言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

松のやを見つけた話

松屋の系列に松のやという、トンカツを扱う店がある。この間、久しぶりにその看板を見つけて中に入った。

そういえば、昔は「松のや」じゃなくて「松乃屋」じゃなかったか? と思って調べてみたら、どうも古い店舗は漢字表記で、新しい店舗はひらがな表記らしい。看板の表記のもんだのようで、別に中身は変わらないようだ。ちょくちょく道すがらで見かけることはあって、最近全然行けていなかったので、丁度良く店を見つけて非常に嬉しい限りである。

550円でロースかつ定食やかつ丼が食べられるので、一時期結構通っていた時があったな、と思い返してみたけれど、よくよく考えてみると高校3年の受験期のことだったのでそんなに前のことだったかと驚いている。

ずいぶん懐かしい話だ。

受験期直前の冬と言えば学校の授業もなく、毎日予備校に行って講習を受けたりなければ自習室にこもったりするような日々が続いていた。楽しみと言えば昼食である。松乃屋にはずいぶんお世話になった。

当時の値段はいまいち覚えていないが、今でもある「親子ささみかつ丼」というやつが当時は一番安く(500円だったか、もう少し安かったか)、それとロースかつ定食ばかりを食べていた記憶がある。「親子」なので卵と豚肉じゃなくて鶏肉になるのだけれど、これが案外美味いのだ。しかも豚よりも量が多い。学生にはぴったりのものだ。

500円くらいだったとはいえ、かつ丼やとんかつを食べているとなんとなく悪いことをしているような、贅沢をしているような気持になった。一人で外食をするということも普段あまりなかったし、ちょっと特別な時間だったことは間違いない。

懐かしい気分のまま、今日は昔のように親子ささみかつ丼を食べた。たぶんこんな味だった。途中から七味をかけると味が少し変わっていいんだよな。相変わらず漬物とかはないんだよな。でも松屋と同じような味噌汁が付いてくるからそれはそれでいいんだよな。

昔から2枚乗せだったかな、とかいろいろ考えつつ、かなりお腹いっぱいになった。普通のかつ丼よりもボリュームがあって、今だったらもっと少なくていいかな、と思ってしまった。

食べ盛りはもう終わっているのだ。当たり前のことなんだけれど、ちょっとだけさみしくも思う。

調べてみたら昔よく行っていた店舗はもう閉店しているらしい。というかそのあたりはもう、今訪れるとすっかり様子が変わっていて、最近は行くたびにあれが無くなってあれができて、と驚くことばかりだ。

変わるものと変わらないものと、いや、変わっているけれど変わっていないと思っているものかもしれないものと。

頭痛の原因

昨日、朝起きたら頭が痛かった。起きたら、というか、まどろんでいるときから「あ、なんかこれ頭痛いな」とうっすら気が付いて、それから起き上がって「あ、ダメだ、頭痛い」となったような感じである。

思い当たる節はそれはもういくつもあった。

そもそもその前日は飲み会だった。まあまあの量を飲んで帰ったので、そうするとこの頭痛は二日酔いだろうかと。でもよくよく思い返してもいつもより量が多かったかといえば、そんなこともないような気がしていて、確かに途中で頼んだ赤ワインは量が多かったけれどもそれくらいで、あとはそんな量でもないと思われる。体調も別に悪くなかったと思うし(花粉症くらい)、飲みすぎて二日酔いになるほどか? というところはある。

とすると、寝不足だろうか。飲み会から帰ってきて、それから翌日が歯医者であることを思い出して長々と歯磨きをしたり、ゆっくり風呂に入ってしまったりして、寝るのがずいぶん遅くなった。たぶん2時とかだと思う。寝るのが遅くなると翌日気分が悪くなったりするけれど、今回もそういうたぐいのものなのだろうか。でもまあ、翌朝起きたら9時とかだったし、何なら二度寝したりして10時くらいまでまともに起きられなかったので、7,8時間くらい寝ているのか。それならまあ寝不足ではないか。

とするとあれだろうか、寝すぎによる頭痛だろうか。休日はうっかりすると寝すぎてしまい、朝遅くに起きたときにはズキズキと頭が痛いなんてことは良くある話だ。寝すぎて、というよりは、2度寝をして、という時ほどよく起こる印象である。睡眠時間はそこそこでも、明るくなってまだ寝ているとよく起こる気がする。それで頭が痛いからまだ目をつむっていよう、とかするとまた寝てしまってさらに頭が痛くなる悪循環を生んだりする。ダメだこりゃ。

不思議なもので寝すぎによる頭痛のはずなんだけれど、それは寝ている時間の長さよりも、明るい時間に二度寝している時の方がよりなりやすい気がしている。だから、2時に寝ても9時とか10時までダラダラ寝ていると痛みを覚えるようになるのかもしれない。全く医学てな根拠とかは調べていないけれど、体感的にはそんな感じ。

とするとまあ二度寝が一番の原因で、あとは途中まで二日酔いだった可能性が若干ある、そんな感じだろうか。

 


そんなわけで頭痛に悩まされた日曜日。昼に歯医者に行った以外は基本的にダラダラしていた。ダラダラして、そのまま昼寝してしまった。だって頭痛い時に長い時間画面を見たりできないし。夜になって夕飯を食べる頃には治ったけれども、一日棒に振ってしまった感じは強くて残念だ。

原因がこれ! とわかれば対処できるのかもしれないけれど、こうもいろいろ心当たりがあるとどうしようもないよな、と思ったり。頭痛がするときは大抵お腹が空かない、というか若干吐き気があったりするので、それも困ることの一つである。昼に歯医者に行く用事があったので変にお腹が空かなくて良かったのだけれど、別に吐き気なんかいらないよね。

繊細というか過敏というか、どうも難しい。

 

アサリの食べ方

ボンゴレのアサリを食べるタイミングって難しい。難しくない?

いやそもそもとして貝を食べるハードルって高い。家ではめったに食べないし、食べてもインスタントみそ汁のそれ。そう味噌汁なら案外食べてるんだよね。とんかつ和光のランチセットは味噌汁の具がしじみだし、お替り無料だからついつい頼んじゃうんだよね。今は職場の近くにないけれど、近くにあった時はキャベツのお替りとみそ汁のお替りはよくしてたな、なんて。

いやまあ味噌汁はいいんだ。箸で食べるから。箸で貝殻をつかめば自然に身の部分を食べることができる。味噌汁の具の貝は出汁だから食べない流派もあるようだけれど、私は食べちゃうね。食べ物だから。シジミでもアサリでもハマグリでもお構いなしに入っている物はせっせと食べる。貝殻と箸はちゃんとうまくできている。

問題はボンゴレ。フォークと、あとはあってもスプーンやナイフくらいなわけで、これってみんなどうやってアサリを食べているんだろう?フォークは貝殻には刺さらないので、何だろう、ナイフで支えて貝を開いて(抑えて?)フォークで食べればいいのかな。抑えるだけならスプーンでもいいのか? 

よくわからない。一人の時なら諦めて手で取って食べてしまえばいいんだけれど、それ以外の時はもうハナから頼まないという選択をしなければならないのだろうか。

適当にググってみたけれど、「フィンガーボールがあれば手を使っても良い」とか、特にそういったことには言及せず左手で抑えて右のフォークで取りましょう、というような回答が出てきた。時と場合によっては手を使って抑えてよい、ということなのだろう。

出てきたサイトをいくつか見て判断しようかと思ったけれど、検索結果の中にボンゴレのアサリの食べ方を示すページが意外と少なかった。検索ワードが良くないのだろうか?

同じ理由で、エビもどうあって食べたらいいのかわらない時があることに思い至った。剥きエビではなく、殻つきのままの場合、どうやってうまく食べたらいいのかよくわからない。これはさすがに手で剥いて食べるしかないんだろうな、と思ってググってみたら、ナイフとフォークで丁寧に切り分ける手順が出てきた。パッと内容を見てもよくわからなかったので、ぜひ手順を見ながら試したいところだけれど、まあそんな機会がめったにないわな、と。そう思うわけである。

そんなことを思っていると例えば結婚披露宴の料理の中に出てきたりして、困るんだろうなとは思うんだけれど、そういうときでもないと殻付きのエビが入った料理を食べるようなこともないしね。

そういえば基本的に洋食やイタリアン、フレンチなんかの話として考えていたけれど、和食にも殻付きのエビが出ることはある。貝類と違ってエビは箸でも確かに持て余す。懐紙が用意されているならばそれを使って(覆って)頭を取るようにするとか、これまたいろいろマナーがあるらしい。

ちなみに和食の場合もフィンガーボールが用意されることがある。和食以外なら手を使って食べてもいい合図なんだろうということだけれど、和食はダメらしい。難しい。

 

飛梅


家から最寄り駅までの間に、1箇所だけ梅の木がある庭がある。庭木の梅は公園にあるそれとは違って、道路にはみ出さないように剪定されている、こじんまりとした枝付きのものだ。
今朝、ふと顔を上げてみたらその梅が満開であることに気が付いた。早咲きの梅もあるけれど、普段そこの家の梅は2月の中旬とか、後半あたりに咲いていたような記憶がある。花粉がもっと飛び始めてから、というイメージが強いからだろうか、もう満開なんだな、という驚きが大きい。
暖かい日が続いたり、けれども今日のように風強い寒い日になってみたりとせわしない気候の中で、季節を感じられるものに巡り合えるというのはとても嬉しいものである。
もっとも、ひどい花粉症である私の場合は梅の季節の訪れは花粉の季節の訪れであり、いよいよ耳鼻科に行って薬を貰ったり(既にそうだけれど)マスクで完全防備したりする季節の始まりということである。梅の咲くころに始まって、桜が咲き終えて若葉が芽生えようとする頃に終わる。山桜が咲くころがちょうど花粉が終わりそうな頃だろうか。悲しいかな、苦手な季節である。

梅の木の植えられた庭のある家なのだけれど、去年の終わりころからだろうか、その家は「空き家」「売地」の看板が掛けられている。以前の住人が引っ越したのか、あるいは亡くなったのかなどの事情は分からないけれども、もう数か月の間その家は空き家のままである。
誰かが手入れをしているのか、今のところ庭はきれいなままである。梅の他にも沈丁花金木犀あとは自生しているのかもしれないけれどオシロイバナなんかが咲いているのをよく見る、素敵な庭である。
家から駅の間で必ず通る道で、その家の前の道は少し狭くなっているからかよく目に入るのだけれど、冬の朝なんかは寒くて駅まで急いでいたりしてついつい目を向ける余裕がなかったりなんかして。それでもふとした時に満開の梅花だったり、沈丁花だったり、他にもいろいろ咲いていたりするのが目に入ったりして。無意識に眺めている日常風景の一部であるということに間違いないものなのである。

売地ということは、だれか別の人のものにいずれなっていくのだろう。家の築年数はかなりのものに見えるので、もしかしたら更地にして何か建て替えたりするかもしれない。その時に庭がどうなるかというのは次の家主のみぞ知ることだ。最近はこういう駅に近い好立地は一度駐車場になったりすることが多いし、そうしたら庭は無くなるだろう。
そう考えると、梅の花が咲き誇る様子を見られるのもあとわずかかもしれないのだ

「東風吹かばにほひをこせよ梅の花  主なしとて春を忘るな」

菅原道真が京を追われ、大宰府に左遷される前に家の庭にある梅の木を見て詠んだとされるものだ。菅原道真大宰府で亡くなっているので、この梅の木を二度と目にすることはできなかった。
その代わりにというわけではないだろうけれど、今でも太宰府天満宮には樹齢1000年を超える梅の木が本殿向かって右側に残されている。

まだまだ寒いけれども、きっともうすぐ、春が始まる。

牛カツ

この間、昼に牛カツを食べに行った。昼休みの時間を使って食べに行くには、ぎりぎりの距離ところに牛カツの店があって、今まで行ったことがなかったんだけれどなんかちょうどうまく入れそうだったので、入ってみることにしたわけだ。

よく考えてみると牛カツという食べ物はたぶん食べたことがなかった。あったかもしれないけれどそれは何か別の、お弁当とかに一緒にちょっとだけ入っているとかそういう類のもので「牛カツの店」に入るのは初めてだった。

味の想像はなんとなくしていた。衣の付き方はたぶんトンカツみたいな感じだろう。でも写真を見ると断面は赤い。なるほど牛だからか。豚と違って牛なら赤くても食べられる。そうすると、レアに焼いた肉の味に衣が付いた感じなのか? というそんな想像である。

今までなぜ食べたことがなかったかと言えば、純粋に機会がなかったからとしか言いようがない。今の職場(オフィス)に移動してくる以前にも、近隣に牛カツの店があったのだが、有名店らしく常に行列ができていた。13時台でも細い路地にずらりと人が並んで待っているのが印象的で、というかそのイメージが強すぎて、昼休みに並んで食べるのにはちょっと厳しいかな、と思って結局1度も行かなかったのだ。

なんでもそうだけれど、タイミングというのは重要である。たまたま今回は牛カツに店があることを知って、しかも並んではいたけれど回転している感じだったのでうまく入ることができたけれど、結構それって偶然だったりするわけで。いつも行くお店ではなくて新しくいくお店に入るタイミングってそんな風に偶然ばかりだ。

値段が高くて驚いたけれど、たまにはいいかと注文して10分くらいだろうか。案外早く牛カツは提供された。

食べてみたら思いのほかトンカツだった。牛カツにトンカツと言うのは失礼かもしれないけれど、思っていたより赤身感が薄くて、癖がなくて食べやすかった。牛だから脂の入り方がちょっと違うかな、というくらいで違和感なく食べられた。とても美味しかった。

いろいろ味付けが選べたのだけれど、案外出汁醤油とわさびで食べるのがおいしかった。トンカツでなじみのあるソースももちろんおいしかったし、あとは山椒塩みたいなものも案外おいしかった。和風の出汁で伸ばしてあるカレーソースみたいなものを付けて食べた時は「あまりにカツカレーだ」というかなり頭の悪い発言をしてしまったが、許してほしい。カレーって強い。

ああでもないこうでもないといろいろ試せるように牛カツはかなり細く切られており、それはそれで面白かった。思ったより脂っぽくなかったし(わさび醤油のおかげかもしれないが)、牛カツっておいしいものなんだな、と思うことができた。

ただまあ値段はそれなりにしたのでたまに見つけたら入るって感じだろうな、とは思うけれど。

まだまだ知らないだけで入ったことのない店や食べたことのない種類のものがあるけれど、次はどんな機会に入ることになるんだろうな。

 

恵方巻と寿司

 

恵方巻というか、太巻きが好きだ。だからこの季節になると、恵方巻のお試しとして売られているような太巻きたちがいろいろ並んでいて、それが結構嬉しかったりする。
そうは言うものの、今年はまだ全然太巻きを食べていない。コンビニが近くにないからとかそういうこともあるけれど、なんというか節分がもうすぐそこまで来ているという実感が全くなくて、季節に全然乗り切れていないようなところがあるのかもしれない。
恵方巻のキャンペーンだとか、そういうのが目につかなくなった。目に付くようなところに行っていないのか、風景が日常化してしまったか。

太巻きに限らず、巻物というのはなんとなく普段はあまり食べないものになっている気がする。例えば回転寿司に行って巻物の類をどれくらい頼むだろうか。考えてみればここ最近はほとんど頼んでいない。鉄火巻きなんかは普通に握りずしを食べるよりも案外いい部位を使っていたり量が多かったりでコスパがいい店があるので以前はたまに頼んでいたけれど、今はそこまで量を追い求めなくなったからか頼まなくなった。立ち食い寿司でたまに巻物を食べるとしても、それはランチセットの最後に出てくるものくらいだ。頼んで食べていない。
でもまあ、海苔で巻いたもの自体は食べているんだよな。軍艦巻きがそう。いくら(最近ちょっと控えているけれど)とか、あとは北陸系の寿司ならホタルイカの類(沖漬けとかボイルとか)なんかはよく食べる。だから別に海苔が嫌いだとかそんなことではない。
なんでかわからないけれど、海苔巻きは主役ではないのだ。そういう意識があるから、握りを頼むよりもボリュームのありそうに見える巻物はなおのこと選ばれない。セットに入っていれば食べるし、たまに食べるかんぴょう巻きとかなんか安心する味がして好きだけれど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ最後にないか食べたいという時に頼むのには量が多すぎるのかもしれない。手巻きの1本のやつ(手で持つように渡してくれるのとか)そういうのならきっといいのかもしれないけれど、なんというかそこまでやってくれる店ならそこそこ値が張るわけで、なかなか巻物に意識が行かないのが正しいところである。

だからこそ恵方巻というのは貴重な機会だ。普段わき役だの量が多いだの思っている巻物が主役になるわけだから。別に年に1度じゃなくて年中恵方巻に類するものは食べたいと思っているけれど、この時期じゃないと食指がなかなか伸びないというのもあって、本当はもったいないことをしているのかもしれないな、とこの時期になると思うわけである。なんでか。

髪を切りに行った時に読んだ雑誌がdancyuで、1冊丸ごと寿司特集だったのだけれど、いわゆる「町中のお寿司屋さん」みたいなところの特集で、たいていどこの店も「締めに巻物」というようなことが書いてあるのが印象的だった。町のお寿司屋さんというのは確かによく目にするが、しかしながら敷居が高い印象も同時にある。dancyu曰く庶民的で入りやすい町中の気軽なお寿司屋さんだとのことだけれど、ランチ利用以外ではそういう店に入ったことがない。
しかしまあ、憧れはある。
店に入って、お酒(日本酒なのか?)となにか刺身を出してもらって、途中から握ってもらう。最初は白身がいいんだっけ? そんで貝とか小肌とかを挟みつつ光物に移って、あとはだんだん脂のあるものを食べて。dancyu曰く(くどい)軍艦巻きは海苔の風味が強いのでできるだけ最後のほうに頼んだりして、あとは穴子のような煮きりを載せたものも最後のほうだとか。
それで最後に「締め」の巻物を頼むわけだ。今の今まで発想がなかったのだけれど、かんぴょう巻きにワサビを多めに入れて食べると最後に美味しいんだってね。知らなかったよ。あと、いろいろ飲んで食べて、と言っても、1カンずつ出してもらうわけだから、それなら最後に巻物を食べたくなる気持ちもわかる気がする。根本的に食べ方が違うんだろうね。
ただまあ、気軽に楽しめるといってもそれなりのお値段はするわけで(7千円~)、まあ高級寿司のような時価の世界からすれば画期的で安価なんだろうけれどちょっとまだ市域が高いかなとは思う。
もう少し年を重ねればそういうところにたまに行くようになるのかもしれないし、誰かが連れて行ってくれるのかもしれないし、そういうのは定かではないけれど、そういうのはちょっと憧れるな。

でもまあきっと「憧れ」なんて言っているうちはまだまだなんだろうな。
とりあえず恵方巻を食べながら、イメージトレーニング……にはならないか。

 

マスクが売っていない

新型コロナウイルスの影響で、マスクがどこも売り切れである。いやいや嘘だろうと思って店頭を除くと本当にどこにもない。ドラッグストアはもとより、コンビニ、スーパーに至るまで見つからない。
そこでようやく「しまった」と思った。
もうすぐスギ花粉の季節が始まるからである。通常、マスクは2月真ん中くらいになってからたくさん買い求めることが多い。それまでの時期は、インフルエンザ対策だとか、風邪を引いたとか、その都度買い足すようにするくらいだった。
今年はすでにインフルエンザに罹ったということもあって、このところはずっとマスクをつけっぱなしである。この間なったのがインフルエンザのB型だったので、流行のA型にはまだ罹る可能性があるわけだ。1年に何度もインフルエンザに罹るのは御免である。昔新型インフルエンザが流行った時があったけれど、あの年は結局年始とGW、それから秋にインフルエンザに罹った。年始はともかくGWや秋口にインフルエンザになるなんてたまったものではない。イレギュラーに流行するインフルエンザというのは流行りの季節というものを無視するものなのだ。
まあそれはいいとしても、これからは花粉の季節である。2月くらいから、なんだかんだで4月の終わりくらいまではマスクで防備している生活が続く。GWになればたぶん大丈夫かな? というところまで来るのだけれど、ここ2年はGW前半にスギ花粉の少ない札幌に行っているのでその辺の明確な境目はわからない。
マスクを外すというのは人体実験が始まるようなものなので、実のところかなり怖いことなのだ。もう大丈夫だろう、とか、ここでなら平気だろう、とか思ってマスクを外すと、半日くらいしてダムが決壊するかのように鼻水が止まらなくなったりする。花粉の症状は時間差なのだ。すぐにはやってこないので、しまった、と思ったときにはもう遅い。
一昨年だったか、函館に行ったときに「北海道はスギ花粉が少ない」と油断してマスクをしなかったらひどい目にあったことがあった。北海道の中でも南の方なので、青森らへんから飛来したスギ花粉や、あるいは体に付着していたスギ花粉にやられたのである。そうじゃなくてもスギ花粉に敏感な体なので、すっかりやられてしまった。現地でポケットティッシュを購入したのを覚えている。
そんなわけなので通常の状態でマスクがない生活などあり得ないのである。生死にかかわるとまでは言わないが、マスク無しで過ごした場合はもうひどい目にあうことは目に見えている。
マスクの品薄はいつまで続くのだろうか。品薄というか、全く在庫を見なくなってしまったので、手に入れようとすれば転売されている商品というか、出品されている商品というか、そんなやつなのだろうか。絶対に買わない。
幸い、先週買っておいたマスクはいくらか残っている。買ったときは多少品薄な気はしたけれど、普通に買えたものだ。なぜあの時多めに買っておかなかったのか、とも思うが、私は年末に昨年買っていて余っていたマスクを見つけて使用したばかりである。買いすぎは余るし、個包装だから翌年でも使えるけれど、そうたくさんストックしておく必要性をを感じずむしろ在庫は減らして必要な時に購入しようと、そう思ったばかりなのだ。
つくづくタイミングが悪い。

どこかで見つけたらマスクを買っておこうと思うのだけれど、今のところ全く影も形もないので、今あるストックを大事に使って在庫の復活を待つ、それしかできることはない。
もともと需要の高まるシーズンなので、増産しているだろうという望みをもって、過ごすばかりである。

 

手帳を買い替えた

手帳を買い替えたというか、今年用の新しいものにした。
今まで使っていた手帳は1月始まりで翌年の3月終わりのものだ。特に何月始まりのものが良いとかそういうこだわりはないのだけれど、今回もまた中身は同じものを買うことにした。なんとなく慣れている物の方がいい気がして、同じようなものがあればそれを買うようになった。昔はどう選んでいたっけ。そもそも手帳を使っていない時期もあった。それから、誰かからもらった手帳を使っていた時期もあった。自分でちゃんと買って使うようになったのはここ数年だと思う。
とりあえず俯瞰的に1か月の予定が見られて、あとはメモ書きできるスペースが付いていればそれでいいかな、という具合だろう。ほかに見るところは巻末についている路線図くらい。ここはもう完全に趣味の領域で、2つ手帳の候補があって内容が変わらないなら、路線図なりなんなりの付録のものを見て、それはもう適当に選ぶわけである。感覚だけ。
とはいえ1年に1回の買い物である。前年どういう意図で選んだのかはまあ覚えてはいない。だから無難に、中身を見て今使っている物と大きく変わらなければそれでいいやと、そうやって適当に選んでいくわけである。毎日目にしたり書き込んだりするものだけれど、ある一定の内容が満たされていればさほど気にならないものである。私の場合は。

手帳を買い替える必要性に気が付いたきっかけは今年のGWや夏の旅行の計画を考えたことだった。今の手帳は3月までしか書くことができないので、5月の予定がどうのこうのという話になって初めて気が付いたわけである。遠い予定は書いておかないと本当に忘れてしまうので、手帳は結構頻繁に確認するようにしている。にもかかわらず年が明けてしばらく気づかなかったのはまあ4月以降の用事がそう前から決まってはいないからであろう。
実は年始、たぶん元旦かその翌日だったと思うけれど、別の旅行の予約をしたときがあった。でもそれは3月の予定だったので、予定の日取りををああでもないこうでもないと考えても特に気が付かなかったのだ。既に予定が入っていないかどうかと、決まった予定について記載を行うくらいだとまあ決まらないわけで。4月には3連休もないし、行くなら3月と決めていたのもあるだろう。

選ぼうと思えば手帳というのは本当にいろいろな種類がある。何月始まりなのかというところだけでも、1月や4月は定番として、海外向けっぽいスケジュール感の人向けなのか9、10月始まりだったり、あるいは7月始まりというのも見たことがある。たぶん使ったことがあるのは1月始まりと学生時代のものの4月始まりくらいで、他のものは使ったことがないと思う。
月始まりだけでなく内容も、例えば1ページに1週間分の予定が立て並びで書き込めるものだったり、逆に数か月分の日付と曜日だけがずらりと並ぶようなものだったり、それらの組み合わせだったり。細かく見ていくといくらでも違いはある。
同じ内容のものを無難に選んでしまいがちだとは先に述べた通りだけれども、中身が大きく変わるのは本当はそうした細かい内容にまた慣れて行かなければならないという怖さがあるのだ。手帳に怖さはいらないというか、毎日適当に習慣のように使うものなので、何かあっても困るのだ。普通に使えればそれでいい。

とかなんとか言いながら、先ごろかった手帳にまだ使っていない自分がいる。中身は同じなので書き写して、古いものはどこかにしまうなりすればいいのだろうけれど、なんとなく先送りされている。
月が替わるタイミングでやろうかな、とか思っているけれどまあそれって先送りの言い訳だよね。わかってはいるんだけどさ。

 

結婚式のために新幹線で出かけた話

友人の結婚式が神戸であったので出席してきた。彼らは今別のところに住んでいるのだけれど、新郎新婦ともに出身地が関西ということで、ゆかりのある神戸開催ということになったらしい。
結婚式と披露宴の他に二次会の開催もあり、夜遅くなりそうだし、この機会に久々に同期入社の面々が集まる(新郎と私は同期入社のつながり)とのことだったので、近くにホテルでも取って宿泊しようということになった。
ところがまあさすがは神戸というべきか、中心地である三宮周辺のホテルはビジネスホテルであっても非常に 値段が高く、また、春節等重なったからか、どこも非常に混雑していた。多少高くとも"推し" というか全国制覇を狙っているコンフォートホテルに止まろうと思ったものの既に予約は取れず、やむなく三宮から数駅離れた新開地駅近くのホテルを予約するに至った。

結婚式に出席するということは、すなわちスーツで出かけることになることを意味するわけだが、出張以外でスーツで出かけてホテルに泊まるというのはよく考えたら初めてのことだった。仕事ではない完全プライベートなので、宿泊した翌日に関しては完全フリーなわけだが、 じゃあ私服に着替えようかと思えばそれだけ荷物が増える。第一、靴が革靴である。 ビジネスカジュアル的な格好をすればよいのかもしれないけれど、 それはそれで面倒くさいので、 もう私は正装からネクタイを外して代わりにカーディガンをワイシ ャツの上に羽織るくらいの変更に留めることにした。 そのまま普段の仕事に行けるようなスタイルである。 仕事ではないのに仕事の恰好をするのは気が引けるが、 致し方ない。
ちなみに、 普段ホテルに泊まった時には据え付けの部屋着の類を着ることはほとんどないのだけれど、今回は珍しくそれを着て寝た。 出張や旅行ならばちゃんと荷物として持っていくけれど、 今回はスーツにビジネスバッグという基本装備があったための処置 である。
それにしても荷物を圧縮しすぎたような気は若干していて、 必要以上に荷物が増えることを警戒しすぎてしまったのかな、 と思う。行ってみないと引き出物の大きさはわからないし、 二次会等で景品が出る場合もある。実際飛行機で来ていた別の友人は、大きな景品を二次会のビンゴでゲットしていたので、ちょっとだけ持って帰るのが大変そうではあった。
私は特に大きなものを貰わなかったので杞憂に終わったとはいえ、でかいものを貰ってしまえばいくら荷物を圧縮しても関係ないとい うのはよくわかった。

当日は、結婚式に向かう前に一度ホテルに寄って、 着替えなどの荷物を預けておいた。 しかしながら時間が早かったためまだチェックインはせず、 荷物だけが預けられた状態になっていた。
披露宴と二次会の間の時間にホテルにチェックインしておけばよか ったのだけれど、 いろいろ挨拶をしたりなんなりしている間に時間が無くなってしまって、結局その時間には行けず。 三宮ではなく新開地に立地しているというのも完全に仇になった。
荷物を預けているので泊まる意思があることは示せている( と信じて)とりあえずホテルに遅くなる旨を連絡。 その後結局うっかり三次会までやってしまったのでホテルに着いたのははすでに日付が変わった午前1時前だった。
新開地へ行く電車はすでになく、 JRで神戸駅に行く列車だけはまだ残っている状況。ただし、 神戸駅から新開地駅へは大体15分くらいあるし、 深夜の知らない街をダラダラと歩いていくのは気が引けて、 結局タクシーを拾ってホテルまで向かった。翌日が何もない、 ただ帰るだけの日で本当に良かった。
今度は高くても頑張って歩いて帰れる距離のホテルを取ろうと、 そう思った。終電を失くしてタクシーを使ったら結局その分だけお金がかかるし 、寝る時間も遅くなるし。

でもまあ、その日のうちに帰らなくてよい、翌日の予定もない、 そして仕事の出張ではない、そんな遠出は良いものである。 なんというかすごく気分的に楽だ。楽でいい。

遠出して結婚式に参加するというのは、貴重な面白い体験だった。旅行ではないけれど旅行のような感じ。仕事ではないけれどスーツで。

ちょっとした、非日常体験。

 

無性にうどんが食べたくなる時がある

 

無性にうどんが食べたくなる時がある。どこの店の何というわけではなく、純粋にうどんが食べたい、という欲求である。 家や会社の近くに丸亀製麺でもあれば昼に行けばいいのだろうけれど、あいにくどちらにもない。 近くでうどんが食べられる店がそもそもほとんどないこともあってなかなか「うどん欲」が満たされることはない。

一度、どうしてもうどんが食べたくて、それならばと香川に行ったことがあった。去年の今頃の話である。骨付き鳥を食べたことを除いたら、1日4食くらいうどんを食べた気がする。もっとも、車を借りなかったので、ほとんど町中にある店しか行っていないので、郊外にある店を巡る旅というのはまた別の機会にやってみたいとは 思っている。

香川に行って思ったのは、私はかけうどんの類も好きだけれど、一番好きなのはぶっかけうどんの類であるということだ。しょうゆうどんと呼ばれることもあり、濃い味の出汁しょうゆなどを面に直接かけて食べるタイプのものを言う。あれが無性に食べたくなることのあるうどんであることが多い。

反面、ざるそばならぬざるうどんの形態のものはあまり食べない気がする。水沢(というか伊香保)とか、稲庭(湯沢) とかで食べたのはよく覚えているけれど、 例えばチェーン店であえてざるうどんを選ばない気がする。 別に嫌いとかではないのに。意外とそういうところに好みがあるものなんだと、今まで意識したことがなかったけれど、思い返せばわかるものである。

うどんと言えば、体調を崩した時、それも胃腸がやられたときにもお世話になることが多い。ネギとか揚げ玉とかに気を付ければ、 かなり胃腸には優しい食べ物である。年に何度かだいたい胃腸がやられることがあるので、そんなときにはうどんにお世話になる。

本当に体調の悪い時は具のない"素"のぶっかけうどん。 生姜は入れるかもしれない。 だんだん体調が回復していくにつれてトッピングが徐々に増えて行って、もうそろそろ良いかなとなれば満を持して天ぷら勢の登場となるわ けである。

うどんに載せる天ぷらだけれども、 これは掛けうどんの類であれば自然に載せられるけれど、 よく考えたらいつもぶっかけうどんの類の時はどこに載せるべきか迷ってしまう。なので、最近はもっぱら別皿に載せたままにして、 おかずとご飯のような関係で天ぷらと麺を食べることが多い。例えば「コロッケ蕎麦」であれば、つゆにコロッケを浸す、 という行為が発生数けれど、ぶっかけうどんにおいては出汁はかなり少ないし、それを絡めて食べるようなこともあまりない。そうするともはや扱いはおかずのそれである。

ああそんなことを書いていたら、うどんが食べたくなってきた。 近くにうどん屋がないのが本当に惜しい。惜しくてならない。