言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

家系ラーメンの誘惑

家系ラーメンは、1口目こそが至福の時である。最後まで食べきる頃には飽きる……という事はないものの、美味しさのピークは1口目である。あの1口目を味わいたくて何度も家系ラーメンの店に足を運ぶと言っても過言ではない。

横浜を中心に、最近ではかなり広範囲にわたって展開されている家系ラーメンであるが、基本的にとんこつ醤油味ということで、かなり高カロリーで重たいものであることは分かってもらえるだろう。カロリー的にはあまり変わらないだろうけれど、家系ラーメン特有の「鶏油(チーユ)」もまた脂っぽさを増しているものだ。オーダー時に麺の固さ、味の濃さ、油の量を聞かれるくらいだから、本当はここを調整したら良いのである。脂っぽいと感じる店ならば、少なめに、と告げればそれでいいのだ。
ラーメンにも例えばラーメン二郎およびそのインスパイア系や、新潟あたりで多くみられる背脂チャッチャ系なんかに比べたら、家系ラーメンは重すぎはしない。だがあくまでそれは重量級メンバーと比べた場合である。家系ラーメンが非常にハイカロリー食であるのは間違いない。濃厚なとんこつ、中太麺。博多の長浜ラーメンとか、そう言った類のものとは一線を画す(あちらは大盛りではなく替え玉が主流であり、それはそれで危ない)。家系ラーメン意外にもっとやばい奴もあるから……なんて考え出したら最後だ。ついついご飯を付けてしまうし、この「つい」手を出してしまう感覚もまた危ない。体重が右肩上がりである。

食べ終わる頃には満腹で、下手をするとその後の夕飯に支障をきたすくらいにもたれたりもするわけだが、どういうわけだか定期的に食べたくなる。絶対後からもたれるのがわかっていても、注文する時には「今日は大盛りでもいいかな」とか「ご飯も食べ放題だしつけるか」とか考えてしまうわけである。学習していないわけではなくて、何でかいつもそうなってしまうのだ。だいたい夕飯に多少支障をきたそうがそこまで困ってもいないし。とまあ開き直ってしまうわけである。

最近はほとんど食べなくなったが、家系ラーメンはご飯との相性がとても良い。親和性が高すぎる。家系ラーメンを食べる時は後半になるとほぼ必ず豆板醤を投入する私だが、ピリ辛なスープになると余計ご飯と合うのである。だから食べ過ぎてしまうんだろうなあ。白米を自分で盛り付けるタイプの店が多いので、本当に加減して持って来ないと大変なことになってしまうわけである。あったらあっただけその場では食べられてしまうから。あの濃い味はご飯と合う。味が変われば麺が進むようにご飯も進む。海苔で巻いたりして食べているうちに気がつけばご飯の方が先になくなる始末だ。

食べ終わる頃には大抵後悔している。なんでこんなにお腹いっぱいになるまで食べてしまったんだろう、と。せめて油少な目でオーダーしておいたら良かったかな、と。でももう後の祭りだ。
それでも次に来る時には至高の1口目のために、いつもと変わらずにオーダーをしてしまうのだ。
あのとんこつ醤油の味を、麺をすする瞬間を、また再演するために。

音楽とかそういう芸術って、難しい

たぶんだけれども、私は楽器演奏というものにはあまり向いていない。絶対的な音感へのこだわりがないからだ。音が別に多少ずれていても気にならない。音を作る、なるほど言葉ではなんとなくわかるし、違いがあるのも分かる。けれどもそれを追求して、そしてまた再現しなくてはならないとなると難しい。文章だって1字1句違わずにまったく同じものをかきなおすのは無理だ。それと同じで、まったく同じようには2度はできない。音楽も文章も生き物みたいなものだとよく言うけれど、そう言うものだと思っている。だからこそ突き詰めて同じように素晴らしいものを恒常的に披露できるようにしようとするわけなんだろうけれども。

例えば吹奏楽部の演奏を聴いていて、上手いな、と感じることはある。上手くないな、というのも分かる。なんとなく不快だな、とか和音がずれているのかな、と推測することはできるわけだ。それに比べて上手だな、というのはわかるわけである。ところがある程度よりうまい人たちのその優劣というのは難しい。個性みたいなもので良いと思ったりするし、思ってたのと違う感じで来たな、とだけ思うこともある。
悪いところを挙げるというのは得てして簡単なものであるはずだが、悪いところがない演奏を二つ聞いてどちらが良いのか何を変えたらよいのかなんてことはどうにもわからないわけである。感覚的になんとなく後者の方が滑らかなのかな? なんて思うくらいのものだ。
ところがまあオーケストラの特集番組なんかを見ると、ものすごく細かい指導をしていたりする。誰も多分音を間違えているわけではないだろう。しているのはブラッシュアップ。指導する人もすごければ聞いて演奏する側もすごい。ドーンじゃなくてバーンだよ! はい! なんて、わかるのかな。はあ、芸術とは実に難しい。

オーケストラに話は限らない。バンドとかでもそうだ。私はあのエフェクターという奴の使い分けすらよくわかっていない。ギターの人が間奏のソロの時によく踏んで音を変えているのを見るけれど、ああいうのってどうやって選んでいるのだろう。この音がいいなこの音は嫌だな、というのがきっとあるのだろう。私はその試行錯誤の末の完成形を聞いているだけだから、その過程はよくわからない。アンプの調整だって、もっとLow上げて、とかそういう微調整がよくわからない。音量をMIXする仕事はやったことがないけれど、たぶんできないだろうなあと思う。こだわりがある人には信じられないだろうし怒られるだろうから。
もしそれが自分の演奏だったら、聞いて調整して、というのは自分の責任において行う事は出来るだろう。低音強調した方が好きだな、とかバランスがおかしいかな、とかそういうことは考える。けれども人の物にけちを付けるのはナンセンスというか恐れ多いというか、おこがましいというか……。自信がないからなんだろうなあ、こういうのってたぶん。

 

現地観戦と自宅観戦

プロ野球を見るのが好きだ。たまたま地元に贔屓チームがあるから、球場に出かけて行くのも遠く
はないし、家でもローカルチャンネルで中継があったりする。

現地観戦はお金がかかる。当然のことだ。電車賃から入場料、あとは何か食べれば飲食代。
グッズをそろえたりしてさらにお金がかさむこともある。これはある程度余裕ができないと難しい
遊びであるとすら言えるかもしれない。ただあの球場に入ってグラウンドを見下ろすあの瞬間の興
奮は他の何物にも代えがたいものがある。
現地観戦の良さは特有の臨場感と一体感だ。内野の一部の席を除けば周りは同じチームのファンと
いうことで、雰囲気からして楽しいものである。応援をすべく一緒に声を出すもよし、座ってじっ
くり観戦するもよし。同じものを応援するというのは結構気持ちよく盛り上がるものである。つい
ついビールなり弁当なり買ってしまうのはこれのおかげでもある。球場ごとの名物なんてのも最近
はかなり力を入れているからそれだけでも楽しくなってしまう。

プロ野球選手の一挙手一動作を目の前で見ることが出来る点も実によい。特に外野手の送球なんて
のは、テレビで見るよりもずっとすごいものであることがよくわかる。よくもまああんな米粒大の
人間に向かって小さなボールを正確に投げられるものだ。どうやったらああなれるのか。
現地にいることに意味がある瞬間も多い。2000本安打達成とか、ノーヒットノーラン達成とか、そういう記憶と記録に残る試合を目の前で見ることができればさらに忘れられない思い出となるだろう。
現地観戦はだからやめられないのである。

自宅観戦はとにかくお金がかからない。最近はテレビだけでなくてネット配信もしているから、結
構な試合数を観戦することができる。月額の支払いが必要になるような有料コンテンツに加入すれ
ばそれこそ全試合見ることすら可能になってくるだろう。ただ平日はどれくらい家で見られるか、
という事もあるからなかなか有料配信までは手が出ていないのが現状だ。なんとなく見るのが義務
になってしまっては嫌だな、という思いもある。優勝とか順位とかがかかった重要な試合とか、日
本一決定とか、そういう時だけ地上波放送なりがないことを恨むわけだけれども。

特殊なものではスポーツバーのようなところでの観戦というのもある。あまり経験はないけれど、あれは楽しいけれど飲むのと食べるのと観るのをいっしょくたに行うのは少し無理があって、どれかが疎かになる不器用人間なので得意ではないかもしれない。
自宅でなくとも例えば旅館とかでゆっくりお茶か酒でも飲みながらだらだら観るのが実は一番至福な時間かもしれない。

どういう形であれ、録画以外のものでリアルタイムに観戦するというのはとても楽しいことだ。リアルタイムだからこそ良い。時間が過ぎればもうすぐネタバレになってしまう。切り取られた経過だけを観る、それだけでは得られないいろんな価値があってそれでいいじゃないか、と思うわけなのだ。

旅程を組む

旅行をするという時、旅程を組むのが一番好きだという人がいる。その気持ちは大いにわかる。あのどこをどう回るか考える時間こそ至高の時間だ、という意見には全力で首を縦に振らせてもらおう。

旅行の計画を考えるのはすごく楽しい。計画することはすなわち旅行そのものを想像することであり、楽しみが広がっていくわけである。無限の可能性だ。その無限の可能性だったものが一気に実現できそうな手の届くところに来る。それが計画を練るという作業によってもたらされるわけである。

私は結構計画は細かく立てる方だ。ただし、細かく、の方向性はおおよそ一般的に考えられるものとは違っていて、ひねくれた方の細かさである、と先に弁解しておきたい。

電車旅の場合、基本的に乗る列車についてはほぼすべて事前に調べてある。それは乗れなかった時も含めてだ。
例えば朝8時に姫路駅に着くとする。朝5時から電車に乗りっぱなしでお腹がすいてくる頃だから、姫路駅のホームの上の「えきそば」を食べる計画だ。この時食事時間は正直言って正確なものはわからないから(食べるスピードもそうだが配膳までの時間も)、次の電車に間に合えば乗るしそうでなければ次の電車にする、という自分の行動が読めるわけである。そう言う時、ここで先に乗った場合とそうでない場合では電車がずれるわけで、私はそういう計算も基本的にしていくのである。
現地で何か新たに見つけて急遽寄り道をするときも、その都度調べ直す。だいたい終電移動とかはしないので、時間に余裕があることが多いので成立する技でもある。事前に数パターン練っておいて、当日にまた変更が加わることもある、そういう旅程の組み方をしているわけである。スマホ時代でなければなかなか骨の折れる作業であろう。あの紙の時刻表というものは結構読み物として好きではあるが、持ち歩いて使う発想は私には薄い。乗換検索と路線図、web時刻表、これで事足りるわけである。

次はどこに出かけようかな、と考える時間はふとした瞬間に訪れる。
それはたまたま記事を見たとか、たまたま食べたいものがあるとか、たまたま人から話を聞いたとか。些細なきっかけと旅行という行為が結び付いて爆発して、こうして私は旅に出るのである。
旅行はとても気軽なものだ。計画を練るのは必要だからではなく、好きだからそうしているだけである。そんなに考えずに、最低限だけ決めてする旅だって何度かしているし、それはそれで面白い。最適解はどこにもなくて、最善だろうなと思って出かける、それだけなのである。

 

謎の腰痛

最近、謎の腰痛に悩まされている。謎なのだ。原因が全く思い当たらない。変な姿勢で寝たのか?
半年くらい前なら腰痛になりそうな原因はいっぱいあった。毎日の車移動、運搬、組みたて、帰社してデスクワーク。思い当たる節はいっぱいあるが、特にこの頃は身体を痛めるようなことはなかった。寝不足と頭痛と吐き気くらいである。腰痛持ちは周りに大量にいたが特にそう言った不便を感じることはなかった。
そういう生活でなくなったのにもかかわらず、急に腰が痛くなったのである。
最初のは3日くらいですぐに治った。電車で旅行する前の日当たりに腰が痛くなって、10時間電車の立派な市とかそういう馬鹿をやったのに旅行中にはすっかり痛みはなくなった、そもそも大した痛みでなく違和感程度だったので、湿布を貼ったりしたが特に支障なく過ごせた。だから首を寝違えたとか筋肉痛になったとかそういう類のものだと思って過ごしていた。
その1週間後くらいからまた腰が痛み始めた。今度は明確に痛みを伴っている。中学生の時に走り込みのしすぎでスポーツ外傷になった時より痛い。成長痛とかそういうのとも違う。身体の衰えというような痛みである。朝起きて布団を押し入れにしまう際に立ちあがるのが痛い。前かがみの姿勢も痛い。座っている時や歩いている時は少々違和感があるけれどまあ何とか大丈夫、といった具合に。
運動不足だろうかと思って少し歩いたりしてみたけれども、特に改善する様子はない。それどころか飲み会の後のカラオケで騒いだせいもあってか腰は酷く状態が悪くなってしまっている。困った。困ったと言いつつ、どうしていいのかわからず湿布を貼ったり7得るけれどごまかし切れていないのが現状だ。ごまかしたってどうにもならないんだね。身体の自然治癒に回せるとかそんな事を言ってられなくなってきつつあるのが辛い。

来月からは毎日デスクワークになるのでますます不安である。今のうちに治してしまった方がいいのは分かっているけれど、整体とかそう言うのを調べて値段に驚いて手が出ずにいる。明確な原因がはっきりしていない以上、治療にはならないから保険が効かないのだという。だから初回は1万円くらい、その後も毎週7千円とかとられるらしい。……なかなか厳しい金額である。つい自分の身体のこととなると多少支障が出ていてもまあ良いかとなってしまいがちだが、今夏は輪をかけて尻込みしてしまっている。高い。どうにも手が出ない。自然治癒しないかな、でも行けないと治らないよな、腰痛って腰以外が原因のことも多いって言うし。それも分からないでただ湿布を貼っても治らないなんてそりゃもうドラッグストアアルバイト時代から知っている。いざなってみるとそれでも湿布を貼るんだけどさ。

電車旅行に終電はいけない

鉄道旅行のいいところは、自分で運転をしなくていいところである。だからなんだと言われそうだが、眠ければ寝ればいいし、ぼんやり外を眺めてもいいし、別にスマホに目を落としていてもいいのだ。楽で良いではないか。
車での移動は嫌いではない。むしろそれも良く行う。でも交代要員のいない一人旅で車オンリーはなかなか疲れる。特に帰り路が辛い。自宅の近くで車を借りて出かけていたこともあったが、砂金は専ら現地近くの比較的大きな駅で車を借りるようにしている。日光に行くなら宇都宮で、西伊豆に行くなら沼津で、阿仁合に行くなら大館で。疲労度が段違いである。車を返してそのまま帰るか、あるいは1泊して少し駅の周りでも観光して帰ればいいから気分的にも良い。レンタカー代はもとより高速料金やガソリン代は複数人ならば問題ないが一人では負担が大きい。なら電車で寝て帰ろうではないか。そういうことである。
こういう時、電車でも車でもない交通手段が選択肢に出てくる人はちょっと普通ではない「すごい人」だ。原付とか、自転車とか、徒歩とか。下手すればその行為だけでお金が取れるレベルの人さえいる。知り合いには山を縦走しながら狩猟生活してる凄まじい人もいてその人はもはやそれが本業だったりする。私には流石にそこまでのバイタリティはない。歩くのはぎりぎり分かるがそれも観光地を巡ってせいぜい1日3万歩弱で限界だ。生来私は脆弱に出来ている。疲れたら休むし辞めるだろうし。

鉄道旅行は非常に楽である。鉄道に揺られて目的地まで座っていればいいから。たまに座れなくても別に満員で詰め込まれているわけはないし特に気にはならない。どうせ観光地についたら歩くし、どうせご飯を食べたり休憩したりするんだから。
ただそんな鉄道旅行に付き物なのは天候との戦いである。特に大雨は難しい。どこがどういう理由で運休になったり遅延したりするかわからないからだ。線路そのものが流出してしまったりすればその日運転できないどころの話ではなくなるが、これは事前にわかるし代行バスが出ていたりするから案外なんとかなる。困るのは突発的な豪雨。あるいは強風。豪雪。酷いものだと酷暑によりレールがゆがんでなんてのもある。予測ができない。都会ではなく本数の少ないローカル線でそう言う事が起きると致命傷になりかねないから大変だ。

先日東北方面に旅行した際にもやられてしまった。陸羽西線がそもそも先の豪雨で運休しており、さらにこの日降った雨によって山形県鉄道路線が完全に麻痺。私は福島から山形を経て、秋田へ抜けるルートを探っていたが結局いつ動くかわからなくなってしまったために急きょルート変更を強いられた。福島から仙台を抜けて盛岡の手前北上から秋田南部の横手という街に出る超大周りルートだ。福島を朝7時に出て秋田に着いたのは結局18時。昼ごはんを食べるタイミングは乗り換えの30分待ちだけであり、駅舎の外に出られず。流石の私も10時間普通列車に乗りっぱなしになるのは少しばかり堪えた。雨でまったく外の景色が見えなかったのも痛かった。

まあトラブルを含めて鉄道旅行であるという感じは否めない。電車は遅れるものだし電車はしばしば運休するものだ。だから私は旅行中は始発で動く事はあっても終電で動く事は極力しない。計画段階で終電は候補から外す。手前で宿泊する。
私は東海道本線の始発小田原行きが遅延した時に、駅員に「この電車が5分遅れたせいで目的地にたどり着けない、どうしてくれるんだ」と食ってかかる旅行者を見たことがある。あれはいけない。駅員は悪くないし、そもそも始発が終電になるような旅行計画こそ間違いである。

 

 

忘れていました台風を

とんでもなく風の強い台風がやってきた。窓が壊れてしまうんじゃないかと思うくらいすごい音が何度もして、夜中の間中ひっきりなしに続いたもんだからびっくりしたし参ってしまった。家が揺れているような錯覚さえ抱いた。だから部屋の中でも出来るだけ窓ガラスから遠い位置に布団を持っていってそこで寝るなどしたが、とりあえずガラスが割れることはなくて済んだ。
でも夜中に網戸が風で動いて変な音を立てるのは別の意味で怖すぎるからやめてほしいね。せめてゴミ袋がガサガサいうくらいにして欲しい。

もう一つびっくりしたのはNHK。0時過ぎたらアナウンサーがいなくなって、何やらお洒落なBGMが流れ始める。でも映っているのは台風情報。働き方改革ってやつですかね。でもなんかシュールで面白かった。


小学生くらいの頃は台風が来るのは楽しみだった。台風というのはテレビの向こうの出来事で、もっと言えば窓の外の出来事でしかなかったからだ。外で横殴りの雨が降っていて、やばいね大変だねと言っていればよかったからだ。むしろ感心事と言えば家の周りの地域に暴風警報が出ているかどうかであり、朝から台風が来てくれれば学校は休みになるわけだから朝一番にテレビを見て警報が発表されるのを今か今かと待っていたわけだ。
とはいえ記憶している中では小学生の時は暴風警報が出て学校が休みになった事は1度くらいしかなかったように思える。だいたいがっかりしながら支度をして出かけて行ったものだった。

中学生のころにはテスト期間に台風が来て面倒くさいことになった。わざわざテスト最終日である金曜日に台風が来てしまったのである。テスト後の土曜日に遊びに行く予定だったのに、月曜日にテストが延期されてしまったからさあ大変。どうでもいい科目が残れば良かったものの英語なり社会なり普通に対策に必要な科目が残ってしまったため遊びにも行けず3日間勉強をだらだらと続けなくてはならなくなってしまった、嫌な思い出だ。もう少し別のタイミングで来てくれれば万事解決なのに、なんて思った者である。中学生の時は体育祭に台風がもろかぶりするということもあったので大概私は「持ってない」わけである。

思い返してみれば高校生の時も文化祭の最終日に台風がやってきた。そうして後夜祭だけが中止となったのである。後夜祭のステージに出る予定があったので結構がっかりした記憶がある。高校3年生の文化祭の後夜祭なんて一番楽しいはずなのにね、と。これに関しては自分よりもまわりがすごくがっかりしていた記憶がある。有志で真の後夜祭みたいのもやったらしい。私は行かなかったけれど。行けば良かったかな。

 

たいやき屋

それほど気にして選んだことはないけれど、意外と食べている。私にとってのたいやきとはそういうものである。たまたまだが、たいやきの店というものは、いつも身近なところにあった。横浜駅の西口とか、神楽坂の坂の下のあたりだとか、何かと縁がある。何ならたこやきよりもたいやきの方がお世話になっている気がする。そう言う存在だ。
好物かと言われるとそう言うわけではない。でも好きだ。前を通るとつい食べたくなってしまう。歩いていると漂ってくる甘い香りについ視線がたいやき屋の方を向いてしまい、そんな時に季節の新作メニューなんてのが目に入ったならばそれはもうすっかりたいやきが食べたくなっている。

季節の新作メニューというのは、買う側にとって冒険である事は言うまでもない。むろん売る側にとっても同じだとは思うが、未知の味との遭遇である。であるゆえに、想像もつかないような味だと身構えてしまう。例えば抹茶とか、栗だとかそういうのはなんとなく想像がつく。ところがそこにマンゴーとかそういう普段たいやきの中身としてお目にかかりそうにないような名前があった時、惹かれながらも戸惑ってしまうわけである。
でも買ってしまうのは好奇心と、それからいつもの味を知っているからこそだろうか。

好きなもの、気にいったものは、つい高頻度で食べてしまう癖がある。流石に栄養バランスの観点から同じものを3食食べるとかそういうことはしないが、隔日で食べるなんてことは平気でやる。マイブーム到来中はもう少しそれがひどくなったりする。同じ店に何度も行けば、これを食べれば間違いないというメニューを見つけるものだ(というかそういうものがあるから通うわけでもある)。だからたまに店の人に覚えられていて、顔パスで同じものが出てきてしまうこともあったりしてそれはそれで嬉しいのだが、たまに違うものに挑戦したくなったりもするわけである。季節のメニューなんてのはそういうちょっとした冒険をしたい時にうってつけなのだ。
季節のメニューとか期間限定メニューというのは、いつものメニューをいつも同じように食べている、そのためのスパイスともなりうるからこそたまの冒険が楽しいのだ、とも言えるかもしれない。

たいやきも同じである。期間限定の物に手を出して、店に初めて行くことになったとしても同じだ。順番が逆になるだけ。いつも食べられる、限定ではない味を食べて、気に入ればそれこそ毎日通う勢いで店を訪れることになる。限定商品が気にいれば季節が変わってメニューがなくなるまではそれを食べ続けるかもしれないけれど、それができるのは戻ってこられる味があるからだと勝手に思っている。

初めて行く店で限定メニューを頼んでみることだって普通にある。観光地に出かけた時なんかは、季節のメニューこそがご当地メニューであるということもあるからだ。
でもそれはそれ、これはこれ。
普段使いのなんとはなしの店だからこそ、いつものつぶあんのたいやきが恋しくなるものなのである。

商店街の小さな店の存亡

昔、そこは本当にただの空き地だった。建物と建物の間にある余剰スペース。実際何に使われていたかは皆目見当もつかない。柵で覆われた半端なスペース。たぶん畳で換算しても多く見積もって4畳くらいのスペースしかない。そういう土地だ。そこにある時突然プレハブのような建物ができた。

カウンターに椅子が4つ程。その建物は飲食店であるらしく、しかもそば屋であるという。驚いた。ものすごい狭いスペースでまさか建物ができるなんてと驚いて、その上飲食店だというからさらに驚いた。あのスペースで何ができるんだろうとかなり不審がったものだった。
そば結構美味しいらしかった。そこそこ高単価の手打ちそばという事だったが、味が良いしそばなのでそれなりに回転率も良かったようだ。とにかく座席数が少なかったからなんとかそれを改善しようとしたみたいで、途中改装が行われて2階席が出来てさらに10人くらいは入れるようになったらしい、というところまで聞いた。聞いた、というのは全く外からはわからないし入るには大抵満席だったのでチャンスがなかったのだ。そうこうしているうちにそば屋は休みがちになった。入口には、他所で出した新店舗の開店応援に行っていると書かれていた。応援ならば仕方がない。どうせこちらの店のスペースでは従業員は最大2人といったところだろう。2階を客席へに改造してあるから待機や休憩のスペースもないし。なら広くて応援が必要な店に行きたいだろうよ。まあ向こうの店とやらが落ちつけば帰ってくるだろう。
だが、このそば屋は程無くして閉店してしまった。店員は応援に出たまま帰ってこないなぁいつ店が開くのかな、などと悠長に構えていたら閉店だよ。ついぞそばを食べることなく閉店してしまった。残念なことだ。チャンスは逃すと二度と掴めないものなんだなあ。

そば屋がなくなってしばらくして、跡地は唐揚げ屋になった。同じ商店街に既に3軒唐揚げの店があるのだが、果敢にもこの店は既存店を上回るサービスを持ってして戦いを挑んできた。それは常に揚げたてであるという事。つまり、注文を受けてから揚げ始めるというシステムを使っていた。
いつ行っても揚げたてである半面、必ず待たされるという良いのかどうかわからないシステムである。近くで買い物をして戻ってくればちょうどいいというような、そういう設計らしい。確かに揚げたての唐揚げはとても美味しかった。
ただこの店の立地、広さは変わらない。つまり店内で待機して待っていることがほとんど出来ない。座って待てるのは2人くらい。住宅街なので総菜は売れるはずだが、ベビーカーすら入れない店内、店の前の歩道もさほど広くない、注文が立て込むとなかなか揚がらない、など不幸が重なった。2階をイートインスペースにしてどんぶりを売ってみたり、弁当を販売してみたり、ビールを売り出してみたり、工夫をしていたが振るわなかったようでまたこの店も休みがちになってしまった。しかも弁当を始めたのにもかかわらず昼営業しない日が増えてしまった。これはひどい悪循環。
夜の飲み需要はないわけではない。3件向こうの焼き鳥屋は立ち飲みで5人くらいしか入れないが繁盛しているし、開店から都合10年くらいは経っている。単純に味だけなら唐揚げ美味しいんだけどなあと思う私はそば屋の反省を生かして結構足を運んだものだったが、営業時間がおかしくなってから行けなくなりそのまま店が閉まってしまった。
2店舗目も閉店というわけである。

その後、数か月空き家のまま推移していたがついに3つ目の店が入居することに相成った。それはイタリアンバル。まさかの、である。ただこの店読みは非常によく、ランチタイムに500円でピザを出したり、同価格で持ち帰りをやっていたりしていつも人が入っていた。夜は飲み放題のメニューも結構あるようで、比較的高単価だしなんだか毎日埋まっているしこれは長く続くかもしれないな、と期待にほくそ笑んだものだった。
500円のピザはとてもおいしいし、家で電話して頼んでおけば受取が15分後とかでも何ら問題ない。1度注文を断られたことさえあった。注文が立て込んでいて1時間はかかると言われ、流石にやめたわけだっが、これだけ注文が来てるなら売れてて安泰だななんて思ったわけだった。
だが今回もまた期待が裏切られることとなる。

ある時突然急に昼間の営業日が少なくなった。ほとんど夜だけの営業となってあらまあ昼はやめたのかと思ったら夜も開かなくなって、これはもしやと思ううちに閉店してしまった。つい先日のことである。開店から半年経ったかどうかであっという間になくなってしまった。
原因はやはり狭さだと思う。ピザ用の窯を入れていたが、1回で1枚ずつしか焼けないこともあってか非常に効率が悪かった。開店直後に入ってもかなり時間がかかった。これを複数人こなすのは無理がある。夜の食べ放題などはピザの注文が入ると厳しかっただろう。コンロも2つしかなかったからパスタと他のつまみとなんて作るのは大変だっただろう。店員も相変わらず2人くらいまでしか入れなかったし。

家賃が高いのかもしれないが、どうにも続かないあの店舗に次は何が入ることになるのだろうか。楽しみでもあり、期間限定の楽しみになるのではないかという不安もある。
そば屋の反省からずいぶんと積極的に足を運ぶようにして、そして潰れないようにと積極的に口コミを宣伝してみたりしてしまったわけだが、それであの店のキャパシティーをオーバーする客が来てしまったのだとしたら、それは申し訳なく思う。

 

一人焼肉

焼肉は大勢でするものだと思い込んではいないだろうか。友人と、仲間と、家族と。それはそれで楽しいものだ。外で行うバーベキューなんかもいい。ジンギスカンみたいな変わり種も楽しい。だがそれは本当に大勢で行わなければならないものなのだろうか?
必ずしも大勢で集まってしなければならないものではないと私は焼肉に対して思っているわけである。

無論大勢で行う焼肉も好きだ。焼肉をするという事はある意味ではエンターテイメントである。それゆえに大勢で行う楽しさというのは必ずあると思う。
ところがただただ楽しければそれでいいのだけれど、気を使わなければならない相手が多いほどその楽しさに緊張感が上乗せされていくわけである。年下が積極的に焼かなければならないとか、あるいは取り仕切りたい美行のような人がいれば従っておいた方がいいとか、そういった内輪のしきたりがよくわからないところに放り込まれてしまった時の探り合いがしたくないわけである。
気心の知れた仲間と適当に行く焼肉、これが至高である。気心が知れるようになるまで飲食をともにするのはやや緊張を覚えるものだが、焼肉あるいはバーベキューなどというものは過分に気を使うものである。やってみなければわからない妙な緊張感はあまり好きではない。

一人焼肉の良いところは圧倒的な気軽さである。とにかく誰にも気を使わないで良い。言うほど周りは自分を見てなどいないし、一人でも何も気にすることはない。一人で占有するがNGな店はまず入る前に断られるから、入ることができた時点で堂々としていればいいのだ。
デメリットを挙げるとすれば、多くの種類を食べることができないという所だろうか。大抵食べられる量は決まっているのと、一人なら食べ放題をするような気にもならず、値段を気にしながら食べることになってしまったりするわけだ。これは良くない。理想を言えば値段を気にせず一人でたくさんの種類を食べたいものだが、それには富豪とまでは言わずとももう少しお金があればいいのかなぁなどと思うわけである。
貧すれば鈍する。意味は違うが意味は同じだ。
一人焼肉に「家で食べればいいや」は禁句である。もったいないと思うならばそもそも外で焼肉などしない。雰囲気を買っているとかタレが美味いとか、果ては洗い物が面倒とかそれくらいの理由でいいのだ。そこに無粋なコメントはいけない。焼肉定食でなくてあえて焼肉をしに来ているわけだから、それだけの理由は言葉にできなかったとしてもきっとあるはずなのだ。