言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

私は旅が好きだ。

荷造りをして大々的に出かける時もあれば、ともすれば散歩のようにふらりと出かけたりもする。一人旅をする事があれば、仲間を集って出かけることもある。

大きくても小さくても旅は旅だと思っているから、私は「よく旅に出るんです」と度々自己紹介を行うのだ。

旅に出るといろいろな事が起きる。俗な言い方をすれば「非日常」というやつだろうか。普段の生活と比べて変化に富むから、得られるものや感じられるものがあったりすることもある。

旅はいろいろなものを与えてくれるのだろう。

だろう、と書いたのは、私が必ずしも効能・効果なるものを求めているわけではないからである。旅をしようと思った時に、勉強になった、学んだというような、効用を求めて出かけているわけではないのだ。

旅の効用を否定するわけではない。心を動かされる瞬間は、旅の中で得られることもしばしばである。これが何事にも変えがたい体験となって、思い出となる。教養を得られることもある。勉強になったということもある。学術的知見を得ることはそう稀なことでもない。

小説を読んで、あるいは映画を見て感動した、という気持ちになることがあるように、旅をして感動したり教養を得たり、新たな関わりができるなどいくつも体験することはあるだろう。しかし読む前見る前から「感動を得たいから読む」ならまだしも「教養を得たいから読む」ということないとは言わないが、少ないのではないだろうか(もちろんビジネス書の類などは別としてだ)。

私にとって旅とはある意味で物語的な存在であるという事だ。利益のない、得るもののない旅でもいいのだ。勉強にならなくてもいい、むしろトラブルなど不利益を被る事もあるだろう。結果として勉強になる事があればそれはそれで構わないし、良かったとその場で喜べばいいのだ。

旅はとても良いものだ。

夜、高い場所から夜景を眺める。あの光は皆、人の営みだろうかと言えば、多くは人のいない道に立つ街灯だと言われることもある。それでもいいのだ。それは見えている物語が違うだけで、優劣をつけるものではないし、正しさがあるわけではない。何を感じようが感じまいが、自由なのだ。

私はたまたま観察をしたり、想像を働かせたりする行為が好きなだけで、旅の楽しみ方の一つに過ぎないのである。それが全てではないし、時にはスタイルも変化することがあるだろう。

私の旅は真っさらな物語のページだ。

起承転結にこだわりなく、起伏にこだわりなく、書きたいものを描いていくだけである。

そんな旅が好きだ。