言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

恐ろしきPC排熱

部屋が暑いのか排熱が凄まじいのかよくわからない時がある。ここで言う排熱とはすなわちPCからの排熱のことだ。電化製品は基本的に熱を発するものではあるが、とりわけ私の使っているPCは非常に熱を発している気がする。年式が古いとか性能が悪いとかそれを分かっていながらにして現役で使い続けている私が一番悪いのは分かっているのだが、環境を変えると言うかデータを引っ越すことの面倒くささを前のPCが壊れた時に嫌というほど思い知らされたので尻込みしてしまっている点がある。特に先代PCはある日突然起動しなくなってそのままお釈迦になった末、フリーのデータ救済ソフト等を使って無理やり立ち上げ、USBでちまちまデータ移植をしたためにてこずったのであって、外付けHDDを導入している今はさほど問題にならないかもしれない事はわかっている。ただiPodiPhoneの同期先かつバックアップ先だったりする以上はなかなかその基盤ごと移そうと言う気にならないのである。

話が脱線した。

このPCくんの置いてある位置もまた原因の一つで、部屋に設置されているエアコンからの距離が一番遠いことが会館温度の上昇に一役買ってしまっている事は明白だ。こればっかりは部屋の構造とデスクの位置故の事なので改善が難しい。特に外付けHDDに頼っているため移動がやや面倒くさいといった状況を生み出してしまっている。

外付けHDDの容量が1TBあるので、重めのソフトでもとりあえず導入できるため、それ故に高負荷がかかり続けている可能性も否めない。空きメモリ容量が一ケタどころか0になっている事も散見されるし、いいかげんフリーズする頻度も高くなってきた(むろんフリーズ中も高負荷はかかり続けている)。

これ以上悪くなることはあっても良くなることはないと分かっている以上、最善手は「PCを買い替えること」であるわけだ。決してミニ扇風機を卓上に導入することではない。それは買った後からでも出来るからだ。

今は保冷剤を置いてみたりとだましだまし使っているものの、いつ、止まってしまうかわからないなぁなんて考えながら数年経ってしまっているので、いい加減危機感もクソもないのだが、高額の買い物となるため踏ん切りがつかないのである。


5泊くらいの旅行でトータルで使った額の方が多かったりするのに、だ。

 

奥多摩にハイキングに行った

先日、友人に誘われて奥多摩へハイキングに行ってきた。総行程10キロの長い道のりをだいたい4時間くらいかけて走破してきたわけだが、感想だけ先に言うと「ハイキング」というよりかは「トレッキング」と言う方が正しく、実際のコースの名称も「大多摩ウォーキングトレイル」なのだからそれに早いうちから気付きたかった、というのが本音であった。コース自体はJR青梅線古里駅から奥多摩駅の間を奥多摩湖から流出したばかりの川幅のせまい多摩川沿いに設定されており、途中途中にある渓谷やダム、河原のキャンプ場などを横に見ながら歩ける自然を満喫できるようなコースであった。
多くの人が古里駅から川をさかのぼるような形で奥多摩方面を目指すようだったが、我々は奥多摩駅から出発するコースを選択。下流に水が流れるならその方が楽だろう、とか、奥多摩駅じゃないと昼ごはんが食べれなさそう、とか、わざわざ奥に向かうより帰る道で歩きたいとか、それくらいの理由で選択したわけで、深い意味はない。それでも奥多摩駅について早々食べた蕎麦は美味しかったし、駅の二階で食べたソフトクリームもこれまた美味だった(歩く前に食べ過ぎだが)。
そんなこんなで奥多摩駅を出発し、気温35度を超える猛烈な日差しにヒィヒィ言いながらも、舗装された道から遊歩道に入れば木陰が沢山あり、また川沿いなのでそれなりに風もあり、なんだかんだ言いながらも順調に歩みを進めて行った。しばらくは川よりかなり高い位置に遊歩道が設定されていたが、そのうちに川面へとだんだん道が接近していく。川に近づくほどになんだか涼しさが増していくようであった。途中白丸駅近くで飲み物を買ったり、東屋で涼みながら休憩して、1時間くらいで白丸ダムへ到着。さらにその先の鳩ノ巣渓谷もわりと近く、ここでは水の近くまで足を伸ばして、川の流れに手を晒したりして涼をとった。
ここまでもそれなりにアップダウンのある道が続き、普段運動していない私の足はわりと疲れていたが、まだ余裕があった。鳩ノ巣駅は終着予定の古里駅の隣であるし、もうそんなに歩く事はないだろう、とさえ思っていた。

だが、そうもうまくはいかないもので。

まず、道を間違えた。遊歩道的な道路から住宅街に入り、進むべき道がよくわからないままに「川沿いだからこっちだろう」と進んだ道が、間違いだった。歩いてしばらくして補導がなくなり、明らかに車しか通れないような狭さのトンネルにぶち当たってしまったのだ。車通りも歩く、突っ切っていく事を断念し、分岐まで1キロ近くUターンするはめになってしまう。
そしてまた、本来の道に戻ったら戻ったで、この日一番の山道が待ち受けていたからさあ大変。残った力を振り絞ってなんとか頂上とおぼしき東屋へ到着し、休憩する。木々に囲われていて涼しかったのが不幸中の幸いだった。そこから下山をするも、道がかなり険しく、下り方も急で疲れた体には大変危なく、傾斜が緩やかになるまではかなり慎重に歩いていた。
そうしてやっとの思い出、山道を抜け、古里駅へとたどり着いた時は嬉しくて脱力してしまった。おかげで駅に着いた時にちょうど滑り込んできた青梅方面の列車にかけ込めず、30分くらい駅でぼんやりと過ごすことになったが、もうとにかく電車に乗れる嬉しさが勝っていたので、松のはどうという事はなかった(途中で運転停車=すれ違いのためだけに停車して客扱いしないホリデー快速が来るなどしたが、無事に帰ることができた)。

久々に歩きまくったような気がして歩数を確認すると2万歩だったので、距離自体はそんなに歩きまくった、という程ではなかったのかもしれないが、それでも運動不足の私にはずいぶん堪えたものだった。
ただ本当に天気も良ければ景色も良く、行ってよかったなぁ、と思っている。

翌日以降に筋肉痛等が全く来なかったのは、少し嬉しかった。

積乱雲と夏の空

先日、まあそれは函館競馬場とかいう極めて俗な場所にいた時のことだが、芝生広場で座ってぼんやりとしていると、まっすぐに伸びる飛行機雲が目の前を横切っていることに気がついた。真っ青な空に飛行機雲の白さがやけに綺麗に見えて、馬券の払い戻し結果も見ずに思わず見入ってしまったわけである。
その日は思いがけず雲ひとつない好天だった。夏といえば積乱雲、つまり入道雲のようなもくもくとした雲が遠くに見えているのが相場だが、この日はそれもなくただただ青い空が広がっていた。

 

積乱雲と飛行機雲の共演というのも、なかなか美しいものである、とは地上にいる私などは思ってしまうが、飛行機からすれば全くもって逆かもしれないなどと考えるとなるほど面白い。積乱雲は近年流行りのゲリラ豪雨、あるいは古来からの言われ方とすれば夕立をもたらすものであり、突然の豪雨、そして雷などももたらしてくれてしまう輩であるわけだ。そこに飛行機などが突っ込んでいく様はまさに飛んで火に入る夏の虫かと、できればあまり想像したくはないし体験もしたくないものである。

 

とはいえ、夏の空には積乱雲が欠かせない。
何故と言われても困るが、景色として刷り込まれてしまっているので、もくもくと盛り上がる様を見れば夏が来たと思うし、なければ何か物足りないような気がしてしまうわけである。梅雨が明けて積乱雲を見れば本当はまた雨でも降るのかと思った方がいいのかもしれないが「夏だなあ」などとのんきに部屋の中から眺めているぶんにはそれでいいのだ。

季節が変われば、夏の後は秋の空である。秋の空は変わりやすい。正直梅雨よりも秋雨の方が降水量が多いとさえ言われているのも頷ける程、すぐに雨が降る雲がやってくるイメージさえある。


空の色は秋の方が美しい。冬の朝はもっと青がはっきりとしていて美しい。空気中の水蒸気が少なくなるほどに上空で散乱する青い光が見えやすくなるかららしい。
なるほどだから空の青が美しいわけだ。
しかしながら、私は夏の空が嫌いではないし、むしろ好きだ。

 

青い空と白い雲のコントラストが映えるのは、空の青さよりも、積乱雲の白さが夏を彩ってくれているからなのかもしれない。

 

夏という概念は好きだが、残念ながら夏に付随する「暑さ」「熱さ」「湿気」「日差し」などはそんなに好きではないのはご愛嬌である。
白と青のコントラストを楽しむ上でもできるだけ快適に過ごしたいものだ。本音を言えば。

食後のコーヒーと甘いもの、眠気

最近、やけにコーヒーが飲みたくなる。食後に同じ店でコーヒーを頼むのではなく、店を変えて(ドトールとかそういうタイプの)コーヒーを頼んでしまう。同時に甘いものがあれば頼んでしまうこともあるし、頼まなかった場合はコーヒーを甘くしてしまったりする。たぶんこのことから考えるに私は食事のすぐ後におやつが食べたいのだと思う。


他の家の事情がわからないのだが、よく考えてみると我が家では食後すぐにおやつを食べるのが通例だった。たぶん今でも同じだとは思う。食後すぐコーヒーを入れて、お菓子を食べて、だらだらテレビなどを見るのは休日の昼間のルーティーンワークと言っても差し支えないだろう。
だからこそ、外にいても同じように体がおやつを欲してしまっているのだろう。ついでに昼ごはんの後は眠くなるから、コーヒーでも飲んでおこう、となるわけだ。

 

しかしながら私は(摂りすぎなのか)カフェインを取っても利尿作用ばかりが発揮されてしまい、眠気はあまり解消されない。これは困ったと一時期1リットルペットボトルのコーヒーを飲んでいたりしたが、確かに眼はさめるものの、これは例えば長距離運転のお供などではトイレに行きにくいためなかなか使える場面を選ぶと言うことがわかった。自分で運転しているときはなおさらである。結局眠くなったら諦めて途中で止めて、仮眠をするのがいいという結論に至ったわけだが、首都高速から関越や東北道へ抜けるまでなかなか止まれる場所がない問題へとぶち当たることになったのは、また別の話だ。

 

とはいえ、こうしてコーヒーブレークが取れるようになったのも、気持ちの余裕故のことであるわけであろう。昼ごはんを控えればデザートを食べ、目一杯昼ごはんを食べてもコーヒーを甘くして飲むのだから、あまりやりすぎると糖尿になりそうで怖いので、まあこのマイブームが去ったらば程々にしておこう、と抑制するつもりがあるのかないのかわからないような宣言で終わりとしたい。

俳句など詠んでみる


 蛍火を 掬ひて恋の 邪魔をする

 これは、石川県の辻本直子さんという方の俳句だ。伊藤園が主催する「第二十八回 お~いお茶新俳句大賞」の都道府県賞の入賞作品であり、実際に販売されているお茶のラベルにも掲載されている作品だ。
 私がこれを知ったのが知り合いのTwitterアカウントで、実にいい句だなぁという思いと、そういえば俳句を詠んだことはなかったなとの思い付きで、ついつい真似をしながら創作をするに至ったので、その記録として掲載したいと思ってこんな記事を作ったわけである。
 以下、延々と拙作とコメントが続くので、暇な方は読んでいってほしい。
 なお、ほとんどの作品は上記の知り合いの質問箱に匿名で投下したものであるので、ここに掲載することで「詠み人知らず」ではなくなってしまうわけだが、まあ、このブログはどこのSNSアカウントにも公開されていないので、もし何かの縁でここへたどり着くことがあれば、素直にうれしい限りである。


 蛍火を 掬いて恋の 色を知る

 とりあえず、言葉を選んで違うものに置き換えてみた。「邪魔をする」の茶目っ気やいたずら心、嫉妬心などの遊びを抜いて普通の作品になってしまった感は否めない。

 蛍火を 掬いて恋の 痛み知る

 一文字変えるだけでもなかなかに印象は変わるものだ。「色」よりも「痛み」の方がわかりやすいかもしれない。
 元作品に比べれば遊びが足りないというか、いかにもな印象なので、このあたりでオマージュではなく「蛍」「蛍火」に絞って創作をしてみた。

 とまあこんな勢いでついついたくさん詠んでしまったわけなので、以下雑多に掲載する。
 
 蛍火の いとか細きは 生命かな

 蛍火の 照らす貴女の 火照り顔

 夕まぐれ ひとつまたたく 蛍火よ

 あけぼのに 消ゆる蛍火 夢のあと

 秋雨に 忘れがたきは 蛍かな

 蛍火が 揺れて薄らぐ 暑さかな

 水簾に 蛍飛び込む 夏の夜

 釣鐘に 蛍袋が 首垂れる

 新月や 蛍の死骸 踏みつける

 川面に さざ波立ちて 蛍散る

 朝露に 忘れ形見の 蛍かな

 蛍火の 揺れて消ゆるは 流れ星


 青嵐 通り過ぎ行く 花唇かな

 艶やかに 燃ゆる彼岸の 曼珠沙華

 故郷の 鯖味噌色の 夕日かな


 詠んでみて思ったのは、俳句を詠むこともまた列記とした文学表現であるということだ。この限られた文字数で、いかに表現するか。
 なかなかに面白いので、きっとしばらく個人的に俳句創作は続くのでないかと思っている。
 いつかまた、どこかに晒せる日が来れば良いが、まあ、それはおいおい機会があれば、くらいにとどめておきたい。

 ちなみに個人的に一番気に入ってるのは、鯖味噌の句である。

笹の葉と短冊と願い事の話

昨日、花束にしてはやけに細長い束を持っている人が歩いているのを見かけた。一人ではなくて、数名いるのを見て、私はそこでようやく合点がいった。
皆、七夕飾り用の笹を買ってきた帰りなのだ。

7月7日と言えばご存じ、七夕の日である。短冊に願い事を書いて、それを笹の葉に吊るす。どうやらそれで願いが叶うらしい。いわゆる七夕伝説という奴は幼い頃から誰でも多少の違いこそあれ同じものを聞かされている事だろうから割愛するが、まあ一年に一度だけ会える≒願いが叶う、くらいのものであろう(と、言うのも七夕の説話自体をまともに読み解いてしまうとそのあたりの眼掛けをする意味合いが微妙にずれて来てしまうような気がするため、深く考えないようにしているのだ)。

まあなんというか私自身、願いが叶うかどうかを信じる信じないという事は特に焦点にしておらず、むしろ公共の場つまり大勢の人の目に触れる場において記名にてあけすけな願い事をしたためて晒すと言う行為に抵抗があったものと思われ、幼き頃の私がいったいどんな願い事を書いたのか全く覚えがない。
おそらくは「健康でいられますように」とか「平和でありますように」とかそんな無難無難アンド無難みたいなことを書いたのであろう。だから覚えていないのだ。素直に気になってるあの子と結ばれますようになどという事は書ける由もない(まあ学校などでは書く奴もいないだろうが)。書いたところで「小説家になれますように」くらいだろう。願ったところでどうにかなると言うわけではないのに、努力のいる所ほどすがりがちである。

「そう言う所だぞ」

という声が聞こえてきそうなものだ。全く。


とはいえ、物語の題材としては「七夕」というものは結構使いやすそうな題材であるので、昔の書きかけのアイデアが残っている文書フォルダを漁ると、七夕が題材になっているものが結構出てくるものである。眺めて見るととても面白い。やはり、イベント物は短編として取っつきやすいのだろう。だからこそ勢いだけで取っついて、そのまま放置されている。なぜわかるのかと言えば、今も昔も私の人間性そのものが変わっていないからであり、それだけのことだ。

その有象無象の中で一番長いもので言うと、三千文字くらい書いて挫折したものがあった。
病弱でずっと入院している女の子と、同年代の快活な感じの男の子と、勝気な感じの女の子の三人の幼なじみの話だ。中学生くらいになると男女の幼なじみというのは付き合い方が難しくどうも美味く行かないもので、この話も最初はそんな導入がされている。入院している女の子が短冊に書いた願い事を叶えるために、初めは一人で、次第に二人で協力して願いを叶えるために奮闘する……とまあ、綺麗に書きだしてみればこんな話である。
なんとなく結末をそうするかも覚えているので、改めて書きなおして完結させたいなあ、とは思っている。短冊に書くほどのことではないが、どうか心の片隅に置いておきたい願い事である。

 

旅館の朝ご飯

旅館の朝ご飯というものには、独特の趣がある。朝ご飯は(起きていれば)だいたい毎日は食べているものの、それほど量は食べていないが、旅館の朝ご飯ともなれば別で、ついついたくさん食べてしまう魅力がそこにはある。
旅館の夕飯の事を思い返してみよう。少々値は張るものの、せっかくだからと豪華絢爛で品数も多くボリュームもある素敵な食事が出てくる旅館へ行った場合、気づけばお腹一杯を通り越して苦しくなるまで食べてしまいがちな私だが、それでも朝食ともなれば不思議と空腹になりこれまた満腹になるまで食べられてしまう。そういうものである。ご飯とみそ汁、焼き魚、卵、漬物、ちょっとした煮物などが付いていたりするわけだが、それを余すことなく平らげて、御櫃を空にする勢いでご飯をお代わりし、卵か納豆でもあればそれだけで一杯平らげてしまうようなとんでもない勢いで、朝も八時前からもりもりと食べる。食べ終われば温かいお茶で一服し、温泉旅館であれば朝風呂と洒落込むかゆっくりするかを考える。まさに至福の時だ。
日常のあわただしい朝とは違い、ゆったりとした時が流れていると錯覚するせいなのかもしれないが、この「旅館の朝ご飯」の魅力に取りつかれているが故の事だと私は思っている。

 

先日も、静岡県松崎町にある雲見温泉という温泉街のとある旅館に宿泊した際は、御櫃が空になるまでご飯をお代わりをした。アジの干物や漬物、イカの沖漬なども去ることながら、「カメノテ」なるものの味噌汁がそれはそれは良い出汁となっていて、これもまたおかずの一品となっていたこともあり、ものすごい勢いでお代わりをしたのを覚えている。ちなみに「カメノテ」とは海岸の岩場にへばりついている亀の手のような形をしたフジツボの仲間なのだが、殻の部分が石灰質で出来ているため、さながら味噌汁に岩が入っているかのようだったので見た時は驚いた。見て驚き、一口すすって岩から出汁が出ているのかと二度驚き、良くみたらカメノテだったわけである。まあ後で調べたら岩のようになってる殻の部分は取り除くことが多いらしいので、こんな体験をする人はあまりいないだろうが、なかなかに衝撃的な体験だったわけである。

 

たかが旅館の朝ご飯ではあるが、それだけに侮れないものであることを再確認したのである。

釣り、未経験の呟き

何のご縁か、今度釣りに参加することになった。船を貸し切っての海釣りである。
私は釣りはやったことがなく、未経験のド素人もいいところだ。実のところ一度北海道のトマムの某ホテルの池で釣りの体験はしたことがあるのだが、池は小さくやっと1匹釣れた魚は瀕死というありさまであまり良い思い出もない。
さらに言えば、私はひどく乗り物酔いをするたちで、特に船は危険だ。大型のフェリーでもかなり危なく、小型の船ではそれはもう良い思い出の方が少ない体たらくだ。その昔沖縄の海でバナナボートにのって振り回された時でさえ、あまりの吐き気に死ぬかと思ったくらいだ。
そんな私が、海に小型の船で出て行って釣りをしようというのである。

間違いなく「やられる」だろう。

これは想像というよりかは確信だ。

しかしながら、船という点を覗けば、かなり楽しみでもある。
そもそも海辺の観光地に出かけることが好きなのだから、魚を食べる事は大好きだし、釣りをすること自体にはかなり興味がある。釣りそのものは興味があってもなかなか手を出しにくいジャンルであるから、こういった機会に手を出しておけば、いずれ違う場面でやりたくなった時に一度経験があると言うのはだいぶ違うだろう。
また、旅行先で美術館にはなかなか入らないが、観光の定番である地元の歴史的な博物館と同じくらいは水族館が好きな私にとって、海の生き物を見ること自体が好きな行為である。知らない魚も知っている魚も「食べられるかどうか」という観点で見てしまいがちな私にとって、釣って食べることのできるイベントはかなり魅力的ではある。それも釣り堀や水族館のような飼育されているものではなく、大自然の生きた魚たちである。釣ることができてなおかつ美味く言えば食べられると言うのだから、どう考えても最高であろう。

 

つまるところ、船に乗るという不安、釣り経験がないという不安、それを差し引けば……と言いたいところだが、あいにく船酔いからは逃れられなそうなので、船に乗っている4時間程をどう耐えるのかを考えながらその日を迎えたいと思っている。あるいは、酔ってしまった後、釣った魚を食べるところまで二全力で回復する努力、だろうか。

釣れなくても食べるのは全力で行きたい。

本当にいやしい人間だ。

早い梅雨明け

関東では梅雨が明けてしまった。
昨年よりも7日早く、例年より22日も早いとのことだ。まだ6月というのに、もう夏が来てしまったのだ。
6月と言えば、梅雨真っ盛りで毎日雨、たまに晴れたと思ったら夜は雨……なんで日が続いて、毎日毎日傘をさして出かけて、濡れた靴が乾かなくて古い靴を出してみたり、そんな日々が続いて行くものだと思っていた。それがまあ、天気予報を見ているあたりから薄々気がついてはいたがとうとう発表されてしまったのだ。

 

梅雨明け。

 

7月にもなっていないというのに、梅雨明けとは驚きだ。
だいたい7月に入った所でなかなか明けないのが梅雨というもので、小学校くらいの思い出では夏休みに入る下旬頃にようやく梅雨明けが来るものだと思っていたし実際そうだった。いつだったか梅雨明けのなかった年もあったが、そういう例外をまた今年起こしてしまったわけである。

 

春でもない、夏でもない、そんな梅雨が終わってしまった。あっけなかった。
梅雨は着る服に困るものだ。たまに晴れれば夏の先取りのような暑さを見せるが、夜はまだまだ涼しく、雨でも降ろうものなら寒ささえ感じることもあろう。
6月で梅雨が明けた場合は一体どうなるのだろうか。しばらくは夜は涼しくなるのだろうか。既に熱帯夜を観測した日もあるというから、もうすっかり夏のようになるのだろうか。私はもう長袖は仕舞い込んで半袖の用意は出来ているが、さすがにまだ半袖のシャツを1枚だけ着るということは出来ていなかったが、もうこの陽気ならば一番暑い時の格好にせざるを得ないだろう。
温泉の季節というよりは、海やプールの季節になったわけだ。

 

もっとも、私は夏だろうとなんだろうと温泉は好きなので入るだろう。
プールの更衣室や海水浴のシャワールームはあまり好きではないのだ。だからリゾートのような、プールや海から直接ホテルなどに帰って来られる、そんな素敵な場所に行きたいものである。いいじゃないか、バカンスのようで。

もうすっかり夏の日差しに当てられてしまって、気持ちはバカンスの事ばかり考えたくなるが、まだまだ6月末なのである。

 

熱された気持ちに水を差すようで嫌だが、もうしばらく夏を忘れて過ごさなければならない。

 

6月は昼が長い

 

このところ、昼が長いと感じることが多くなった。それもそのはず、一年で1番日の長い夏至が過ぎたばかりで、日の出ている時間が長いのも当たり前と言えよう。
19時と言えばイメージからして暗い夜のような感じがするが、この季節はまだまだ明るくてなるほど面白い。あまり遅くなった気がせず、なんだか得をしてるような気さえする。
冬の夜は早い。18時にもなれば真っ暗で、早く家に帰って休みたいと思ってしまう。旅行中は特に景色が見えなくなるという事もあって、早めに宿に到着するようにしている。
夜がなかなか来ないというのは、ちょっと得をしている感覚を含めて妙に嬉しいものである。

 

反面、夜景の撮影に付き合った時などは、結局20時頃になっても水平線のあたりが薄く明るく、この時ばかりは閉口せざるを得なかった。日が長いのは良いことは多いが、夜景がなかなか撮れないのはやや面倒くささを感じざるを得ないという話はあまりに現金だが、結局21時過ぎまで真っ暗な山頂展望台で粘ったのだから許して欲しい。
夜景を見るのは好きだし、暮れる間際のあの群青色の空の色はもっと好きだ。色が移り変わって、だんだん深くなって、やがて完全に暗くなり夜になる。星がだんだんとはっきりと見え出して、やがて星座までわかるようになる。その瞬間をゆっくりと山頂で眺めていられるのは幸せなことだ。
一瞬、そういう現金なことを思ってしまった事を許して欲しい。感情も一枚岩ではないのだ。

 

ところがまあ、雨が降るとこうは行かない。
梅雨の時期の宿命だ。雨が降っていては日の長さはあまり関係なく、曇っている分はやく日暮れになるような感覚さえある。
少しでもこの恩恵を受けられれば、と思っているうちに暑い暑い夏がやってくるのである。

夏と来れば話は別で、あまりの暑さに早く涼しい夜が来てくれと願うことになるのは目に見えている。そして熱帯夜に苦しみながら、どうしてこうも季節というのは極端なのかと思いながら、眠りにつくのだ。