言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

年末の買い出し

近年ずっと年末は忙しくて家にいない年が続いている。理由は明白で、大学生の頃は冬になれば「冬コミ」という名の戦場に出かけており、社会人になったここ数年は年末は旅行をsディているからである。無論、どちらの場合も31日にはさすがに家に帰る。家に帰ってやらねばならない仕事があるからだ。一家総出できんとんづくりをするという、他家から見たら「なんじゃそりゃ」という大事な仕事があるからである。おせち作りではない。おせちに匹敵するものは、例えば煮物とかは祖父母が作ってくれるのだが、なぜか「きんとん」だけは一家総出(叔父なども含めて10名で行う、よく考えると意味がわからない)の行事となっている。なんでか知らないけれど、きんとんをでかい鍋2つ分も作って食べまくるのだ。我が家はおかしい。そのために大晦日に大集合するのだからそれはそれでいい事なんだろうけれど。

晦日にはそうやってきんとんを作る謎行事があるわけだが、それとは別に、買い出しに出かける日がある。年末はほら、上野のアメ横あたりが大混雑している様子がテレビで取り上げられるけれど、そういうあれである。ただし我々の行き先は上野ではなく、三浦半島の先っぽの三崎港である。
買い出しは専ら叔父の役目だ。なぜなら車を持っているのが叔父しかいないから。私は良くそれについて行った。少年時代の私は今以上に車酔いするたちで、車に乗るのは出来る限り避けるような生活をしていたが、この時ばかりは喜び勇んで同乗したものである。
それはなぜか。簡単な話だ。買い出しの荷物持ちという名目で付いて行けば、美味しい三崎のマグロが食べられるからである。年末のご褒美のような感じである。

だって、買い出しといっても重いのは葉付きの三浦大根くらいなものである。それだって運ぶのは市場と駐車場の間だけで、あとは冷凍のマグロを買って、いいタコがあればそれも買って、酒のつまみになるようなエイヒレとかそういうのを買って……と大の男が二人必要な大した荷物になんてなりはしないのだ。
買い出しという体でマグロを食べに来ている。そういうわけで、いそいそと買い出しを終わらせて、あとはゆっくりマグロ尽くしでも食べて帰るのである。それもただのマグロじゃない。マグロ尽くしだ。マグロの皮の天ぷらやマグロの卵の煮つけ、内臓の酒盗なんかでごはんをたらふく食べるのだ。素晴らしい。自分が社会人になってから改めて値段を見ると申し訳なくなるくらいいいお値段(1人4千円とかする)お店に連れて行ってもらえるのだから、まあ味をしめて毎年行くよね、と。

今年も私は年末家にいないのでマグロ尽くしは食べることができないのだが、いつかまた叔父と一緒に行って、その時は私が叔父に御馳走しないとなぁ、なんて殊勝な事を考えているけれども。
それはいつになるのやら、今のところはわかりません。