であったことを示している。北陸や九州、山陰あたりが残りそうだと思っていたけれど、四国が残っていた所以はこの辺りにあるようだ。交通アクセス問題が解決した時にこそ行かねばと思っていたので、JALパッケージがお年玉キャンペーンとかでさらに安価に設定されているのを発見できたのは僥倖であった。

こうしていろいろあったものの、47都道府県全てでの宿泊を無事達成することができたのは幸いであった。


ちなみに宿泊という意味で苦労があったのは、四国以外だと埼玉県である。埼玉に泊まるシチュエーションがなかったわけである。基本的に日帰り圏内だという事が大きいのと、行く理由がなかった。秩父に出かける機会があったのでスケジュールを無理やり組み込んで宿泊してきたが、あれはなかなか強引であったしそうでもしなければ埼玉で宿泊はしなかったであろう。日が暮れてから秩父について、翌朝レッドアロー(特急)でエクストリーム出勤をしたことからも、いったい何をしたかったのか、と言われれば困ってしまうようなものである。後日ちゃんと観光をしたいとは思っているけれど、いろいろ後ろ倒しになっていていまだに行けていない。何はともあれ埼玉県内での宿泊を果たした事だけは大きな意味を持っている。


さて一つこうして目標を達成したのだけれど、次はどんな目標を立てようか。都道府県全部……というのはさすがに厳しいというか、今までどこに行ったのかを管理していないから良くわからない。とりあえずはいろんな最果て(最北端とか、最南端とか)に行ってみたり、秘境に行ってみたり、そういう事をして行こうかと思っているけれど、まああんまり考えすぎずに行きたいところに行くのが良いんだろう。同じ場所を拠点にしていても2度目3度目の旅行こそ面白いものであるし、いろいろ考えてみよう。

恵方巻

恵方巻という文化は、私が幼いころには我が家にはない文化だった。関東の文化圏に住んでいる人ならおそらく似たような感じだろうけど、少なくとも家で普通に食べるようになったのはここ10年くらいの話であるような気がする。コンビニの販売ノルマとか廃棄の問題とかはひとまず置いておいても、よくまあこんなに一般的になったものだ。
私は太巻きが好きなので素直に嬉しい文化がだ。考えてみれば太巻きを食べるタイミングは恵方巻つまり節分以外ではなかなか思い浮かばない。
下手をすれば特に日常的ではない、名古屋で法事があったときに出てくる助六寿司に入り込んでいる太巻きが真っ先に思い浮かぶほどだ。まあつまり年に1度あるかどうか位の頻度である。スーパーやコンビニでも売っているけれど、太巻きをあえて選んで買うことがどれほどあるだろうか。
例えば寿司屋に行っても巻物は食べるけれど、太巻きは食べない。というか置いてあるのだろうか。探したことがないから良くわからないほどだ。回らない寿司屋で板前にお願いしたらさすがに作ってくれるかもしれないし、それはそれですごいのが出てきそうだ。究極の卵焼きと究極のかんぴょうとかが入っていそうで。
ということで、太巻きは好きだけれどあまり食べていないものと言って差し支えないかもしれない。なんでだろう。本当に好きなのか? いやまあ好きなのは好きだけど。

太巻きにもいろいろ種類があって、それこそ先ほど例に出した名古屋の法事で出てくるものは一切生モノの入っていない、日持ちのする具材で作られた太巻きが出てくることが多かった。かんぴょうとか、玉子焼きとか、さくらでんぶとか。椎茸の煮たのが入っていたりもする。稲荷ずしと合わせても生モノが一切ない構成である。

名古屋、ひいては愛知全土で同じような習慣なのかは特に知らないけれど、名古屋に住む我が家の親戚たちは、もっぱら法事には稲荷と太巻き助六だという。知らずに見たら少し驚いて、そしてがっかりするかもしれない。私も太巻きは好きだけれど、ひたすら茶色い寿司桶というのはあまり嬉しくはないだろう。名古屋での法事は幼い頃しか行ったことがないのであんまり覚えていないのだけれど、今食べてもさすがにこの組み合わせはあんまり嬉しくないだろうな。

昨今の太巻きは具材が様々なのが嬉しい。特にこの恵方巻の文化によってもたらされた太巻きはなんだか豪華なものが沢山ある。
もちろん定番のかんぴょうを使ったようなものだって好きだけれど、サーモンとかウナギとかアナゴとかイクラとかそういう海鮮の入ったものは「寿司感」が強くてなんだか得した気分になって良い。さすがにサイコロステーキ入りとか本マグロ入りとかそういう高級路線のものは全く手を出そうと思わないけれど、昼ご飯を調達しに寄ったコンビニの海苔巻きコーナーに、海鮮太巻きみたいなものが置いてあったらホイホイ買ってしまうだろう。恵方巻の季節しか出てこないことが多いから非常に残念だ。おにぎりを買うようにとまではいかないけれど、さほど高すぎないあのお試しサイズの恵方巻が良いのである。何より買うと妙に感謝されるのが何とも言い難い。おにぎりじゃなくて恵方巻を買っただけで嬉しそうにしてもらえるなら安いものだ。ノルマとか目標とか、いつか頭打ちになりそうなものを追いかけて、最終的には昨年の自分に追いかけられる、そういうのはあまりに大変なことなんだろうな、と思う節分の日である。
太巻きが好きだから食べたいし、できればそういった裏の、というか、売らなければならない仕組みとかを考えずに食べたいものだけど、そうもいかないのかな。


恵方巻は良い文化である。大好きな太巻きを食べることを思い出させてくれるからだ。私で言うところの「価値の再発見」である。節分に恵方巻をということで太巻きを食べ、その美味しさを思い出す。プチマイブームの到来である。しばらく太巻きを探して好んで買っていく日々が続くわけだ。毎年必ず節分はやってくるのだから、2月はいつも太巻きブームとなる。
恵方巻万歳。太巻き万歳。

シウマイ弁当が食べたい

シウマイ弁当というものがある。シュウマイではない。シウマイ弁当だ。横浜名物のあれのことである。もちろん東京駅を始めとした主要駅で買うこともできるし、かなり普遍的かつ一般的な弁当と言えるだろう。食べたことがある人も結構いるはずだ。

私はあれが好きでたまらない。
シウマイ弁当が好きだ。

確か前にも似たような事を書いたような気がして過去記事を漁ったら、発見した。

fwbc0416.hatenablog.com

 

昔はそれほど好きだった記憶はないのだけれど、どういうわけか、ある程度大人になってから好きになった、そういうものであった。魅力を再発見した、とでも言うのだろうか。ある時から急に目が覚めたように好きになったのである。

こういうことはわりとよくあることだ。魅力の再発見。小さなことで言うと、夜中にふと食べた梅干しのおにぎりの美味さ。それまでおにぎりは変わったもの、垢ぬけたものが良いと思っていて季節限定商品ばかり食べていたけれど、たまたま手に取った梅干しおにぎりが何だかとてもおいしくて感動する。それからまた梅干しおにぎりが好きになる。そういう再発見が、シウマイ弁当にもあった。

元々好きだったのは筍を甘辛く煮詰めたものである。これは今も昔も変わっていない。ご飯のおかずの代表格、最右翼だ。あの筍が美味くて買っているという人がいると言うけど、納得である。あの甘辛い筍は食欲をとてもそそる。あのためだけに買いたいという人のために、限定の筍増量板が販売されたこともあるくらい、根強いファンがいる。私も食べたかった。

逆に、昔そこまで好きではなかったものと言えばシウマイである。好きではなかったとまでは言わないが、シウマイがメインを張っているというのがどうもわからなかった。今はそんな事はないけれど、シウマイでがっつりご飯を食べよう、とはならなかった事からも「ご飯食い」の私にとってシウマイは副菜みたいな扱いだった。実際は主菜なのに副菜扱いされてかわいそうだろうけれど、筍と付け合わせの昆布の佃煮と紅生姜でご飯を食べていた私にとってはどうもそういう扱いに収まってしまっていたのだ。

歳を重ねてこそわかる美味しさと言おうか、あるいはやはり美味しさの再発見とでも言おうか。いつの間にか私はシウマイが美味しいと思うようになったし、さらには付け合わせとして入っているカマボコやマグロの照り煮も美味しいと思えるようになった。今まで特に何も感じていなかったのが不思議なくらいだ。

シウマイ弁当の良さは、やはり何を差し置いても安定感である。いつも同じ味である事は結構難しいことだしすごいことだと思う。旅行の時の朝ご飯に食べたり、野球観戦ならデーゲームの時なんかは早めに球場入りして練習を見ながらシウマイ弁当を食べることもある。夜、新幹線を降りて、でもなんだか重い物は食べられないというような気分の時もシウマイ弁当を買って帰ることすらある。
何物にも代えられない、変わらない味。時折無性に食べたくなる味。毎日食べたいほどハマる食べ物もあるけれど、シウマイ弁当は毎月1回だとかそういうペースで定期的に欲しくなる味である。いろいろな駅弁があって、新作があったら試したりもするけれど、最後に行き着くのはシウマイ弁当だ。定番あってこその冒険。失敗しても帰ってこられる安心感。

このところ少し、食べる機会に恵まれていないのでそろそろ食べたい頃合いである。ああ、お腹がすいてきた。

人はなぜエレベーターの緩衝材に落書きをするのか

マンションやビルなんかのエレベーターに緩衝材が貼り付けられているのを見たことがあるだろうか。半透明なプラスチックのギザギザなあれである。エレベーターに元々備わっているような布とかで作られている保護シートではなく、もっと雑な、引っ越しとかで傷をつけないようにするためのものだ。養生とかプラダン(プラスチックダンボール)とか言うらしい。

あれに落書きする奴、あまりに多くないか。
落書きと言っても言葉としては正確ではなくて、正しくは傷を付けて文字なんかを書きつけているようなものだけど、大抵下品な書き込みに溢れている。エレベータに乗っている時間はそうたいして長くはないと思うのだけれど、それでも日々着実に増えて行くから不思議である。

私は始め、あれはマンションだけで付けられるようなものかと思っていた。というのも、傷を付ける=固くて細いものが必要、と思っているから、例えばマンションであれば家の鍵なんかを手に持っているのは極めて自然なわけで、それをつかってちょちょいのちょいと匿名の落書きを残していくのだと思われる。
じゃあビルなんかではどういう原理なんだろう。わざわざ鍵を取り出して書いているのか? そのあたりはよくわからないけれど、確かに何かで書いてはいるのだ。
私の会社のオフィスの下の階には学習塾の自習室が入っている。たぶんそこの生徒が書きだしたのだろうとは思っているけれど、そういうのはきっかけにすぎなくて結局いろんな人が連鎖的になにか爪痕を残しているらしくもうカオスである。思っていたよりずっとあのエレベータのプラスチックダンボールの存在はメジャーで、かつ身近なものだということだろうか。誰かが先手を切って書きだすとあとはダムが決壊するように、やがて様々な落書きで溢れて行くわけである。それを余りに自然に、あの数十秒の中で行っているわけだ。それも、エレベーターでおそらく一人になったタイミングなんかで。
世の中、大スマホ時代になったけれど、エレベーターの中は電波が相変わらず通じにくい。金属の箱だからそもそも電波を通しにくい。だから、緊急用の電話が付いているわけだし、場所にもよるがスマホどころか携帯は基本的に県外になるようなエレベーターだってざらである。
手持無沙汰なのだろう。そこで生まれた数十秒の暇な時間が、人を落書きへと誘いのであろう。どうせ引っ越しやら何やらが終われば撤去されるのだから、と軽い気持ちで行われるわけであろう。

良いことではないし大抵下品な事が書いてあって愉快ではないのだけれど、何処からともなく必ず現れる落書きに1人ではない多くの人が爪痕を残していく姿は非常に興味深いとも言えよう。
ただまあこれは民度の表れというか、治安が良くないというか、決して褒められたものではない事は確実なんだし、ないならないで全然構わないのだけど、思っていたよりもずっと身近な存在だということに気がついてしまって驚いたというわけだ。以上。

錠剤と顆粒と時々液体

 薬には大きく分けて3つの種類がある。錠剤と、顆粒と、液体のものだ。今回は液体のタイプのものは一旦置いておいて、錠剤と顆粒の話である。
顆粒の薬は得てして飲みにくいものである。少なくとも私にとっては苦手なものだ。錠剤が呑みこむのが苦手という人が一定数いるので一概には言えないけれども、おおよそ世間的に錠剤の方が飲みやすいという人が多いと思う。

単純にかさが多くて飲みにくいというのと、あとは味が不味いということが大きい。そういう意味では私は「麦門冬湯」が好きだ。飲みにくいのは飲みにくいけれど、甘草が入っているので味は幾分かマシだ。若干甘いしそこまで不快な味はしない。喉の風邪や咳の風邪を含めて弾きはじめの時と長く残った時に重宝している。困ったらとりあえずこれで良い。
反対に葛根湯なんかは最悪だ。辛くて苦い。不味い。でも頭痛とか寒気がした時には効くからしぶしぶ飲んでいる。最近JPS漢方というメーカーで出している液体のタイプの葛根湯が比較的飲みやすい味であることを発見したのでなんとかなっているが、あいつの顆粒はもはやトラウマ並みの味である。ちなみにそんな私のような者のために錠剤タイプの葛根湯が販売されているが、裏面をよく見ると「3/4量処方」となっているので注意が必要だ。飲みやすい分薄いのだ。用法要領を守らずに多めに飲んでも理論上は良いけれど、誰も保障はしてくれないし第一錠数がかさむからお勧めできない。大人しく顆粒で飲んだ方が手っ取り早い。あと錠剤のために冷たい水なんかで大量に飲むことになったらそれこそ葛根湯の意味がない。温めてくれるんだから。でもお湯を用意して錠剤をガバガバ放り込むのも……ということよ。

とまあなんだかんだ言ってももう良い大人なので、出された薬くらいはしぶしぶであるがちゃんと飲む。顆粒だって嫌な顔しながら飲むし、錠剤だってまあそれなりの量になってもちゃんとごくりと飲んで見せるわけだ。


なんでこんな話をしているのかと言えば、私が今絶賛胃腸炎のようなものにかかっているからだ。会社も一日休んだ(インフルかと思ってドキドキしながら病院に行ったけどさすがに熱もないし違ったので良かった)。そしてお薬が処方されたわけである。
酪酸菌の整腸剤と、胃腸薬(ミヤリサンのようなもの)、それと五苓散である。五苓散は二日酔いなんかにも効果のある漢方薬で、小林製薬はその辺上手いから「アルピタン」という名前にして市販していたりする。つまりまあ頭痛、吐き気、下痢の症状を伝えたらそのまんまの物が処方されたのだ。まあ余ったら二日酔いで苦しい時に飲もうと思う。
ここで問題なのが、この薬の前者2つが錠剤で五苓散が顆粒であるということである。普段何も考えず力技で適当に薬を飲みこんでいる私であるが、さすがに顆粒と錠剤は一度に飲みこめないというわけである。というか実際に試して見て上手くいっていないのだ。錠剤を先に飲んでその勢いで水を流し込み、さらに顆粒を口に含むと、口内の水分に顆粒がまとわりついて飲みにくい。あいにく五苓散は甘草が入っていない漢方なので美味しいとは到底言えないお味なので不快である。では逆はと言えば、顆粒をちゃんと飲みこんで時間をおかないと、飲みこんだ錠剤が喉元で「合流」してしまってこれまた不快である。
時間を分ければよいのだけれど、そこはとことん横着な私、面倒くさいし何より分けたら分けた方を飲み忘れるに決まっている。だから毎日ああでもないこうでもないと毎食前30分前にいろいろと試しているわけである。

そういう意味で、液体タイプの薬は良い。病院ではなかなか処方されない(子供用のシロップが主だからだと思う)が、薬局に行くと結構売ってるので重宝している。液体タイプも例によって含有量は薄いのだが、その分効き目はものすごく早い。液体、顆粒、錠剤の順で早いわけだから液体には液体の良さや強みがあるわけだ。

液材になっていればそれ単体で飲めるけれど、顆粒や錠剤は水が必要なので困っているわけだ。しかもできれば同時に飲んでしまいたい。どうすればいいのだろうか。

本を読まずに積み上げてしまう心理

昔にくらべて本を読まなくなったのは確かだ。確かにそうなのだけれど、例えばこうしてインターネットで活字に触れる機会は増えた。だからきっと文字自体は呼んでいる量は思ったほど減っていない。
たぶん減ったのは「物語を摂取する量」なのだと思う。
私の場合、漫画の場合は買ってきたらほとんど積み上げてそのままにしておくことはなく、すぐに読んでしまう。それは買ってきているような漫画のタイトルを見てくれればお分かりいただけるだろう。『クッキングパパ』『一日外出録ハンチョウ』『ラーメン発見伝』……どれも料理漫画である。それも基本的には1話完結、長くとも1冊で完結するような内容ばかりが収録されているような作品だ。これらに共通して言えるのは、読んだらものすごく感動するとか泣けるとかそういうものではないということだ。そりゃもちろん時折そういった心動かされる話が入っていることもあるけれど、基本的には料理がいろんな問題を解決してくれる、さほど気を使わずに読める類の物語である。日常的に摂取しても問題ないような、ちょっとした空き時間にも読み返したくなるような本たちばかりだ。

一方で、私が積み上げてしまっている本というのは「これを読んだら絶対気持ちが動かされるだろう」というものばかりである。もちろん読んでいないから詳細な内容はわからないけれど、読んだら確実に何かしらの感情が揺れ動いてしまう。ともすれば泣いてしまうかもしれない。逆になにか満たされて、ぼうっとした幸福のような物を感じながら眠ってしまうかもしれない。物語はそういったものを孕んでいる。

これは私の完全なる持論だが、物語は「薬のようなものだ」と思っている。時には深く傷を作り、時には言いようのない快楽へと導く。物語によっていろいろな衝動が産まれ、湧きあがることもあれば、逆に立ち上がる力さえ失うことだってある。

幼いころに体験した事はないだろうか。時間を忘れ、物語をひたすら読む感覚。昔読んだ、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』にも確かそんな一文が書いてあったのを強烈に覚えている。私にもそんな経験がある。時間を惜しんで物語を読み進めたようなあの感覚は、今でも忘れることはない。そしてその間隔は今でも素晴らしい物語を読み進めている時に、同じようなものを感じる事だってある。思春期に感じたような心の動きを、物語に触れることでなにか思い出してしまっているのかもしれない。

はっきり言ってしまえば、そういった感情に溺れてしまうのはとても怖いのだ。読んだら気持ちが動いてしまうのがわかっているから、なんとなく積んだままにしてしまうのだ。
読んだら絶対面白いし、絶対泣くほど感動するのに、そうであるからこそためらってしまう。読む時間をしっかりと確保して、誰にも邪魔されないような環境を整えて、そしてある意味での「覚悟」を持って読書に臨む。

ああそうやってまたハードルを挙げるからどんどん読めなくなるんだ。
そうとわかっていてハードルを挙げる。愚の骨頂。でも感動の最中に邪魔を入れられるほど嫌な事はないのは仕方のないことである。
期待が大きければ大きいほど、読むのが怖い。だから積み上げる。

いつかそういった本を何冊か詰め込んで、1週間くらい温泉宿に引きこもってひたすらに物語にひたるような事をしたいと思う。

金平糖と氷砂糖

昔ながらのお菓子と言うと駄菓子なんかもなんでも美味しいけれど、私は特に金平糖が好きだ。あの星のような独特の形と、透き通った透明感が良い。
最近は着色料を自然由来のものにしてあったりして、色つきのものでも安心して食べられるようになっているのでなお良いものである。
とはいえ、金平糖は明らかに砂糖そのものである。食べ過ぎると身体にはよくないのは分かっているのだがどうも止められない。だから無印良品とかで売っている袋入りの金平糖は、出来るだけ「ながら食べ」をしてしまわないように、冷蔵庫に入れてあったりする。適宜数個つまんできて、食べるような形にしないとあっという間になくなってしまうからだ。

ついでに夏は溶けやすいから冷蔵保存は理にかなっている。唯一の欠点としては、冷蔵庫にしまい込んだまま、そのまま忘れ去られてしまう事。鉄は熱いうちに打てというけれど、金平糖も忘れないうちに食べきってしまった方がいい。でも食べすぎてはいけない。なんだそれ。でもきっとなんでも同じだ。同じ。

金平糖はれっきとしたお菓子だけれど、氷砂糖になるとそれはお菓子と呼んでいいのかよくわからない。金平糖を指して明らかに砂糖であると言ったけれども、氷砂糖はそれこそ砂糖以外の何物でもない。砂糖そのものだ。固まっているだけ。大きさも形も定まっていなくて、それこそ氷のような形をしている。だから氷砂糖。
そのまま食べるものではたぶんないと思うんだけれど、これを口に含んでいるととても幸せな気分になる。砂糖そのものでありながら、あの粒状になっている砂糖とは全く違う味がするようにさえ感じる。舐めている感じは飴に近いのに、味は純粋に砂糖なのである。食べたことのある人にしかわからない感覚かもしれない。ハマる人はきっとハマると思う。私も一時期ハマっていた。
梅酒を始めとした果実酒を作るときに氷砂糖はよく使うものだ。お菓子を作ったりするときに少なくとも家庭では出番がなさそうだ。氷砂糖と、梅と、焼酎を大きなボトルのような物に入れて、後は半年とかそれ以上放っておくだけ。放っておくとまず氷砂糖がゆっくり溶けて、そのあと梅の成分とかが染み出てくるのかだんだんべっ甲色になってくる。半年くらいで飲めることにはのめるけど、なんとなく浅い味がして「これはまだまだだな」とか「ボジョレーヌーヴォーだな」とか訳わかんない事を言いながら飲むだけになる。それはもったいない。1年以上たったものを飲むのが良いのである。その頃にはもうとっくに氷砂糖の影も形もないのだけれど、熟成された梅の実にしっかりその甘さが染み込んでいるので素晴らしい。
ちなみに、梅酒に使った梅はちゃんと甘くなるんだけれど、それ以外の果実は全然甘くならない。かんきつ類は最悪だ。アルコールの嫌なところを全部集めたみたいな味がして、氷砂糖は果実の中では全く主張してくれない。もちろん出来上がった果実酒そのものは甘くそして果実の素晴らしい味と香りを纏っているわけだけれど、果実は本当にただの出がらしになっているのは不思議なものだ。梅酒は1年とか漬けこむけれど、みかんとかはわりとすぐ飲まなきゃならないのもそういう所なんだろうか。わからないけれど、氷砂糖は偉大だ。え? 砂糖はさほど関係ない?  

 

砂糖を直接口に含むという行為はあまりに気が引ける行為だけれど、金平糖や氷砂糖であれば気軽に口に出来て良いものだ。食べ過ぎると罪悪感がすごいけれど、下手にブドウ糖とかを舐めるよりもずっと良い。ベタベタしたりまとわりついたりもしないし、氷砂糖も意外とお上品な味がして美味しいものだ。別のものでごまかすくらいならストレートに食べてしまった方が良い時もある。


さあまた果実酒を作るという建前で、でかい袋に入った氷砂糖を買ってみよう。氷砂糖の袋は得てして業務用のそれに近い。お洒落な金平糖とは全然違う。製法はともかくどちらも砂糖は砂糖なんだけど、面白いもんだ。