言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

本を読まずに積み上げてしまう心理

昔にくらべて本を読まなくなったのは確かだ。確かにそうなのだけれど、例えばこうしてインターネットで活字に触れる機会は増えた。だからきっと文字自体は呼んでいる量は思ったほど減っていない。
たぶん減ったのは「物語を摂取する量」なのだと思う。
私の場合、漫画の場合は買ってきたらほとんど積み上げてそのままにしておくことはなく、すぐに読んでしまう。それは買ってきているような漫画のタイトルを見てくれればお分かりいただけるだろう。『クッキングパパ』『一日外出録ハンチョウ』『ラーメン発見伝』……どれも料理漫画である。それも基本的には1話完結、長くとも1冊で完結するような内容ばかりが収録されているような作品だ。これらに共通して言えるのは、読んだらものすごく感動するとか泣けるとかそういうものではないということだ。そりゃもちろん時折そういった心動かされる話が入っていることもあるけれど、基本的には料理がいろんな問題を解決してくれる、さほど気を使わずに読める類の物語である。日常的に摂取しても問題ないような、ちょっとした空き時間にも読み返したくなるような本たちばかりだ。

一方で、私が積み上げてしまっている本というのは「これを読んだら絶対気持ちが動かされるだろう」というものばかりである。もちろん読んでいないから詳細な内容はわからないけれど、読んだら確実に何かしらの感情が揺れ動いてしまう。ともすれば泣いてしまうかもしれない。逆になにか満たされて、ぼうっとした幸福のような物を感じながら眠ってしまうかもしれない。物語はそういったものを孕んでいる。

これは私の完全なる持論だが、物語は「薬のようなものだ」と思っている。時には深く傷を作り、時には言いようのない快楽へと導く。物語によっていろいろな衝動が産まれ、湧きあがることもあれば、逆に立ち上がる力さえ失うことだってある。

幼いころに体験した事はないだろうか。時間を忘れ、物語をひたすら読む感覚。昔読んだ、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』にも確かそんな一文が書いてあったのを強烈に覚えている。私にもそんな経験がある。時間を惜しんで物語を読み進めたようなあの感覚は、今でも忘れることはない。そしてその間隔は今でも素晴らしい物語を読み進めている時に、同じようなものを感じる事だってある。思春期に感じたような心の動きを、物語に触れることでなにか思い出してしまっているのかもしれない。

はっきり言ってしまえば、そういった感情に溺れてしまうのはとても怖いのだ。読んだら気持ちが動いてしまうのがわかっているから、なんとなく積んだままにしてしまうのだ。
読んだら絶対面白いし、絶対泣くほど感動するのに、そうであるからこそためらってしまう。読む時間をしっかりと確保して、誰にも邪魔されないような環境を整えて、そしてある意味での「覚悟」を持って読書に臨む。

ああそうやってまたハードルを挙げるからどんどん読めなくなるんだ。
そうとわかっていてハードルを挙げる。愚の骨頂。でも感動の最中に邪魔を入れられるほど嫌な事はないのは仕方のないことである。
期待が大きければ大きいほど、読むのが怖い。だから積み上げる。

いつかそういった本を何冊か詰め込んで、1週間くらい温泉宿に引きこもってひたすらに物語にひたるような事をしたいと思う。