言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

銭湯と生活感


銭湯には生活感がある。気どらない、庶民的な味のある場所それが銭湯。

温泉はもちろん大好きだ。温泉は非日常。温泉付きの銭湯と言うのはあるけれど、それはそれでまたお得な感じ。一度で二度美味しい。でも温泉でなくても全然構わない。銭湯。だってお風呂に入りに来ているのだから。


"銭湯に通う"という経験はない。でもそういうのもいいな、とは思う。
銭湯の料金と言うのは都道府県によって固定だ。東京だと460円。10枚つづりの回数券が4300円であるから、30日利用して12900円。
高いかな? 安いかな?
良くわからないけれど、風呂あり物件と風呂なし物件の値段を比較して見る価値はあるのかもしれない、なんて。

なんだかんだ言い訳しながら、浮いたお金でコーヒー牛乳とか、フルーツ牛乳とか飲むんだろうな。節約したそばから無駄遣い。財布のひもを締めたら気持ちが緩む。きっとね。


旅先で銭湯に行くのもまた面白い。明らかに銭湯は観光地のそれとは違う。近くに住んでいる人が利用するのがほとんどで、たぶん旅行客がせっせと入りに来るようなシチュエーションはかなり希少だと思う。入りに行くとそこにいるのはやっぱり地元の人っぽい感じ。なんとなく「自分もたまに来てます」みたいな顔して番台さんにお金を払ってみるけれど、「あ、タオルとかってあるんでしたっけ」の一言で台無しだ。台無しでいいんだけれど。

誰もいない空間に向かって首を振っている据え付けの扇風機。板がむき出しの棚に無造作に置かれた、籐で編まれた籠。ビンのジュースの入ったガラスの冷蔵庫。野球中継を流しているテレビと、それを見ている風呂上がりの人。
懐かしさってこういう事を言うんだろうな、とか思うのが何だかおかしい。

ガラリとドアを開けるともうもうと湯気が立ちこめて、湯船の向こうにタイル張りの富士山が見えてくる。初めて入る銭湯なのにどこか懐かしかったりするのは、そういう何か心の原風景みたいなものを、タイル張りの富士山がそうであるようにイメージとしてすりこんでくるんだろう。いつかどこかで似ているものに出会った、その感情が懐かしさを創り出す。

 

昔ながらの銭湯は、何でか知らないけれどお湯が熱い。ぐつぐつ煮えてるんじゃないかと思うくらい熱い。頭にタオルを乗っけた人が真っ赤な顔をしてじっとお湯につかっている。我慢比べをしているかのように微動だにしない人もいる。私は専らカラスの行水。熱いお湯に長く浸かる我慢が出来ないんだ。それでも何度かちゃんと肩までお湯には浸かる。インターバルをはさんでみたりして、なんどかお湯に入る。

そういや小さい頃は肩までつかって100数える、とかやったっけ。定番だけど、ちゃんと覚えている。外でやった覚えはないけれど。我が家のお風呂も熱かった。熱いのが好きだからと熱々のお湯を張るのに、いつもなぜか温めがいい私が最初にお風呂に入った。水で埋めすぎて怒られたこともあったっけ。そんなに熱いのが良いなら最初に入ればいいじゃんの一言で順番が変わるなら、早いうちから言えば良かった。


もう大人になったから、銭湯だろうと家だろうと誰も怒らない。それでも銭湯だとどうも早く上がるのはもったいないような気がしてしまう。なんでだろう。大人になったという事なのか、あるいはそれとも。