言葉のリハビリ場

好きなことや思い出したこと、忘れていたこと、つらつらと文字にしています。

歌詞カード

昔はずっと歌詞カードを読んでいた気がする。音楽を聴いている時だけでなく、聞いていない時だって下手をすると読んでいた。読んで脳内で歌うのだ。お気に入りの曲を何度も歌詞カードと共に反芻した。そんな時代があった。学生時代である。それも中学生くらいのときの話だ。
元々詩作というかそういったものが好きだったのもあって、歌詞だって詩だよなと思ったのがのめり込むきっかけだったか、あるいは曲をとにかくカラオケで歌いたくて覚えようとしたのがきっかけだったかは思い出せない。とにかくそれまで洋楽もJ-POPもほとんど聞いてこなかった私が、アニソンとかその辺の文化に浸かってから急に音楽好きになった事もあって、とにかく何でも覚えたいというような、そんな時期だったのだ。
その気持ちが勉強にも向けばよかったのだろうけれど、好きな科目しか頑張れないオタクにありがちなアレがあって勉強の方はかなり疎かになってたと言えよう。部活も運動部だったし余計に拍車をかけた。


そういうわけでとにかく曲を聴きまくったわけだけれど、大事にしていたのが歌詞カードだったのである。インターネットはとっくに普及していたし、有線ではあるがルーターからちゃんと繋いでやれば滞りなく見ることができたが、学生であったしハードルは依然として高いものであった。そういう意味でアナログな歌詞カードは非常に便利であった。見ればそこに書いていある物を参照する方が便利だった時代である。携帯電話は持っていたけれど、通信料金がダイレクトに値段に反映されるプランが主流であった時代に、毎度歌詞を見るためにネットを使うなんてのは非現実的であった。

だから、歌詞カードはCDケースからは取り出された状態になっていることが多かった。すぐに歌詞を見られるように、いちいち取り出すのが面倒くさいからそのまま置いておく。光景としては美し光景ではないけれど、実用性第一でそういうことになっていた。
いつもそうやって歌詞を見ていた。

学校でも授業中に見られるようにルーズリーフとかメモ帳とかに書き写したものを持っていて、板書とかをノートに取りながらちらちらと見ていた。早く家に帰って曲を聞きたい気持ちの行き場をつくってやるためや、あるいは頭の中で曲を流しておくための事である。何も見ずにそらんじていると、無意識のうちに同じフレーズばかりが流れてしまうので、歌詞を見るという事はとても大事だった。
友達やあるいはTSUTAYAなんかで借りてきたCDは、音源はiPodに入れてしまえば良かったけれど、歌詞カードは返却してしまう。だから一生懸命書きうつしたり、あるいはPC上でwordファイルとして打って残したりしていた。必死の作業である。今でもデータは消えていないので外付けHDDのに残っているが、下手をするとそれをプリントアウトしたものさえ残っているものがある。今となっては全く意味のないことだけれど、当時はとても大事なことであった。だからなんとなく捨てられずにいる自分がいる。
今はそれこそスマホで歌詞くらい数10秒で参照できるから歌詞カードだってちゃんとCDケースにしまっているけれど、当時は紙ベースであっても持ち運べるのは便利だったし、控えやバックアップの意味でも優秀な代物だった。中学生なんて、授業中に漫画を読んだり携帯を使ったりしたらそれこそ先生に没収されてしまうわけで、紙切れ1枚ならいくらでも偽装できるし、見つかったところで痛くも痒くもない。今思えば馬鹿な話であるし非常に滑稽な光景なわけだけれど、当時は大まじめにそれをやっていた。それほどのめり込んだということだろう。

今では歌詞カードはほとんど読まなくなってしまった。スマホで検索して見たり、下手するとカラオケで表示される文字を見る方が多くなってしまったかもしれない。読んだら結構発見があったりするし、歌詞と照らし合わせて音楽を聴いたりするのも良いけれど、きっと歌詞カードはもうあんなに紙で読み込むことはこの先ないんだろうなぁ。