言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

視力検査


視力検査ってどこまで「見えて」いれば見えると言ってしまっていいんだろう。

私は視力が悪い。小学校の高学年くらいで目が悪くなってきたので眼鏡を作り、しばらくは授業中だけ眼鏡をかけてそれ以外では裸眼で過ごすような生活をしていた。運動中に眼鏡をするのはあまり好きではなかったのと、たとえばPCなんかを見るときに眼鏡をかけてじっと見ていると頭が痛くなるというようなこともあって、常用していなかった。
この常用していなかった期間というのは結構長くて、高校生くらいまでは裸眼で過ごす時間の方が長かったように思える。

視力がないと出来ないものは結構ある。できない、というのは資格が貰えないという意味でのことだ。例えば運転免許証はメガネやコンタクトレンズで矯正しないと取得できないし、わざわざ「眼鏡等」と指定されるくらいだ。どうせ今となっては常に眼鏡を掛けているので関係ないけれど、うっかり忘れてしまったり壊してしまったりした時は、免許云々以前に怖くて運転できないと思う。慣れ親しんだ道を駅から家まで歩いて帰る時とは訳が違うから。
面白い例だと競馬の騎手なんかは矯正視力ではなく裸眼の視力が募集要項に書かれている。乗馬中は眼鏡は出来なさそうだけれど、コンタクトレンズくらいは出来そうなものだけど、どうなんだろう。良くわからない。

できない、ではなくてやりにくいもの、となるとそれこそたくさん出てくるだろう。スポーツ、特に球技なんかは顕著である。見えないとどうにもならない。走る時とかに眼鏡は邪魔だけれど、見えないと上手くプレーできない。最近フットサルをやった時にそのジレンマにぶち当たった。接触のある競技では眼鏡をしていると普通に危なかったりするのだけれど、見えないと全く戦力にもならない。

コンタクトレンズを付ければいいんじゃないか、という声もありそうだが、私の場合、コンタクトレンズは大の苦手なので出来れば付けずに一生を過ごしたいと思っていさえいる。作ろうとしたことはある。だけれども、付け外し以前に指で目に触れるということが全く出来なかったこともあって、その話はなくなった。両目つけるのに2時間、外すのに1時間。これじゃダメだと、コンタクトレンズ屋も何も言わなかった。

 


だからこそ裸眼の時間が結構長かったのだ。
ある程度「見えない」という状況に慣れてしまっていることもあって、なんとなくで類推したりしてしまうようなケースがあるのだ。

視力検査がまさにそれだ。見えないのだけれど、なんとなくわかる。「C」のように一か所欠けていてくれるので、本当にわずかだけれども「薄いな」と思ったところが正解だ。だからひらがなを読ませるタイプの視力検査は苦手である。「ぬ」と「め」の違いが本当にわからないしなんなら「の」かもしれないと思うともうキリがないからだ。視力を計るならたぶんそっちの方が適当だ。「C」は円に見える物、あるいはもう小さくて点にしか見えないものの、どこか一部が欠けているだけならばなんとなくでもわかるし、最悪25%の確率であてずっぽうでも正解してしまうから。

まあ本当はそんなところで類推したって何の意味もないわけである。何のための視力検査なのかという話である。