言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

船酔いと鯵の夢

   ここにも書いた気がするが人生初の「釣り」へと参加する機会があった。釣り、それも船で行う海釣りである。

 私は乗り物酔いがひどいほうだ。ひどいほう、というレベルではないかもしれない。非常に弱い。今は大丈夫だが、車まもとより電車でも怪しい時期もあった。さすがに自分で運転するようになってからは車ではあまり酔わなくなった(それも、あまり、ではある)が、船が一番苦手であることには変わりがない。

 特に今まで乗ったことのある船は鹿児島の桜島のフェリーなどのわりと大型なものが多く、小型船というものは全くの未知数であったため、先達からのアドバイスに従い前日の夜から酔い止めを飲むという作戦に出て、当日を迎えたのであった。

 揺れているのを視認することが一番よくないとのことで、移動中はもっぱら船室にいた。船室からは外の様子はわからないので、時を利目を閉じたりするくらいで、特に気持ちも悪くならずに済んだのは幸いだった。だが、いざ釣りを始めようとなったとき、船室から出て釣り竿のある持ち場に行ってからは、あとはもう急降下、といった感じであった。

 まず釣りそのものがど素人のため、えさをつけるところから四苦八苦する。そうするとつい手元ばかりを見てしまうため、一気に気分が悪くなる。遠くの景色などを見て気を紛らわすが、あいにく釣り場が東京湾ということもあってそれほど遠くも見えず、視界の中で上下に揺れる工業地帯を眺めては気分が悪くなり、目を閉じてやり過ごすなどして何とかごまかしていた。

 

 釣りそのものに関して言えば、船酔いのことを除けば非常に面白い体験をしたと思っている。針に餌をつけ、針よりも高い位置のかごの中に魚をおびき寄せるためのえさ(イワシの細かく刻んで練ったもの)を詰め込んで、あとはそれを海に落とせば準備は完了だ。難しい動作は必要ない。海底までついたら、3巻きくらいリールを戻して、竿を振ってえさを撒く。そうしてまたリールを巻いて、えさを撒いた当たりの高さに釣り針が来るようにする。あたりがあれば、リールを巻くし、ダメそうならまた竿を振るところからスタートだ。適宜かごの中のえさを補充しながら釣っていくその繰り返しである。これがどうやら夏場に鯵を釣るときの基本動作であるらしい。

 私自身は潮流的に良いところにいたのか、すぐにあたりがあった。ただ魚が食いついているのか潮に流されているだけなのかイマイチわからず、リールを巻いてみたら重かったので鯵が食いついているのだと分かっただけだった。

 釣果は鯵4匹。4回しか仕掛けを海に落としていないことを考えれば、ひどく効率的に釣ったことになる。しかも2匹ずつ釣れているので、このまま釣り続けていたらもっと連れていたかもしれない。今になればそう思う。

 なぜ4回しかやっていないのか?

 

 それは、4匹目の鯵を針から外している段階でもう船酔いが限界になってしまったからだ。

 竿を戻し、えさを安全な場所に置き、あとはもう船室へ。途中本当に気分が悪くなり戻してしまってからはあとは2時間以上船室で死んだようになっていた。

 小型の船、それも海上で気分が悪くなると、この世の終わりの絶望を感じられる。逃げ場がない。帰れない。ならばやり過ごすほかない。

 気温35度を超える真夏日、船室には空調設備があるわけもなく、ひっきりなしに体に汗が伝い、水分補給をしようにも飲み物は竿の近くにおいてきたきり。手元にあるのは魚臭いタオルだけ。唯一の救いは直射日光を避けられることである。

 

 とまあ船上は地獄だったわけだが、それも永遠ではなく、気が付いた時には船が元の河岸へと帰っていた。

 陸に上がれるとなれば話は早い。何とか生き延びたことを感謝しつつ陸に上がると、どうやらこの日はまれにみる高波だったらしく、ほかの人たちもなんだか気分が悪そうにしていた(結果的にこの後もう飲み食いはできないと2名の参加者が帰ってしまった)。

 

 15名で釣って、結局鯵が100匹ほど釣れ、鰯や鱚を釣っている強者もいた。それをそのまま専門の居酒屋へ持ち込んで、まさにとれたてを捌いてもらって食べたわけだが、これがもうとてつもなく美味くてびっくりしてしまった。美味すぎて気分が悪かったのを忘れてしまったほどだ。

 

 聞くところによれば、やはり魚探で魚群和探し当てて向かっている以上、船の上で釣らないと、ああも簡単にあたりは来ないらしい。船と竿など一式借りられるのも船釣りでないとなかなかないとのこと。であるからして、釣りたいなら船に乗らなければならないのである。特に私のような忍耐強くないろくでなしは特に、だ。

 船酔いか、新鮮な魚か。

 

 それでもやっぱり、地獄は見たくないので、あわよくば誰かを唆してその釣果のご相伴させていただくほうが良いのかもしれないなどとこれまたろくでもない事を考える次第である。

 

 苦労をすれば必ず手に入るわけではないが、たまにはこうして苦労をしたかいがある、というのも乙ではないだろうか。