言葉のリハビリ場

好きなことや思い出したこと、忘れていたこと、つらつらと文字にしています。

ブックカバー

本を買うと、ついてくる。ついてくるというか、つけてもらう。それがブックカバーである。
主に付けてもらう時というのは、移動先とか出先で読むだろうな、という時。そうでない場合は、基本的に付けないで貰ってしまう事が多い。だって結局紙ごみになってしまうから。家で読むなら別になくても大丈夫だ。よほど表紙やタイトルがアレな感じな時を除いてである事は言うまでもない。

1冊だけ買った時は特に何も感じないものの、複数冊買った時のブックカバーをつけてもらうあの独特の間が何とも言えない。ちょっと申し訳ない気分になる。あとはちょっとイレギュラーなサイズの本を買ってしまった時。微妙に足りないと言うかちょっときつめになってしまったり、逆になんだか余ってしまった時。何だかちょっと気まずいわけである。申し訳ないなあなんて思いながらも、自分では綺麗に出来るはずもなく、「カバーをお付けいたしますか?」の問いには「お願いします」と答えるわけである。いつもありがとうございます。

普段手のひらにそんなに汗はかかない方だが、やっぱり本を読んでいる時にはなんだか力でも入るのか手汗をかく。そう言う時ブックカバーがちょっとふやけると言うか湿気を吸って柔らかくなる、あの感覚はそう好きになれない。本の表紙は大抵加工してあってつるつるになっているから、多少汗ばむくらいではどうともならないので、紙のブックカバーがどうにも邪魔になったりするわけだ。汗ばむといったって水滴のように垂れてくるほどではないし、そうなるような酷暑の日照りの中で読むものと言えば旅行のガイドブックくらいだろう。

とはいえ、昔は結構紙のブックカバーを付けてもらっていたものだ。特にライトノベルを買い始めたばかりの頃とか、青年マンガとかそういうのを買ったばかりの頃とかは、変に誤解をされるのも嫌でずっとカバーを付けて読んでいた。今ではどうだか知らないが、ラノベの表紙や青年マンガの表紙も見る人が見たらエロ本との違いなどわからない。特に中身に性的な描写がなくとも、わかりやすく絵が二次元的でかつモノによってはそれなりに扇情的なわけで、そう言う意味では行為があるとかないとかはあまり印象とは関係ないのである。本当は純文学の方がよっぽど行為的というか性的であるわけだが、印象は見かけによってしまうのだ。そう言う意味で不用意な事故防止のために付けてもらっていたわけである。公共の場でひけらかすつもりもないし、見て何かを思われたくない、そういう保険なわけである。

ところが、アニメイトという店はブックカバーの意義を違う所に見出しているから面白い。あそこのブックカバーは何を隠そうビニール製で透明なのである。つまり表紙を隠そうなどとはせず、むしろ見せるためにあるわけだ。ビニール製なのは先に述べた手汗問題の解決を含めた拍子の保護と、本棚などに飾った時の視認性も損なわない店を両立しようじゃないかという極めてコレクター的視点に近い考え方で作られているのだ。これは面白い。
もっとも、アニメイトなんかでわざわざ買うような本の表紙が健全なものばかりではないだろうと言う事は自明であり、初めて貰った時はびっくりしたものだった。

社会人になったからか、あるいはスマートフォンの普及のおかげか、最近ではなかなか本そのものを買う機会が減ってしまった。それからインターネットで買えば当然カバーは付いてこない。もちろん有料の、布製とか革製のブックカバーがある事は知っているし、実際持っていたりもする。でもなんだか、外ではなかなか本を読まなくなってしまい、カバーを頼むこともいつしかなくなってきてしまった。また久しぶりに本屋にでも行こうかな。でもあれだな、昔読んでいた本の続きを見たら、家にあるぶんの続きから最新刊まで全部欲しくなるんだろうな。