言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

日の長さ

梅雨入りしてしまったので実感が薄いが、このところはだいぶ日が長くなった。
普段19時くらいに仕事が終わることが多いのだけれど、それくらいの時間でもまだ薄ら明るいことがあって変な感じがする。やっぱりなんというか、仕事終わりというのは真っ暗になっているというイメージが強いので、このくらいの時期の明るさというのはなかなか時間とのイメージにギャップがあるように感じてしまう。なんだか早く帰っているのではないかと思っても時計を見ると普通に19時を過ぎているので安心する。……いやまあ嬉しくはないのだけれど、暗いよりは明るい方が好きである。

ふと気が付いて外を見たときに真っ暗だ、という状況は結構やる気に影響する。さっきまで明るかったのにもうこんな時間になってしまったのかという焦燥感は、時計から読み取る時刻情報以上に影響があるものだ。まあもっとも、「さっきまで明るかったのに」という状況がなせるものであるため、暗くなってからしばらく経つとあんまり気にならなくなったりもする。気にならなくなるというか、諦めているとも言う。ここまで来てしまったらもうどうにもならんという、そんな感じ。
わけわからないくらい忙しかった時は、日のあるうちは前日までの課題をなんとか対応して、日がくれたらようやく当日分の業務に入る……みたいなことをしていた時があったけれど、日の沈み具合によって時間感覚を維持していたようなところはあったかもしれない。昼ご飯の時間(だいたいいつも13時から)と、22時を過ぎるといつも使っていた改札が使えなくなる(通路が閉鎖される)のでその時だけは時計の時間をはっきりと意識していたが、それ以外は外が暗くなったことによって「日中帯が終わったな」と認識していた。
まあPCの右下の時刻は常に視界に入っているわけで無意識にも時刻は確認しているんだろうけれど、意識的に見ているのは窓の向こうの空の色だということである。

そういうわけで、窓のない部屋に押し込められるとそのあたりの感覚というのは確実に狂っていく。半年強そういう場所で働いた時期があった(というかテレワーク前の部屋は窓がない部屋で、今でもそこのPCにアクセスしている)わけだが、なかなか気持ち的な意味での時間の把握というのは難しいものがった。
おまけに、職場から駅まで直結という素敵な職場だったので、外が一体どうなっているのかということを意識せずに生活できてしまう、そんな場所だった。6月あたりにその職場にいたことがないので正直わ辛いところはあるが、さすがに職場から1時間かけて家に帰るべく最寄り駅を出るような時間には日が暮れているだろう。
20時過ぎに明るさを感じる場所というのは、夜景を見に来た時の山の頂上や、飛行機の上から見る雲の上の景色くらいのものである。これくらいの時期に山の上に夜景を見に行ったことがあるけれど、いつまでたっても薄ら明るかった。タイムラプス撮影でもして置けば面白いかと思ったが、3分くらいで手が疲れて辞めた。じっと見ていると思っていたよりもずっと日が暮れる速度というのは遅いものだなと、そんなことを思ったものだ。
私はあの日が暮れた後に残っている明かりが、空を群青色に染め上げているところを見るのは好きだ。だんだん色が濃くなっていって、いつの間にか反対側を見るとすっかり夜になっている。そうしているうちに空も街も全部夜景に変わっていく。

いつもあんなに「気が付いたら暗くなっている」くらいに思っていたけれど、実のところはゆっくりと動いているわけである。


しかしまあ冒頭にも書いたが、梅雨に入ってしまったのでそのあたりの実感というのはちょっと薄くなりつつあるのが惜しいところである。雨が強く降っているとすぐに暗くなってしまうように感じる。実際は雲から透ける明りでわかるわけだけれど、そもそも全体的に薄暗い日ばっかりが続くので日が長いかどうかよりも雨かどうかということに意識が行ってしまうわけである。

昨日みたいに朝起きて晴れ間が広がっているとそれだけでちょっと嬉しいのだけれど、梅雨だしそう続かないんだろうな。わかっているけれど。