言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

口内炎注意報

最近はあまりないのだけれど、かつては毎月のように口内炎になっていた。原因は大きく二つあって、偏りまくった食生活と、あとは歯で口内の粘膜を傷つけてしまうことである。
偏りまくった食生活と言うのはつまり、ビタミン不足である。口内粘膜の機能維持に必要なビタミンB2やB6が少なくなると起こりやすい。その上で風邪をひいていたり、疲れていたり、不規則な生活をしていたりすると特になりやすいわけである。
当てはまりまくりである。単純に仕事が忙しかった時期だけでなく、それこそ学生時代から当てはまりまくりである。特に1週間とか旅行をしていると口内炎ができやすかった。あんまりお金がなかった……というよりも、名物を食べるとあんまり野菜なんかを食べないというのが大きい。旅行中の野菜の摂取量が極端に少ないのだ。野菜ジュースでも飲めば違うのだろうけれど、どうもそういう気にはならなかった。
そういうわけであっという間に口内炎ができる。

極端な食生活はかなり体調に影響を及ぼしやすい。学生時代に「学校周辺のラーメン屋を全部食べて勝手にレビューする」という企画のためと称して毎日ラーメンばかり食べていた時などは、口内炎ができたのはもちろんだが塩分摂取量が多すぎて味覚が若干おかしくなりつつさえあった。塩辛いものを食べ過ぎると、塩味が感じにくくなるのである。ちょっと下うま味が認識できなくなるのだ。レビュー目的なのに本末転倒である。後当然太りもするし。なので偏った食生活は良くない。当然だけどなんでそうなのかを身を持って体感するとやっぱり懲りるものである。

口内炎は懲りるんだけど、どうも努力とあまり関係ないところで出来てしまったりする。それが、ビタミン不足ではない要素、つまり歯で粘膜を傷つけてしまうことだ。これは文字通り、租借中かなんかの拍子に頬の裏側を噛んで出血してしまったりした場合に起こる。口内で出血しているのだからつまり炎症が発生しているのと同じ。それどころかもう少し重症でもある。
この状況がなかなか辛い。口内炎になってしまった時、ビタミン剤を呑むこと以外には例えば軟膏を塗るということができる。それ用の商品も出ているし、その多くが甘草の主成分グリチルリチン酸を炎症止めの主成分として使っているから、口内での使用もわりと安全だし、舐めてしまってもさほど問題はない。だが、安全だの何だのと言っても、口内に軟膏を塗ったままの状態にしておくのは至難の業である。唾が出てきて流れ出してしまうし、無意識に結構舌が触ってしまっていたりする。どうも効果を発揮させられている気がしない。寝る前だとかに塗って放っておくのが一番いい気がする。

最近はビタミンBに気を付けている(よく摂取している)からか、あるいはストレスが以前より少なくなったからか、口内炎にはほとんどならなくなった。だからこそ舌を含めた口内を噛んでしまう「事故」にだけは気を付けたいものである。
まあ気をつけたところでどうにもならないんだけどさ。

紅葉の季節

そろそろ紅葉の季節になったわけだが、紅葉という奴は「旬」が難しい。というのも、紅葉の季節になったなんて悠長な事を言っている私はもう2週間も前に紅葉を見に出かけているからである。
その2週間も前に紅葉を見に行ったのは栃木県は日光である。日光とはいっても、市街のほうはまだ全く紅葉するそぶりも見せておらずまだ早かったかと不安になったほどだ。だがいろは坂に差し掛かったあたりから葉が色づき始めており、中禅寺湖のあたりまで達した頃にはすっかり色づいていたわけだから、紅葉という奴はかなり標高の要素が大きく影響するわけなのである。

さて、極めて平地である我が家の周辺は、12月間近になってようやく紅葉の最盛期を迎えた。なんだかんだ言っても例年これくらいの時期である。小さい頃は紅葉と言うと秋のイメージが強かったが、実際には12月に差し掛かってもまだまだ葉は落ち切っていないので、言ってみれば晩秋から初冬のものであると言ってもいい。だから紅葉はしばしば季節外れの雪との競演を見せてくれる。関東平野に位置する我が家ではめったに見られない光景だが、例えば北海道などではよくある光景らしい。言われてみれば北海道ではもう雪が積もっている。2年前はそれと同じようなことが関東でも起こった。11月に雪が降ってしまうと紅葉と雪が同居することになる。一瞬季節感を失ってしまうが、実際季節としてさほど間違った光景でもないのでますます混乱してしまう。だから面白い。子供のころに付いたイメージと言うのはどうも強いものである。他にもたぶんそういう事はいくつかあるような気がする。


私は紅葉している様を眺めるのも好きだけれど、それ以上に落ち葉と言うものが好きだ。特に桜の木の落ち葉は赤や橙、黄色で色づいていてとても綺麗である。あのうず高く積もった落ち葉を踏みしめる感覚や音は何とも言えないし、しばらくたって湿った落ち葉のあの何とも言えない鼻孔をくすぐる匂いもまた良い。
この季節になると桜の名所やそういった公園に出かけたくなるのはそのためだ。歩いているだけで楽しくなるし、なんだかいろいろ考えたくなる気分にもなる。落ち葉と言うのは楽しいだけではない。桜の花を見ている時と似たような、滅びの美学のようなそんな感覚さえ抱かせる。色づかなければ散っていかないけれど、いつまでも盛夏のように青々としているわけにもいかない。だからかどうかはわからないが、葉の一枚一枚がとても綺麗な色になって散っていく。虫食いがあったり、欠けがあったり、それもまた良い。発色の良いものからそうでもないものまである。中には色づく途中で雨に打たれたか、風に吹かれたか、半端な状態で散っていくものもある。
楽しくてでもどこか切ない気持にもなれる。それが紅葉であり、落ち葉の季節である。
だから私はこの季節が好きだし、日常の中にさらりと挿入される景色として感じられるのがとてもいいと思っている。

ただ私が好きなのは基本的に広葉樹の落ち葉である。銀杏の木は遠くから見るのはとてもきれいで良いが「ぎんなん」のあの臭いはどうも慣れない。食べたらおいしいのはわかっているが、あの臭いだけはどうしても好きになれなくて敬遠してしまう。靴の裏なんかについてしまったら嫌なので、出来れば避けて歩きたい。
綺麗なので卑下してしまって大変心苦しいが、どうかそれだけは勘弁してもらえないだろうか。

 

ライトが壊れた

 

普段何気なく使っているけれど、急に使えなくなると困る。あるある、あるよね、なんて思っているけれど、いざ自分がそういう場面に遭遇するとすぐには動けないものである。
こういうキーワードで思い浮かぶものはいろいろあるけれど、私の場合はそれが「卓上ライト」だった。

私は家に帰ると真っ先に自分の机の方へ向かう。そのままPCの電源を付けたり、郵便物を開封したりするわけで、まず机の上の電気つまり卓上ライトを付けることになるのである。そのライトがどうも点灯しないのである。蛍光灯が切れたのかな? と思って交換してみたが点かないので、どうもライトそのものがオシャカになってしまったらしいとそのあたりで気が付いた。机に備え付けのタイプのもので、もう10年以上は使っている代物だ。劣化もするだろう。ただ前日まで全くおかしなそぶりは見せていなかったところから突然こと切れてしまったので驚いてしまった。
今まで何気なく使っていたが、卓上ライトというのは偉大である。ライトが使えなくなって、ライト関係の配線を調べるときにも無意識に明るくしようとボタンに触れている自分がいた。仕方がないのでiPhoneのライトで照らして見たけれど、不便は不便だった。PCの画面だって、部屋の明かりだけでは不十分だ。卓上にライトがないとどうも暗い。一時的に別の光源のある場所へ移動してみたりもしたが、外付けHDDを使っていたりしている関係上、使える場所は制限されている。ということで、余計なあがきはこれくらいにして新しく卓上で使えるライトを買うことと相成ったわけである。

とりあえずネットで注文して届けてもらえば良いや、という気持ちで適当にAmazonで探して見たのだが見事に値段も性能もピンキリで参ってしまった。サイトをいろいろ見てどういった基準で探すべきかと見てみたりしたが、どうもピンとこない。スペックはなんとなくわかっても、ライトは実際の使い心地や色なんかが大きく関わってくるので、これはもう電気屋に見に行くしかないな、となってしまった。
これは意外な発見だった。今までオンとオフしかないようなライトを使ってきた癖に、いざ新しく買うとなると迷ってしまうのである。使えなくなって初めてわかるこだわり。こだわりと言うか、失敗したくないという思いと言うかは諸説ある。

そんなわけで適当なライトをビックカメラで見つけて、卓上に設置している。それなりに値段もしたがLEDのタイプのものだ。卓上に置くだけでなく、今度は取り回しも効くタイプのものにした。
しばらくはこのライトの素晴らしさに感謝しながら毎日使うことになるだろうが、動作にも慣れた頃にはもうすっかりそんな気持ちを忘れてしまうんだろうね。
当たり前に使えるってのが一番なのに、現金なもんだよね。

冬の朝の、空の青さ

冬の朝の空と言うのはとても青い。あのぴんと張りつめた冷たい空気の中で、空の青さは一段と綺麗に見える。
夏の青空もまた美しいが、冬の空の色はそれとはまた違った味わいがある。夏が白と青のコントラストだとすれば、冬はその濃い青さそのもの。輪郭のくっきりとした、澄み切った青と言うのは冬の空にこそ当てはまる。私はそんな冬の空が好きだ。

冬の朝は起きるのが辛い。寒いと布団からなかなか出たくなくなるものだ。我が家は南東向きに窓があるから、毎朝日差しが差し込んでくる環境にある。それでも特に部屋が暖まるようなことはなく、むしろ部屋の中であるというのに冷気に支配されてさえいる。これが夏ともなれば、逆にさんさんと降り注ぐ太陽光のおかげで、クーラーを付けずにいるとあっという間に蒸し風呂状態だ。世の中非常にままならない。夏は暑さで起こされ、冬は寒さで布団から出られない。朝は得意ではないからこそであるが、出来れば快適に過ごしたいものである。それも年がら年中。でもまあ、こうして四季折々ああだこうだと好きだの何だのと言えるのは、季節があるおかげなんだけれども。

そう言うわけで、冬の朝そのものは特に好きだと思った事はないが、冬の朝に見る青空はとても好きだ。なかなか布団から出られなかったことで急いで駅まで歩いて行かなければいけなくなったとしても、上を向いて歩きたくなるものである。
冬はどうにも下を向いて歩きがちだ。寒くて縮こまってしまうからだろうか。マフラーに顔をうずめてしまいたくなるからだろうか。でもその日が綺麗に晴れた青空であったら、私はつい顔を上げたくなる。寒さで白くなった息を吐きながら、冷たい空気を肺の中に取り込みながら。


気になって調べてみたのだが、冬の空が青いのは、乾燥していて湿度がないからだという。湿気が邪魔をしてしまわないために鮮明に空が見えるのだ。なので、星空は夏よりも冬の方が鮮明に見える場合も多いという。
さらに、太陽光というのは太陽の高度にも影響を受けるものである。日が暮れると空が赤くなる、つまり夕焼けというのは太陽の高度が低いからあのような色に見えるのであるわけだ。逆に昼間は太陽が高い位置にあるので空が青く見れる。

だから、冬の朝の空と言うのは、青よりも少し濃い、ややもすれば紺色のようなくっきりとした青い色を見せてくれるのである。冬は日の登りが遅い。人間は毎日同じ時間に出かけるかもしれないが、季節によって日の出日の入りの時間は変わるものだ。
なるほど面白い。冬の「朝」が綺麗だ、と言うのも別にあてずっぽうなことではないということだ。今日もまた一つ賢くなってしまった。

寿司に寄せて

将太の寿司』という漫画が11/30まで全館無料で読めるという事で、私もせっせと毎日通勤時に読んでいる。これが結構面白い。今はとりあえず通常のものは読み終えて、全国大会編の10巻あたりを読んでいる。

そもそも料理漫画と言うのは昔からとても好きなジャンルである。内容の是非についてはしばしば話題に上がるものだが、そこまで気にして読んではいない。それこそ『将太の寿司』ではライバル笹寿司の悪行が事あるごとにやりすぎだと話題になるものだが、そう言うことも含めて面白いわけである。ノンフィクションだったら問題だけれど、あくまでフィクションだからこその面白さがそこにはある。


ノンフィクション世界の寿司はどうだろう。私も寿司は大好きだ。だが毎週必ず食べるとかそういうことは決して、ない。というか出来ない。ラーメンなら毎週どころか週に何度も食べられる。最近はやたらと定食屋のやよい軒に通っているが、あそこだったら毎日だって通い詰めることができる。でも寿司はよほどのことがない限り、2日連続で食べることすら稀だ。

この違いはやはり値段だろう。寿司は決して安くはない。
食事をすることが何よりの楽しみである私は、出す時にはちゃんと金を出す方だ。けれども、値段の書いていないような、その時々の値段つまり時価で出てくるような寿司屋にはとてもじゃないが恐れ多くて入ることはできない。いつかそういう店に入ってみたいとは思っているが、開戦系の値段は本当にわからないので、まずは誰か偉い人(やそれに準じるお金持ち)に連れて行ってもらってからにしたいところだ。目下、自分のお金で食べに行く勇気はない。

そう言う意味で回転寿司は明朗会計という事もあって入りやすい。クオリティーはピンキリだけれど、よほどのことがない限りはだいたい美味い。
特に好きなのは地場系の回転寿司の店で、地元の海の幸を高すぎない値段で食べることができることが多いから旅行中なんかは特に重宝している。自分で選べるから量も調節できるので、海鮮丼あたりと比べてもとても使いやすいわけだ。
北海道で言えば「根室花まる」、石川県は金沢の「もりもり寿司」、このあたりは3千円弱払うつもりがあれば美味しい寿司を腹いっぱい食べられるので特にお気に入りだ。

100円寿司も別に嫌いではない。一人で行ったこともある。でも結局たくさん食べて1000円超えなんてのはざらなので、あまりお得感はない。
使いやすくて好きなのは立ち食いすしのランチもまたその一つ。あれは値段が最初から決まったセットを、かなりお手頃な価格で食べることができるうえに、ちゃんと目の前で寿司を握って出してくれるような店が多いからお得感がすごいのだ。別に常に最高・最上級を追い求めているわけではないし、そんなのは漫画の世界くらいである。ある一定のラインを越えればみんな美味しい、それでいいと思っている。特に1人の時は。複数人の時はまた少し違う。変な店に入ってしまった時、私一人なら私が外れを引いたな、なんて思えば済むけれども、連れて行った人がそう言う思いをするのは本当に忍びない。
だから出来るだけ、良かったな、いいな、と思えるものを発信したいな、とはいつも思っていることである。

だからまあ、一緒に寿司を食べに行けるような大切な人が増えるといいね、ってそう言う話でもあるわけで。
別に寿司に限らずだけれど、美味しいものが美味しく食べられれば、極端な話それだけでも十分いいよねって。

出張の呪い

出張は、たまにあるから良いのだと思う。たまの出張だって別に遊びに行くわけではないから、旅行をするのとでは大きく違う。まあつまり楽しいものではないということだ。

そんな出張だが、私はわりと最近まで週に3泊ずつくらいのペースで出張をしているような生活をしていた。半年間ずっとである。月曜日出社して、その日のうちに本当は現地入りしたいのだけれど、流石に業務が終わるわけもなく翌日も出社する羽目になることがしばしば。そしてそのまま2時間くらい運転をしたのちに現地入りして、営業の旅に出るわけである。

月間でだいたい15泊くらい。平日家に帰るのは金曜の遅くと泊まりに行けなかった月曜、それに月末月初を合わせてだいたい8日くらいだろうか。土日月が家、あとはホテルが拠点という日々である。

以前から私がビジネスホテル好きな人間であることは度たびこのブログに書いてきたわけであるが、そんな私でも流石にこうも続くと嫌になるものである。そう、嫌になった。とてもそんな生活が嫌になった。

最初のうちは楽しもうとしたこともあった。温泉施設の近くにあるホテルに泊まってみたり、大浴場のあるホテルに泊まってみたり。朝食のおいしいホテルに泊まってみたりもした。だが、だんだんとそんな余裕はなくなってくる。
仕事が追いつかないのだ。月に多い時で4500kmも運転をしているという事は、その時間はPCすら触ることができない。コンビニとか高速のPA・SAなんかに止めてPCを開いて……なんてやってると、目的地になかなかたどり着かない。13時半までに出荷すれば明日の到着便に間に合うという事もあって、その場で入ってきた仕事をその場で行わなければならない。だからまずそれが最優先になる。
後は得意先に渡す資料とかそういうものを作成しなければならない。ところがこれは印刷できるのは基本的に出社時しかないから、出張中か休みの日に作らなくてはならない。上司が同行するような大きな得意先ならばデータを飛ばして印刷して持ってきてもらえるが、それ以外は事前準備が肝要となる。となればホテルで作るしかない。同行の時以外は当然ずっと1人だから、毎日会社への報告がある。日報システムでの報告に1時間はかかる。さらに集計報告や週報、売り上げ見込みや修正、キャンペーンやコンクール、施策の報告……挙げだしたらきりがない。

そう言う事がどんどん重なって時間がないのに、それなのに温泉でゆっくりはできなくなっていったわけである。気分転換すると、それが睡眠時間を削る形で自分に跳ね返ってくる。無論酒など飲めない。飲んで集計すると必ず間違えるから。
そうするうちにまず朝ご飯を食べなくなった。朝ご飯を食べる時間が惜しかった。睡眠も、あとはそれ以外のぼんやりする時間も。失われた時間を取り戻すように、浪費する時間が欲しくなっていた。

基本的に仕事は車に乗って得意先を回るから、その間は全くスマホなどは見ることができない。車内で出来る娯楽というものはもちろんたくさんあるが、しかし運転中である。そう言う意味でスマホ中毒Twitter中毒アニメオタクである私にとって「ちょっとした空き時間」であるはずの運転中にそれらのことが禁じられているのはあまりにも痛い。音楽は流せるから思いっきり車内で歌ったりするけれど、限度がある。1人カラオケに行っても2時間は流石に歌えないし疲れる。それと同じことだ。

朝ご飯を食べなくなって、昼ごはんもほとんで食べなくなった。店に入っているよりも、車を止めて仕事をした延長でぼんやりスマホを眺めているうちに時間が過ぎて行くのである。時には昼寝もした。眠すぎて運転が危なかったから。そうすると何だか腹も減らないわけである。流石にまずいから適当におにぎりを買ったりして食べてはいたけれど、店に入るようなことはなくなった。夜ごはんはさすがに食べたけれど、地方出張なのに飲みにもいかないし、遊びもしない。だって仕事が待っているから。朝起きたら上司から電話がかかってくる。ホテルいに居るのがわかると嫌みを言われる。移動時間が長い分足で稼げとはとよく言われた。理論はわかるが身体がついて行かない。出張なしの都会を回る人とどうして同じ数地方で回れるというのだろう? 

そんなこんなですっかり出張と言うものが嫌いになった。あれだけ好きだったビジネスホテルが、好きではなくなってしまった。

今はもう元に戻って、相変わらずビジネスホテルは大好きだし、たまの遠出は気分転換になって楽しいけれど。
出張地獄が終わって半年経った先月まで私はずっと、この「出張の呪い」から解き放たれることはなかったのだ。せっかく旅行に来ているのに、椅子に座ってぼんやりとスマホを眺めている時に、朝起きて天井を見上げた時に、嫌な思い出が頭の中に蘇ってきてしまっていたのだ。

そんな「出張の呪い」が解けた今だからこそこうして文章に出来るものだけれど、なかなかここまで吹っ切るのには時間がかかったわけで、知らないうちにずいぶん大きな傷を作っていたものだな、と思うこの頃である。

失った時間を取り戻す行為はあまりに辛いし、得られるものが少なすぎるから、せめてもうこれからはできるだけ「失った時間」を創り出さないようにしたいな。

目が悪いことに初めて感謝した日

暗闇の中、無数に輝くサイリウムを指してまさに「光の海」であると言う人がいる。
ライブ会場で目にしたそれは、間違いなく光の海そのものだった。海の色は様々な色をしていた。全面が青の時もあれば、橙色になったり、桜色をして、赤くもなり、エメラルドに包まれ、白く輝き、黄色い輪を描き、それは紫にも、濃いピンク色にもなる。
サイリウムは1本の棒だ。その棒が無数に集まって揺れている光景は、圧巻以外の何物でもない。光の海であり、そして光の花畑であった。
ひとしきりその様子に感動していると、不意にこんな声が聞こえてきた。

眼鏡を外して見る光景も綺麗だぞ、と。

眼鏡をはずして見る。それは考えもしなかったことだ。なぜなら私は視力が良くない。基本的に毎日眼鏡を掛けて過ごしている。眼鏡を外すのは、寝ている時や風呂に入るとき、あとは顔を洗う時くらいだろうか。そう言えば、眼鏡を掛けずに何かを見ようだなんて、このところ思ってもいなかった。

私は物は試しと、恐る恐る眼鏡を外してみた。


そこにはこの世のものとは思えないほどの絶景が広がっていた。

 

目が悪くて良かったと思った事は、今まで一度もなかったと言っていい。
私の目が悪くなり始めたのは、小学校4年生くらいの事。両親揃ってのド近眼&乱視という遺伝的要因もあり、またもともと好きだった読書にこの頃没頭することとなった性もあって、初めて眼鏡を作ることになった歳だ。その頃の私は、あまりにも本を読みすぎるので、1日1冊までにするようにというお達しが出ていたほどだったが、夜になると居間から漏れてくる光を頼りにこっそり読書に励んだものである。やっているのがゲームだったらしこたま怒られて取り上げられるところだが、本だったため両親もあまり強く言えなかったのだろう。怒られた記憶はあれど、あまり強く言われた記憶もない。それだけが原因ではないだろうけれど、きっかけになった事は間違いないだろう。
それでも、眼鏡を毎日ずっと掛けるようになったのは、ここ数年の事である。掛け始めてからかなりの間、眼鏡そのものはかなり苦手だった。黒板の文字が見えないけれど、一番前の席に移動はしたくないので授業中は眼鏡をかけていた。それでもテストの時でさえほとんど掛けずに中学生くらいまでは過ごしていた。陸上部に入っていたが、運動中に眼鏡をすることがどうもしっくりこなくて、本当に授業中くらいしか眼鏡は掛けていなかった。
ちなみにコンタクトレンズはもっと苦手で、1度作ろうとして見た事はあるけれども、両目の着脱に合計4時間掛るほどダメで(眼球に触れられない)挫折している。

今では毎日眼鏡をずっと掛けているから慣れているけれども、それでも不便だと感じることはそれなりにある。例えば雨の日とか、夏だとミストシャワーだとか、水滴がレンズに付着するとめんどくさい。
さすがに嫌いだとかそう言う事はもう今更ないけれど、決して目が悪くて良かったと思った事はなかったわけだ。

特に夜になると、特にまわりが見えにくくなる。かの坂本竜馬も近眼であったと言われているが、やはり夜になると特に物が見にくかったという。物が見にくいのは暗いものだけではない。光るものはかなり通常とは見え方が変わってくる。気になる人は画像検索などをしてみて欲しいが、見え方が通常の光のそれとはまったく違って、ぼやけて大きく見えるのである。眼鏡をかければくっきりと見える星たちも、輪郭が曖昧になり、ぼんやりと大きく、何重にも重なって見えたりもする。焦点が合わないのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、日常生活を送る上ではかなりのハンデとなる。だって、なんでも光がぼやけてしまって、はっきりとは見えなくなってしまうから。


だからこそ、ライブ会場で眼鏡をはずして見た光の海には驚いた。今まで見ていたサイリウムのあの1本ずつの棒の世界はどこにもなく、丸くぼんやりと輝く色とりどりの光が、一面に浮かび上がって揺れているのである。
これはたぶん、目が悪い人にしか見えない世界だと思う。
目を凝らしたり細めたりせず、裸眼で見る拡散してぼんやりと丸く広がった無数の光。あれほど綺麗なものは他にはそうそう見つからないだろう。


目が悪くて不便なことはたくさんある。目が悪い事を呪ったこともある。
でも、この日ばかりは目が悪いことに少しだけ、感謝をしたのである。

地名の奪い合い

マンションの名前なんかによく、地名が冠されているだろう。例えば「ラ・アイサトール 高田馬場」とかそういうもの。あれって結構地名呼称が適当で面白いと同時に、名前を付けた人の意図というか、どの名前を冠するほうがイメージがいいだろうかという苦心のようなものが垣間見れる。
大抵は近隣の駅名が付けられているわけだが、この駅間となるとかなりその境界線というのはあいまいである。どうも名前を冠するのに制限は余りないようで、近隣に駅の入り組んだ場所などではかなり状況としてはカオスである。そこに駅名でない地名なんかが入ってくるとより面白い状況になる。
マンションには限らない。例えばコンビニの店舗名とか。あれって、コンビニに限らず、店の名前が明示されているチェーンとそうでないチェーンがあるけれど、調べればちゃんと名前が出てくる。そりゃあ、どんなに近接していても近隣店舗と区別しなくてはならないから、名前は違うよね、と。

私の知っている限りでかなり入り組んでいたのは、東京の神楽坂の界隈である。神楽坂通りというあの有名な坂の通りがあり、その周辺が主に「神楽坂」と呼称されている。実際に町名にもなっているが、それ以上に「神楽坂通り」と呼称されていることが周辺の名づけに影響を及ぼしているようだ。
というか、神楽坂の持つネームバリューと言うか、イメージの力と言うのは非常に強いなぁと思い知らされてもいる。どういうことか。
分かりやすいのはやはりチェーン店の名前だろう。
神楽坂通りの入り口は、飯田橋の駅がある。地下鉄の出口なんかはもろに神楽坂通りに面していたりする。だがもっぱら呼称は神楽坂。マツモトキヨシは「神楽坂店」、ファミリーマートは「神楽坂下店」。不二家はなんと欲張りにも「飯田橋神楽坂店」。少し坂を上ってセブンイレブンは「新宿神楽坂三丁目店」、近くのファミリーマートは「神楽坂三丁目店」。とにかく「神楽坂」という呼称は外したくないようだが、複数店舗あったりすると区別をつけるべくいろいろ呼称が細かくなったり、さらに大きな地名(新宿区なので新宿、とか)がつけられたりもしていて面白い。
意地でも神楽坂の名前を付けたいのが、ココカラファインというドラッグストアー。なんと神楽坂を冠した店名だけで3つもある。「くすりセイジョー神楽坂店」と「ココカラファイン神楽坂上店」「ココカラファイン神楽坂中里町店」の3つだ。神楽坂と神楽坂上は20mしか離れていない趙至近距離店舗なせいで、あえて合併前の「セイジョー」を名乗ったままといおまけつきである。ちなみに神楽坂中里町店は東西線神楽坂駅から300mくらいのところにあるので一応神楽坂である事はわかるが、実際のところ神楽坂と言う感じのする場所ではあまりない。近接したセブンイレブン、ローソン、そしてデニーズは「新宿山吹町店」であり、山吹町という地名の存在感がすごい。さらに存在感があるのが「早稲田」の名前。「江戸川橋」の名前も駅から近いため結構存在するし、地図で見てもかなりこの界隈はカオスな様相を呈していることが分かる。

私はライターでもなんでもないので特に調べたりしないけれど、こう言った命名規則と言うのを調べて見る企画と言うのもおもしろいかもしれない。実地で写真をとってもおもしろいし、チェーンの命名規則を比較してもいいかもしれない。
そう言う企画があったらぜひ教えて欲しいし、やりたい人がいたらぜひやって欲しい。

社会的時差ぼけと早寝早起き

眠いとすべての作業効率ががくんと落ちる。どういう理屈かは知らないが、例えば私の場合は脳のリソースの大部分がその眠さに持っていかれてしまう。細かいミスが増え、注意は散漫になり、記憶力もいまいちになり……とぱっと思いつくだけでもこれだけの悪影響。
それくらい睡眠は大事なものなのだ。寝不足はまずい。

何故寝不足になるかと言えば、大抵の理由はその日の「朝や昼の寝すぎ」か「前日の夜更かし」である。早起きしなくちゃならないのに、夜遅くまで起きていてしまう。起きる時間はそんなに早くなくても、昼寝をしたせいでなかなか寝付けない。

たまの早起きというのは、そこまで苦になるものではない。例えば旅行に出かけるとき。あの早起き自体は眠いけれども結構なんとかなってしまうものだし、どうせ行程で疲れるからか途中でうとうとしたりしても、夜はそれなりの時間に寝つけたりする。だいたい何週間も続くわけではないから、多少の無理は効くものだ。
ところがこれが生活習慣そのものの話になると別である。例えば平日は毎朝5時半に起きなくてはならないという場合。この場合、6時間以上寝ようとすれば自然と23時くらいには就寝する必要が出てくるわけだ。これがまたいきなり思い立って早く寝ようなんて出来ないから困っているのだ。

早く寝るのはどうにも難しい。思い立って今日は早く寝よう! と思って布団に入って寝られればいいのだが、それが出来るときと出来ない時がある。
寝ようと思うほど寝られない。悪い循環だ。そうこうしているうちに、なんだかまたトイレに行きたくなってきたり、花粉症の薬をのみ忘れたような気がするな、とかなんとかグダグダ考えているうちに全く眠れなくなっている。いろいろ考えているのはよくないらしい。どうも無心になる事は入眠への近道らしく、逆にいろいろ考えたりしているのはよくないらしい。それはまあ、自分でもよくわかっているんだけれど、いや、だからこそなかなか眠れなくて今度は焦ってくるわけである。明日が辛いぞ、朝起きれないぞ、と。一日眠いと効率も悪いし、だいたい月曜に眠そうにしているなんて、別にどこに出かけたわけでもないのに「毎週毎週月曜から眠そうだけど、そんなに遊んでばかりじゃいかんよ」なんて嫌みの一つでも飛んで来てみろ、最悪、あまりに最悪である(まあそういう上司は今の職場にはいないが)。
月曜日と言うのは、電車も遅れるし、車であれば渋滞もなんだかひどいし、以前の私のように「月曜日だけ出社してあとは出張」だとか「月曜以外は出先に直行」なんて人も結構いるのだろう、月曜だけ混雑が激しいためにいつもよりもなんだか遅くなってしまいがちである。だから下手をすれば月曜日こそ、他の曜日よりも早く出かけなければならないわけだったりするのだ。

そこで私は考えた。月曜日こそ早く起きなくてはならないのなら、日曜に寝不足になっていればいいのではないか、と。浅知恵である。土曜の朝はどうせ起きられない。起きる用事がなければ、自然といつも6時に起きていようが何だろうが、土曜は10時とかにだって平気になる。そして夜も遅い。早寝の理由もないから。そして日曜日に寝坊せず早めに起きるのだ。そうすれば、夜になればすぐに眠りにつけるだろう。そういう算段だ。

だがやってみて思ったのは、日曜日の日中の眠さだ。とにかく眠い。最初に話した通り、値むさはやる気さえも奪っていく。だましだまし午前中なんかは精力的に活動する真似なんかをしてみても、昼食後はもうだめだ。とにかく眠くて、気づけば昼寝をしてしまったりする。そうするともうだめだ。私の昼寝はとにかく長い。そしてとにかく起きない。平気で2時間3時間と寝てしまう。15分とかでアラームを設定して寝れば別なのだろうが、寝落ちレベルの昼寝ではアラームなどかかるはずもなくそのまま気付けば目覚める頃には日が暮れている、と。

せっかくの日曜が何にもならないどころか、結果的に月曜日も台無しになっているので意味がない。馬鹿みたいな話だけれど、当時は大まじめにやっていた。
また困ったことに月曜しか出社しない出張生活だったので、平日分の雑務やらなんやらをすべて週末にこなしていた。なので、土日を棒に振ると本当にそういう最低限しかできないので、本当に眠いまま日曜を過ごす実験と言うのは馬鹿な実験であったのである。

結局犠牲になるなら1日でいいということで月曜日にしわ寄せがいくようになり、また雑務も終わらないのでどうせ日曜日は棒に振れないということで、この話はなかったことになった。
どんどんおかしくなったのはたぶんこのせいでもあったと思う。睡眠不足は人を悪い意味で変えるものだ。判断力や思考力がおかしくなる。身体が持つわけがない。

そう言う意味では、今は場所にもよるが9時か9時半出社で良い環境にいるので、大変助かっている。朝過剰に早く起きる必要がないのが一番ありがたい。そしてどういうわけか、今のところ多少の早寝も出来ている。良い循環だ。睡眠を削るのがいかによくないか良くわかる。短い睡眠で生活するのは、少なくとも私には向いていないのだ。私はナポレオンではないし、ナポレオンにはなれない。良く寝て良く食べてとそっちの方が良い。それがどちらも損なわれていた以前の環境でいろんな意味で壊れかけたので、そう言う意味では環境が変わって良かったとしみじみ思うこの頃である。

最近「社会的時差ぼけ」という言葉を聞いて、いろいろ思い出しながら書いたわけであった。

 

水族館

魚は食べるだけでなく、見るのも楽しい。
私は水族館が好きだ。一人でも行く。旅先で美術館に入ることはほとんどないけれど、水族館だったらたぶんかなりの確率で行くと思う。それくらいには好きだ。

意識をしたことがなかったので気がつかなかったが、ここ5年くらいでずいぶん水族館に足を運んでいる。だいたい沼津の「沼津港深海水族館」「あわしまマリンパーク」「伊豆・三津シーパラダイス」のせいなのだけれど、それ以外にも結構水族館に行く機会が増えたのは間違いない。
伊豆・三津シーパラダイス(以下「みとしー」)なんて勢い余って年間パスポートを買ってしまった程だ。決して沼津在住とかではないのに、だ。
まあこの沼津3水族館に関しては、ラブライブ聖地巡礼だとかそういう邪な思惑が絡んでいるのでアレだが、それにしてもここまで水族館って好きだったかな? と思ってしまうわけである。


魚を飼う事はそんなに得意ではない。最近は違うけれども、半年前までは毎週出張だったので家に帰れない=魚の面倒を見れないということで、飼おうという発想にも至らなかった。至れなかった。

昔、それこそ小学生くらいの時には家に金魚がいた。縁日で金魚掬いをやって、1匹も取れなかったのをみて屋台のおじさんがくれた金魚だった。
水槽がなかったので、深さ5cmくらいの謎の入れ物(直径10cmくらいの、丸い、植木鉢の受け皿みたいな何か)に入れて飼っていた。たぶん、屋台の金魚だしそんなに長生きしないだろうと思っていたのだろう。
だが、その金魚は結局3年くらいだったかな、いやもっとだったかもしれないけれど長い事生きた。ずっと謎の入れ物に入れたままだったけれど、ずいぶん長い事家族の一員だった。
水槽、買ってあげればよかった。

話が脱線したが、つまりまあ魚は昔から好きである、ということだ。見るのも、食べるのも。

水槽はいつまでも見ていられる。
大きな視点で、水槽全体を見るのも良し。1匹の魚に視点を移して、その動きをずっと追いかけるのも良し。水槽そのもののレイアウトを楽しむのもまた、良し。隠れている魚を探したり、魚の名前を調べたり、生態を調べて実際の動きと比べても良し。なんでもありだ。
あと泳いでいる魚を見て「あの魚美味そうだな」も個人的にはいいと思っている。イワシが群れになって一斉に動いている様を見て、すごいなと思いながらみんな美味そうだなと思ったっていいのだ。実際そうでなければ、水族館のレストランであんなに海鮮丼を扱っているところが多い訳がないのだ。前述の「みとしー」なんて一見魚メニューなんてないような構えのレストランが入っているが、入ってみれば「さばのトマトスパゲッティ」「アジでペペロンチーノ」「しらすとモロヘイヤのジェノベーゼ」なんだから。


水族館に行けばそれこそいろんな種類の魚がいるし、魚に限らずいろんな生物を展示している事が多いので、結果的に半分動物園みたいになっていることもある。それも楽しい。
例えば「みとしー」には定番のアザラシやアシカ、イルカなどに加えて、フラミンゴやコツメカワウソがいたりする。そういえばオーストラリアはシドニーの水族館なんて、カンガルーとコアラは当たり前のようにいた(ただしコアラは抱っこするとものすごい額のお金をとられ、感ガルはやる気なく足を放り投げて寝ころんでいた)。どこも工夫しているのだな、なんて思うと面白い。
結構水族館もいろいろ工夫をしているわけだ。展示方法とか、ショーの内容とか、展示する魚の種類とか。

そう言う意味で、テーマがある水族館は面白い。
例えば、北海道千歳市の「サケのふるさと 千歳水族館」は名前の通りモロに鮭をメインに据えた造りの水族館で、建物の中から隣を流れる千歳川の川の中が覗けたりとけっこう面白い造りをしている。もちろん違う魚もいるけれど、結構な量が鮭に締められており、見ごたえ抜群である。
あと驚いたのは、鳥取県境港市にある「海とくらしの資料館」である。別名「水のない水族館」と言って、展示されている魚のすべてが剥製なのだ。剥製ばかりを4000点も集めた水族館。これは他に類を見ない。生き物は命がなくなれば色あせてしまうもの。ところがここでは色鮮やかに剥製として蘇っている。


こうやって各地にいろいろ特長のある水族館があると、ますます行ってみたくなってしまうものである。年間パスポートが妙にお得なところもあるので、地元以外のところでも複数回いけそうならば思い切って買ってみようか、とさえ思ってもる。新しく水族館に詩を踏み入れるのもいいし、何度も通ってみるのもいい。どこも同じようでどこも同じではないし、いつも同じようでいつも同じではない。時間を忘れて、水の世界へ。いい気分転換になるものだ。