言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

一人焼肉

焼肉は大勢でするものだと思い込んではいないだろうか。友人と、仲間と、家族と。それはそれで楽しいものだ。外で行うバーベキューなんかもいい。ジンギスカンみたいな変わり種も楽しい。だがそれは本当に大勢で行わなければならないものなのだろうか?
必ずしも大勢で集まってしなければならないものではないと私は焼肉に対して思っているわけである。

無論大勢で行う焼肉も好きだ。焼肉をするという事はある意味ではエンターテイメントである。それゆえに大勢で行う楽しさというのは必ずあると思う。
ところがただただ楽しければそれでいいのだけれど、気を使わなければならない相手が多いほどその楽しさに緊張感が上乗せされていくわけである。年下が積極的に焼かなければならないとか、あるいは取り仕切りたい美行のような人がいれば従っておいた方がいいとか、そういった内輪のしきたりがよくわからないところに放り込まれてしまった時の探り合いがしたくないわけである。
気心の知れた仲間と適当に行く焼肉、これが至高である。気心が知れるようになるまで飲食をともにするのはやや緊張を覚えるものだが、焼肉あるいはバーベキューなどというものは過分に気を使うものである。やってみなければわからない妙な緊張感はあまり好きではない。

一人焼肉の良いところは圧倒的な気軽さである。とにかく誰にも気を使わないで良い。言うほど周りは自分を見てなどいないし、一人でも何も気にすることはない。一人で占有するがNGな店はまず入る前に断られるから、入ることができた時点で堂々としていればいいのだ。
デメリットを挙げるとすれば、多くの種類を食べることができないという所だろうか。大抵食べられる量は決まっているのと、一人なら食べ放題をするような気にもならず、値段を気にしながら食べることになってしまったりするわけだ。これは良くない。理想を言えば値段を気にせず一人でたくさんの種類を食べたいものだが、それには富豪とまでは言わずとももう少しお金があればいいのかなぁなどと思うわけである。
貧すれば鈍する。意味は違うが意味は同じだ。
一人焼肉に「家で食べればいいや」は禁句である。もったいないと思うならばそもそも外で焼肉などしない。雰囲気を買っているとかタレが美味いとか、果ては洗い物が面倒とかそれくらいの理由でいいのだ。そこに無粋なコメントはいけない。焼肉定食でなくてあえて焼肉をしに来ているわけだから、それだけの理由は言葉にできなかったとしてもきっとあるはずなのだ。