言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

笹の葉と短冊と願い事の話

昨日、花束にしてはやけに細長い束を持っている人が歩いているのを見かけた。一人ではなくて、数名いるのを見て、私はそこでようやく合点がいった。
皆、七夕飾り用の笹を買ってきた帰りなのだ。

7月7日と言えばご存じ、七夕の日である。短冊に願い事を書いて、それを笹の葉に吊るす。どうやらそれで願いが叶うらしい。いわゆる七夕伝説という奴は幼い頃から誰でも多少の違いこそあれ同じものを聞かされている事だろうから割愛するが、まあ一年に一度だけ会える≒願いが叶う、くらいのものであろう(と、言うのも七夕の説話自体をまともに読み解いてしまうとそのあたりの眼掛けをする意味合いが微妙にずれて来てしまうような気がするため、深く考えないようにしているのだ)。

まあなんというか私自身、願いが叶うかどうかを信じる信じないという事は特に焦点にしておらず、むしろ公共の場つまり大勢の人の目に触れる場において記名にてあけすけな願い事をしたためて晒すと言う行為に抵抗があったものと思われ、幼き頃の私がいったいどんな願い事を書いたのか全く覚えがない。
おそらくは「健康でいられますように」とか「平和でありますように」とかそんな無難無難アンド無難みたいなことを書いたのであろう。だから覚えていないのだ。素直に気になってるあの子と結ばれますようになどという事は書ける由もない(まあ学校などでは書く奴もいないだろうが)。書いたところで「小説家になれますように」くらいだろう。願ったところでどうにかなると言うわけではないのに、努力のいる所ほどすがりがちである。

「そう言う所だぞ」

という声が聞こえてきそうなものだ。全く。


とはいえ、物語の題材としては「七夕」というものは結構使いやすそうな題材であるので、昔の書きかけのアイデアが残っている文書フォルダを漁ると、七夕が題材になっているものが結構出てくるものである。眺めて見るととても面白い。やはり、イベント物は短編として取っつきやすいのだろう。だからこそ勢いだけで取っついて、そのまま放置されている。なぜわかるのかと言えば、今も昔も私の人間性そのものが変わっていないからであり、それだけのことだ。

その有象無象の中で一番長いもので言うと、三千文字くらい書いて挫折したものがあった。
病弱でずっと入院している女の子と、同年代の快活な感じの男の子と、勝気な感じの女の子の三人の幼なじみの話だ。中学生くらいになると男女の幼なじみというのは付き合い方が難しくどうも美味く行かないもので、この話も最初はそんな導入がされている。入院している女の子が短冊に書いた願い事を叶えるために、初めは一人で、次第に二人で協力して願いを叶えるために奮闘する……とまあ、綺麗に書きだしてみればこんな話である。
なんとなく結末をそうするかも覚えているので、改めて書きなおして完結させたいなあ、とは思っている。短冊に書くほどのことではないが、どうか心の片隅に置いておきたい願い事である。