言葉のリハビリ場

特にテーマはなく、ざっくばらんに書いています

忙しい時の息抜きの仕方

 

仕事が「できる」人は同時に息抜きが上手いという。なるほど確かに、根を詰めて詰めて詰めて張り詰めて仕事をすることが素晴らしいことであるとは思えないし、実際かえって仕事の効率が落ちてしまうという事は良くある話だ。
どうせ集中なんて出来ても連続1時間やそこらだ。どこかで張り詰めていたものがふっと緩む瞬間がある。でもそうしている間にもなんとなくだらだらと手は動かし続けていたりする。

なぜか?

いや、なぜか、というよりも

「仕事が忙しくてしょうがないときの息抜きって、どうしたらいいかわからなくない?」

と思うのだ。

思わない?


仕事が暇なとき。こういった時は結構息抜きをする余裕がある。昼ごはんをゆっくり食べて、たっぷり1時間休憩を取った上で、その後またコーヒーでもちょっと入れに行ったりして。余裕のある働きぶりの中には、息抜きが含まれている。ちょっとわからないことがあって調べたりしているうちに脱線したり、質問がいつの間にか雑談になったり。そういうのもある。
これはきっと余裕があるからだ。
余裕がないとき。「これ、今日中にやってね」と仕事を渡された時に、明らかに急いでやっても間に合いそうにないと感じたら途中で休めますか? という話だ。
私はそういった時に息抜きをするのが苦手である。私一人が忙しいだけならまだしも、隣の人とか、フロアとか、決して暇ではない時はなおさらだ。休んだ10分がそのまま帰宅時間に跳ね返ってくる、的な思考回路になって、周りも忙しそうだし自分も忙しいのにのうのうと休憩するのは……とか思ってしまう。

本当は休んだ方がずっと効率が良くなるとしても、だ。どうしてだろうね。そういう性分なんだ。
やればやるほど精度は落ちるし、ミスが出る。そんでもって出来上がったものを提出して見てもらうと「これじゃ必要な情報が足りないんだけど」となるわけだ。冷静に考えれば仕事をもらった時か方向性を考えている時に仕様や要求される粒度の高さなんかをすり合わせなきゃならないんだろうけど、そういうことすら疎かになってしまう。余裕がないというのは恐ろしい。

目の前の仕事をこなすことで頭がいっぱいで、本当に余裕がない時。そんな時にどうやって「10分休憩するか……」ってなれるのか、それが問題である。
たばこを吸わないのでたばこ休憩もしないし、かといってネットサーフィンの旅に出る余裕もない。そうすると行きつく先はトイレしかないわけだ。
トイレは回数に限りがあるし、長すぎるとサボってるだけにしか見えなくなるのでそれも嫌だ。

ちなみに最近の私は開き直って翌日の自分に任せるというどうしようもない技を覚えたわけだけど、そうすると前日の作業を思い出すまでに30分くらい時間がかかるという違う問題が産まれて来てしまっている。どうしたらいいんでしょうか。

 

パイナップルアレルギーになったみたいです


最近になって急に食物アレルギーになったようだ。それはもう唐突にである。特に何の前触れもなく、ある日から急に食べると身体がおかしくなるようになったから恐ろしいものだ。


具体的に何が食べられなくなったかと言えば、パイナップルである。これはあくまで「おそらく」パイナップルであるというだけではあるが、人体実験(?)の結果なのでこれが原因なのはほぼ間違いない。

年末年始、私はどうも腹具合が悪かった。原因はたぶん食べすぎとか脂とかの摂りすぎとかそういうものだったと思うのだけれど、それのおかげで多少腹具合がおかしくても「食生活が悪いからだなぁ」とか思って適当にやり過ごしていた。これが問題発覚を遅らせることになるとは思ってもいなかった。

最初に違和感があったのは、2月頭の頃。夕飯を食べてしばらくして、どうも具合が悪いことに気が付いた。これだけならよくあることなので普通にトイレに行ったが、いつもと様子がおかしい。食べすぎでお腹が痛いならわりとすぐに良くなるのだけど、この日はなんだかしぶといな、と思ったのを覚えている。風呂に入って温めても良くなる感じがしなくて何だかこれはいよいよおかしいと気が付いたが、この時はまだ夕飯の時に食べた卵かけご飯を疑っていた。食あたりを疑ったのである。生卵は真っ先に疑われるというわけだ。
だから、若干の吐き気と、お腹の内部から針を刺してくるような痛みは卵が悪いのだと思っその日は過ごし、寝るときになってお腹が痛すぎてトイレに2時間くらいこもってからようやく落ち着いて寝るに至った。その日は若干の寝不足、それくらいで済んだ。ちょっと運が悪かったなと思っていた。


2月の真ん中頃、決定的な出来事が起こる。

遅く起きた土曜日、朝ご飯と一緒になった昼ごはんを食べ、コーヒーを飲み、それでもちょっと小腹がすいていたので、無印良品で買ったドライフルーツミックス(マンゴー、パイナップル、クランベリー、レーズンの4種類)を開けて少しだけ食べた。先週の大河ドラマの再放送をやっていたのでそれを見ながらだらだらと食べていた。
食べ始めて15分くらいでお腹の調子がおかしくなる。とにかく痛い。痛いのに、トイレに行っても何も出ない。ただひたすら痛い。針で刺すように、それも剣山のように針の集合体のようなもので内側から刺されているような激痛である。うずくまってその場から動けなくなるほどの痛みだ。痛すぎてトイレで気を失いかける。これはいけないと思い慌ててトイレから出るも、その場で全く動くことができなくなってしまった。
ついでに吐き気も出ていたから、これは本当にただ事ではないと思った。思ったけど、私は馬鹿だから、ちょっと容体が良くなったと見るやちょうどその時間に予約を入れていたということもあり髪を切りに出かけることにした。不思議と歩いている間は痛さはあったけど、着いたらトイレに行けばいいだろうくらいに思っていた。

結果的には髪を切ってもらいながらずっと痛みに耐えるという意味のわからない状況を生み出してしまったわけだが、結局ずっとその間中痛みが引く事はなかった。

結局4時くらいにになってやっと痛みが落ちついて来た。本当は髪を切った後飲み会に行こうと思っていたが、さすがにキャンセルした。何が原因かよくわかってなかったし、お腹を壊したのならお酒を飲むわけにも……となったからだ。夕飯も食べなかった。食べずにずっと寝ていた。日々の疲れがたまっていたからか、これまた気絶するようにぐっすり眠って、眠って、眠りすぎて夜中に目が覚めた。
昼以来何も食べていないからさすがにお腹が空いていて、でも急に激しいもの(ラーメンとか)なんて食べられないな、と思って目を付けたのが昼にも食べたドライフルーツである。ゆっくりかんで食べれば満腹感も出るから良いだろうと思って食べたら、急転直下。
やっぱり食べてから15分くらいだと思う。お腹が痛くなって、また昼間のように痛みに悶え苦しむ時間が3時間くらい続いてしまった。

「ドライフルーツ、お前か!」

その時初めて「アレルギーなのではないか」と本気で思ったわけである。明らかにドライフルーツに反応している。マンゴー、パイナップル、クランベリー、レーズンの4種類のうちのどれかが明らかに私の身体に合わず、アレルギー症状を引き起こしているのである。
マンゴーとレーズンはすぐに違うと思った。最近も口にしているし、ぶどうがダメならワインも普通に飲んで平気だったのはおかしいと思った。だから犯人はパイナップルかクランベリーだろうという事になる。

そこで、実験をして見ることにした。単純な話である。翌日出かける予定のない金曜日に、食べてみて試してみようと。※良い子は絶対にまねしないでください

私は仕事帰りに、パイナップルを買ってきた。カットされた状態の、コンビニとかスーパーに良く売っている形態のものである。私はそれを1つ口に放り込んだ。

そして15分後、症状が現れる。刺すような痛み。それも、今までよりもずっと激しい痛み。結局6時間くらいずっと悶え苦しむことになった。生のパイナップルをほんのひとかけら口にしただけだ。それなのに6時間である。6時間、痛みの波はあれどほとんど動けずに過ごす地獄たるや。ただ腹痛になるだけでなく、吐き気を伴うのがさらに困る。

もう2度とパイナップルは口にしないし、出来ないと思った。

「パイナップル、お前か……」


そう言えば、初めに同じような症状に見舞われた時、食後に杏仁豆腐を食べたのをうっすらと思いだした。あそこには、缶詰のパイナップルがほんの少しだけ入っていた気がする。思えばそれに反応をしていたのだろう。

それにしても、まったく予兆はなかった。少なくとも2019年に入ってからの発症である。10月に台湾旅行に行ってパイナップルケーキを買ってきた事もあったし、ミックスジュースにパイナップルが入っていた事はあったし、カットパインも最後に食べたのはそう遠い昔ではない。ビジネスホテルの朝食に並んでいて口にしたような覚えもある。その時は全然なんともなかった。

それなのに、それなのにどうして今、急にパイナップルを身体が拒絶するようになったのか。
わからない。

全くの謎である。
謎であるけれど、今後2度と口に出来なくなったのは間違いない。
食物アレルギーとは唐突にやってくるものであるらしいし、大人でも急になるという。身を持って体感することになるとは思わなかった。

いつどこで何がダメになるかわからないから、本当にお気をつけて。
あと人体実験、ダメ、絶対。明らかに症状がどんどん悪くなってるし、本当に救急搬送されるような話になるから、病院に行った方が絶対に良いよ。

 

片方だけどこかへ行く靴下

このところ、朝起きると靴下が片方だけ脱げている。だいたい左足だけ脱げている。このところ、とは言ったけど正直なぜかよく起こる出来事だ。

私は寝るときに靴下をはいて寝る人間だ。これがどれくらい普通なのか、それとも異端なのかは良くわからない。人に靴下をはいて寝るかなんて聞かないから良くわからないけど、例えば旅館とかでも私は平気で靴下をはいて寝る。例え後から暑くなって脱ぐとしてもとりあえずはいている事は多い。その姿はそれなりに異端だ。多くは靴下をはいていない。真冬や豪雪地帯ならその限りではないけれど、羽毛の掛け布団を出すか出さないかくらいの時期にはいて寝る人がどれくらいいるもんだろうか。
まあそういうわけで私は靴下をはいて寝ている。そういう話を前提として欲しい。

夜、当然のように両足に靴下をはいて寝る。まさか片足だけはいて寝る人はいないだろう。くるぶしまでの長さの比較的薄っぺらいきわめて安価などうでもいい靴下をはいて寝る。はかないよりはいた方が断然温かい。羽毛のもふもふふわふわのものでなくても十分温かい。保温効果が薄くても冷気にさらされるよりはずっとマシである。そうして寒さのためにはいて寝ているのにもかかわらず、朝方足の寒さで目が覚めるわけだ。

片足だけ靴下がない。その事実は案外簡単に人を目覚めさせる。足が寒いし冷たいからだんだん無視できなくて目が覚める。そしてぼんやりとまずは足であたりを探ってみて、掛け布団の中でどこかにいってないかを探す。この時点でもう本当は目覚めたくないしそのまま寝てしまいたいのだけど、足の冷たさはどうも我慢ができない。今度は自分で踏んでないかと背中あたりをごそごそと手で探ってみる。案外このあたりで見つかったりもするが、それはラッキーなパターンだ。見つかってはいておやすみとなれば良いのに、身体の下でも見つからないといよいよ本格的に起きなればならなくなる。足の寒さに我慢ができなくて、見つからなくて、だんだん腹が立ってくるわけだ。本当は起きたくないのに起こされるあの理不尽さへの怒りがふつふつと湧いてくる。でも靴下は見つからない。

こういうとき、靴下は大抵枕元にある。たぶん、無意識のうちに手を使って脱いで、でもそれを放り投げたりせずに枕元に置いているのだろう。
ちょっと意味がわからないけどたぶんそういうことだと思う。これも100%枕元にあるとかなら良いんだけど、そういうわけでもないし、枕元は枕元でも、身体を動かさずに適当に障ったところにある場合とそうでない場合があって、後者だと最悪だ。


今朝も靴下が片方なくて目が覚めた。足周りを探して、身体周りを探して、枕元に手をやって、それでもなくて起き上がって掛け布団をめくってまで探して結局枕の上に方にあった。

なんだよもう。なんなんだよ。

時間を確認すると、5時50分。あと30分で目覚ましが寝る時間。
とても損をしたような気分になって、でも一応おやすみなさい。そうして目覚ましがなって起きるんだよね。

朝の意味不明な一幕だが、それもまた日常である。
余談だが、夏になるとどこかへ居なくなるのは靴下ではなく服(寝巻の上だけ)がどこかにいなくなっていたりする。暑いんだろうけどなんで無意識に脱ぐかな。

弁当屋の思い出

学生時代、行きつけにしていた弁当屋があった。学生時代と言っても、大学生の時の、それもアルバイトをしていた時の話である。

その店はアルバイト先から歩いて2分くらいの至近距離にある、唐揚げ屋だった。アルバイトの休憩時間は勤務時間によってまちまちだったけど、たいて昼は45分、夜の時は1時間。店に行って食べることもあったけれど、弁当を買ってバイト先の休憩スペースで食べる事の方が多かったので、結構な頻度で弁当を買って食べていた。

唐揚げ屋の弁当だったけど、一番好きだったのは竜田揚げ弁当だった。竜田揚げそのものに甘辛いタレが絡めてあったのでそれだけでも美味しいのだが、私はいつも50円くらい追加でタルタルソースを付けてもらっていた。手作りのタルタルソースがとても美味しかったからだ。それで確か600円くらい。唐揚げ弁当の500円には敵わないものの、十分安い。
安くておいしくて、そこそこ早く出てきたのですごく重宝していた。あまりにも通いすぎたせいで、行くだけで「竜田揚げ弁当タルタル付きね?」と言われるようになった。嬉しかったけど、おかげで別の時「あ、いや、ミックス弁当で」と言った時に驚かれてしまったのはちょっと笑った。向こうも笑ってた。


唐揚げ屋の人たちはありがたいことにアルバイト先に備品とかの買い出しに来てくれていたので、私が同じ商店街で働いている事は知っていたようだ。
同じ商店街で働く仲間みたいに思ってくれていたんだろうか。たまに、ちょっとした雑談なんかをしたこともあった。
今日は店が混んでますか、いえいえそこそこですね、もうすぐお祭りですね、うち屋台出すんですよ、じゃあもっと忙しくなりますね、みたいな。弁当を注文してから受け取るまでのちょっとした時間だったけど、何度か言葉を交わすことがあった。話しながら、竜田揚げ弁当には入っていないはずの唐揚げをおまけで付けてもらったこともある。
あの街で生活した時間には、あの唐揚げ屋が欠かさずあった。


私は大学生だったので、アルバイトは大学を卒業すると同時に退職することになった。
アルバイトの終わりは同時に、竜田揚げ弁当との別れでもある。3年と5か月ちょっと働いていたから、弁当を食べていた期間もだいたいそれくらいの期間だ。途中、とんかつ弁当を買いに行った時や、ラーメンを食べに行ったとき、牛丼を食べたとき、そういう時もあったけど、戻ってくるのはいつもあの唐揚げ屋の竜田揚げ弁当、タルタルソース付きだった。

アルバイト最終日、私はいつものように弁当を買いに行った。「竜田揚げ弁当、タルタル付きで」と頼んで、弁当を待つ。その日はいつもより注文が立て込んでいたようで、お店の人はとてもバタバタしていた。
「ごめんね、ちょっと時間貰える?」
「いいですよ、コンビニに寄ってからまた来ますね」
そんなやり取りをしたのはなんとなく覚えている。本当は「今日であのお店で働くの最後なんですよ」とかそういうことを言った方が良いんだろうかって、そう思っていたんだけど、特に何も言うことができずに終わってしまった。いつものように私はアルバイト先の休憩スペースで弁当を食べた。
いつもと違ったのは、その日、ロッカーの中を空っぽにしてから家に帰った事だけだった。


あの日以来、あの竜田揚げ弁当は食べていない。近くに行く事はあったけど、弁当を買うようなことはもうなかった。
数年たった今でもあの店はちゃんとあるらしい。今でもあの竜田揚げ弁当を出しているのだろうか。タルタルソース、最初はメニューに載ってたけど、いつの間にかなくなったんだよな。それでも注文すればちゃんと冷蔵庫にあったんだよな。今でもそうなのかな。

あの「おやじの唐揚げ」がまた、食べたい。
またあの味が食べられるんだろうか。

 

チキンラーメン

NHKの朝ドラの影響でチキンラーメンが品薄だという。無理もない。あれを見せられたら食べたくなるというものだ。残念ながら私自身は今月から出勤時間が前倒しされてしまったのでリアルタイムで見れていない。今でもたまに気にしているけど内容は今どんな話なのか良くわかってない。
でもまあチキンラーメンが完成したのは知っている。それくらいだ。それくらいだけどまんまと私もチキンラーメンが食べたくなったわけだけど、よく考えたら家にチキンラーメンがない。
ちょっと前まで、ハーフサイズのものは結構買い置きしていた。そういえば最近見ていない。ずっと前に食べきってしまっただろうけど、良く覚えていない。その代わりによく似た別物は結構食べている。無印良品で売っているタイプのもの。似て非なるものである。チキンラーメン同様、麺に味付けがされていて、お湯をかけるだけでラーメンとして食べられるタイプのもので、透明なフィルムで包まれた極めてシンプルなお徳用パックである。

あれで満足してしまっているからいけないんだろう。正直味の違いとかはよく分かっていない。とりあえずそれなりに美味しいからそれでいいなって思ってるくらい。多くを求めないことが幸せだというけれど、そういうことにしておいて欲しい。

カップラーメンは外でよく食べる。旅行中によく食べるといったほうが正しいかもしれない。この間も旅行中に買って食べた。
カップラーメンは主に夜食である。コンビニでお湯をもらってきてそのまま持ち歩くのはあまり好きではないし、かといってコンビニで食べるのも気が引けるので、ホテルで調理してそのまま食べる形式が好きだ。

ビジネスホテルに泊まっているときは、よく飲み物とかお菓子とかを買いにコンビニに行くのだけど、その時についつい買ってしまう。非日常のなせる特別感からだろう。そして妙に美味い。
ホテルの部屋にはたいていポットなどの湯沸かし器が備え付けられているので、そこでお湯を沸かして食べることができるから理にかなっているのだ。私の場合、例えばコンフォートホテルでは泊まるたびにミネラルウォーターをくれる(泊まりすぎて無駄にゴールド会員へランクアップしたため)ので、もったいなさもありつつもそれを沸かして活用している。

カップラーメンだけでなくカップ味噌汁になることも多い。要するに塩気が欲しいのであり、そのうえカップタイプのものであれば捨てるのも楽なのでよく使うことになる。毎度必ずというわけではないけれど、お酒を飲んでるときほど食べたくなってしまう。でも多分お酒のせいでちょっとお腹が空いたように錯覚してるんだろうな、と薄々思うと気がある。そういう時は味噌汁で十分だ。汁ものは満腹感がある。それでもちょっと妥協しきれないときは、ブタメンを買うことにしている。駄菓子屋とかで売ってるあれだ。小さくてサイズ的にちょうどいい。意外とコンビニとかでも売っていて買いやすいからオススメだ。


チキンラーメン方式のものは、自宅で食べるには申し分ないのだが、外出先には少々向かない。だからこそお湯をそのまま注げるカップヌードルが誕生したわけであるなあとそんなところで実感して、ひとすすり。無駄にいろいろ考えながら食べると妙に美味しい。なんでもないインスタントなラーメンなのにね。


私にとってチキンラーメンは極めて日常的な食べ物で、カップラーメンが非日常の食べ物である。ちょっと変かもしれないけれど、そういうものなんだ。


チキンラーメンが品薄なのだとしたらますます本物を食べる機会が減るかもしれないし、今度仕事終わりにスーパーで探してみようかな。それなりにミーハーなんです。

車内販売

先日、JR北海道JR東日本で車内販売の縮小が決まったというニュースを見た。電車の車内販売、そう言えば最近ほとんど使っていないかもしれない。
最後に使ったのはいつだろう。成田エクスプレスで朝ご飯を食べた時だろうか。朝はやすぎてコンビニに寄り忘れて、でも空港までは時間があるからと車内販売の軽食(おにぎり弁当的なものだったか)を購入した。それが最後だろうか。
買おうか悩んだのは水沢江刺から東京へ帰る新幹線の中。仙台駅で積み込まれた牛タン弁当を買おうか買うまいか悩んで、でもそこまでお腹がすいてなくて見送ってしまった。
買いたかったけど買えなかったのは、昨年の春の北海道で経験している。札幌発釧路行きの特急「スーパーおおぞら」。発車前に「車内販売はありません」のアナウンスに慌ててホームに弁当を買いに行った。北海道ではもう既に縮小されていた。そういうことだ。

こう考えてみると、車内販売が縮小されるというニュースも無理はないな、と思ってしまう。意外と使っていない。車内販売で買うシチュエーションが思い出せるくらいだから、印象以上に使ってないんじゃないかと思う。

小さい頃は車内販売への「憧れ」があった。とにかく食べ物を買ってもらいたくて、通るたびにねだったような思い出がある。そして買ってもらったことも、買ってもらえなかったことも、どちらも良く覚えている。上越新幹線で越後湯沢からの帰りに買ってもらったじゃがりこや、北海道は石勝線の特急「とかち」でひまわりの種アイスを買ってもらったのは特に良く覚えている。旅行の中での思い出の本の1ページではあるけれど、とても印象深いひとコマだ。

本当は、お弁当とかを買ってもらいたかったような記憶もある。幼いころから食い意地を張っていたのだ。もちろんご飯は普通にどころか普通以上に食べておいて、それでさらになにか食べるものが欲しかった。そんな時に、鯖の押し寿司弁当とか、ますのすしとか、横切る車内販売のカートを羨ましく眺めていたのが車内販売における弁当の思い出だ。
今思えば、車内で食べる弁当のほとんどは駅で買って持ち込んでいたような気がする。うちの両親は車内販売で弁当を買わなかった。でもまあ、電車で食事を取ることが事前に決まっていれば、確実に買える駅構内を選んでしまう気持ちはよくわかる。私も今ではそうするし、店で買う方が選べて在庫も多いからその方が何かと楽だ。

車内販売でしか買えないというパターンは一応存在する。例えば、仙台名物の牛タン弁当は仙台駅を過ぎないと入荷されないようで、東京行きの列車が盛岡を出発した時点では購入することができない場合がある。仙台の駅に停車した際に積み込んで車内販売にまわり、晴れて購入することができるという。仙台駅での停車時間は長くても2分程度なので、ホームに買いに行くのは少々無理がある。
まあでもこれは極めてマニアックな買い方だ。仙台以外から乗り込んで牛タン弁当を狙い撃ちで買うという人がどれだけいるだろうか。

JR北海道JR東日本では、車内販売を縮小する。北海道ではすでに販売のない列車が増えている。今回あえて発表したのは北海道新幹線あってのことだ。特急は既に販売を行わない事を発表している。東日本は新幹線での弁当やお土産、デザート(アイス類を指すと思われる)の販売を取りやめる。北陸新幹線以外の全列車が対象だそうだ。そういえばJR九州も新幹線の車内販売のニュースが出ていた。

風物詩がなくなって寂しい、とは思わない事はないけれど、自分がそこまでつかっていない者に対してさすがに「残して欲しい」とだけ手放しで伝えることはできない。でも寂しい気持ちはある。

今度こそ牛タン弁当、車内で買ってみよう。

花粉の試練と体調管理

 

花粉の季節がやってきた。花粉、その響きだけで憂鬱になる。
私は元々鼻炎のアレルギーも地である。それ故に当然花粉にも反応する。初めはどっちがどっちだかわからないくらいだったが、いつのまにかもう立派なスギ花粉の花粉症だ。
ヨーロッパなどで生垣に使われているタイプのスギでもやられてしまうほど重症である。だから、薬は毎日欠かさず飲まなくてはならないし、マスクも基本的に取れない。であるからこれからの季節はずっと花粉との戦いである。

例年はこのタイミングでマスクを付け始めるのだが、今年はもう既にマスクを毎日して通勤している。満員電車で何を貰ってしまうかわからないからだ。インフルエンザが流行っているというのもある。結構休みたくない大事な用事が1,2月は多くて、用心して人の多いところではマスクを付けて生活をする毎日が続いている。

たぶんそんなに悪いことではないと思う。用心しないでかかってしまうより、用心するに越したことはない。特に密室のような感じの場所で仕事をしている以上、感染症バイオテロになりうる大きな問題だ。そんな事は出来ないし、されたくもない。休みの日にそれなりの予定というものがある以上、仕事はともかく休日に向けて体調を崩したくないというのが本音である。

ただ残念ながら先週末はがっつり体調を崩してしまった。崩したというか、何だかよくわからないけれどどうも何かの食物アレルギーを発症してしまったようで、突発的な腹痛に悩まされていて、出かけるどころではなくなってしまったのだ。入っていた飲み会の予定はドタキャン。大変申し訳ないし、普段なかなか会えない人たちだったのでなおのこと申し訳ないし、だいたい「腹が痛くて家から出れないからキャンセルする」という用件の伝え方、本当は行きたくなかった人の苦しい言い訳に聞こえてちょっと嫌だった。良く会う仲間ならまだしも、1年ぶりの人とかもいたので本当に誤解されてそうで怖い。会いたい人もいたし本当に行きたかった。だからこそアレルギーが憎い。

体調をどう整えていても、突発的な不調というのは結構おこってしまう。私の体調管理が甘すぎるというのも一理あるのでとりあえずマスクくらいはするようにしているわけだ。ただこれからの季節は花粉症が襲いかかってくる季節なので、常にちょっと調子が微妙というか、イマイチな感じになるのが嫌だ。マスクをしても薬を飲んでも目薬をさしても点鼻をしてもダメなときは全然ダメ。大変お見苦しい姿を晒してしまう事になる。だからせめてその「ダメなとき」を減らすべく気を使って気を使って生活をするんだけど、今度は季節の変わり目とかで普通に体調が悪くなったりして、もう踏んだり蹴ったりなのである。

レーザーとかで鼻を焼いといた方がいいんだろうか。

肉まんに何つける?


急に肉まんにつける調味料の話になった。
肉まんにつける調味料? 私は何もつけない。だって味がついてるし。でもまあ醤油を付けて食べると言う話は聞いたことがある。あとは酢醤油とか。長崎に行った時に聞かれてびっくりした事はあるけど、そういう文化があるのは知っている。あとはからし。シュウマイにカラシをつける感覚だろうからわかる気がする。私は肉類にカラシをつけないのでやらないけれど、普通に違和感なく食べられると思う。
こういった話は明確に地域性が出るので面白い。いろいろ例に上がる物はあるけれど、酢醤油とかからしとか、あるいはポン酢というのは地域が偏っているので、それだけで話が地域性と相まって面白くなるものだ。
関東というか東日本は圧倒的に何もつけない勢が多数を占める。西に行けばいくほど調味料を使う割合が増え、近畿あたりはからしが圧倒的上位、そして九州は酢醤油が圧倒的である。山陽地方ではちょうど間を取ってからし醤油とかが人気であったりするらしく、意外とその食べ方は多様である地域的であることが分かる。

ところが、肉まんにソースをつける、と言われた時にははたと困ってしまった。肉まんにソース。地域がわからない。私としても初めて聞いたので、とりあえず調べてみる。
どこの地域なんだ、と調べてみるも、明確な地域が出てこない。酢醤油のようにここはこれ! というのではなく、ソース派はどこの都道府県でも1位ではないとかいう見解が出てくるのだ。そして2位に入る県は長崎、兵庫、神奈川だという。実にまとまりがない。どう言ったわけだろう?
共通して言えるのは、中華街を擁する町であるということだ。貿易港、つまり港町であるとも言える。外国の文化が入りやすい地域であり、なおかつ中華街として発展した地域がある。
もっとも、中国にソースを肉まんにつける文化があるかと言えばそんなことはないようだ。ただし料理にかける文化はある。調味料にウスターソースを使用した中華料理は存在するし、普通に卓上の調味料としても置いてあったりする。その流れを汲んでのことなのか確かに長崎では皿うどんウスターソースをかける習慣があるわけで、その流れで肉まんにもかけるようになったのかもしれない。

まあルーツは一旦置いておくにしても、果たしてそれは美味いのだろうか、というのも問題である。だから私も家でやってみた。醤油やからし酢醤油は普通に美味い。味も想像した通りで、中華料理の延長線上にこう言う料理があるよね、という味である。外で食べるにはひと手間かかるので面倒くさいけど、それでもありだなと普通に思える味だった。
そしてソースはと言うと、これはかなり新しい味だと感じた。ものすごくジャンクな、おやつを食べているような感覚になる。美味しいのは美味しいけれど、肉まんではない別のものを食べてるような新しい感覚だった。たぶんからしあたりを一緒に付けて食べても美味しいと思う。そういう味だ。極めてソースの味を強く感じられる、パンチの利いた味とでも言おうか。肉まんにソースを最初にかけた人はこういった新しさに惹かれていったのかな、なんて思うに至る味だった。

何でも食わず嫌いは良くないので試してみたけど、新しい発見があって実に良かった。ただまあ私個人としては家にいるとき以外は面倒くさいので何にもつけずに食べちゃうだろうな、と思ったけど。

辛いもの

辛いものが苦手だという人がいる。そうとは知らずに一緒にタイ料理の店に入ってしまった。まあ先方の希望でもあったのでそれは仕方がないのだが、よくわからないままにカレーを頼んでしまった。それもグリーンカレーである。たぶん一番辛い奴だと思うそれを、辛いものが苦手だというカミングアウトともに一生懸命食べていた。ちょっと申し訳ない気持ちになった。申し訳なさついでに、どういう辛いものが苦手なのか聞いてみた。山椒の類は平気だそうで、中華的な辛さはわりと平気だという。ならば唐辛子単体の方が危ないのかと聞いてみればそうだと言う。
では仙台名物牛タン……ではなくその付け合わせである青南蛮の味噌漬けはどうだろうか、と聞いてみた。青唐辛子をまるごと使った味噌漬けであるから当然辛い。当然これも苦手であろうと高をくくっていたが、帰ってきた返答は意外なものだった。
「あれは辛いけど美味い。酒のつまみにもなるし」
まあ面白いものである。タイカレーはまるでダメだし、辛い物はそもそも苦手だと言ってはばからなかった彼も、なぜか青南蛮の味噌漬けは好きだと言う。辛いものが苦手でない人でさえ、あれは辛くて苦手だという人は存在するのにだ。

でもまあ自分自身に置き換えてみてもそういう事はある。食べれるからさとそうでないもの。私は「辛い物はほどほどに好きだが普段はあまり食べない類」の人間だが、青南蛮の味噌漬けは大好物である。でも坦々麺とかのあの真っ赤に染まったスープはさすがに食べられない。辛さにはそこそこ敏感だ。あの食べ物は辛いものが得意かどうかは関係ない食べ物なのかもしれないけれど、度合いも種類もいろいろバリエーションがあると言えよう。

私がそれなりに食べられる辛いものと言えば、唐辛子である。七味唐辛子は特に好きだ。温かいそばやうどんによく振り掛ける。松屋の牛丼についてくるアレも良い。家ではやらないけれど、豚汁に少し掛けるのも好きだ。ああいうちょっとした薬味の存在感が好きなのである。
同じような理由で、柚胡椒なんかも好きだ。あれは単体で結構塩味も効いているので、調味料としても使える。難点としては活用方法がほとんど思いつかないので小瓶ですらもてあますことだ。胡椒単体ならいろいろ使い道も思いつくのだが、柚胡椒はよくわかっていない。いっそ携帯でもすればいいのだろうか。例えばおでんとかを食べる度に使うとか。飽きるか。

逆に苦手なのはわさびである。寿司に入っている分くらいは食べるけれど、特に自分から付けようとは思わない。刺身も別にわさびはあってもなくてもいいと思っている。一度昔気仙沼で食べた寿司はすごくおいしかった事を覚えているのだけど、それ以上に鮮烈なわさびの香りにびっくりしたものだ。香りに驚いて鼻呼吸したらものすごいツーンとした。別にトラウマとかではないけれど、しばらくわさびが食べれなかった。たぶんフカヒレ寿司とかそういうわさびがものすごく目立つような寿司だったからだと思うけど、さすがにキツかった思い出がある。
量が過剰でなければ普通に食べることはできる。安曇野で食べたわさび丼なんかはその名の通りわさびがメインのどんぶりだ。わさびと、わさびの茎の漬物と、鰹節。醤油をかけてとにかく混ぜる。あの『孤独のグルメ』で紹介されたことのある伊豆かなんかのものと似たようなものだ。
入っている具材はシンプルで限りなくわさびなんだけれど、ちゃんと食べられる辛さでとても美味しかった。世の中何でも適量が一番である。わさびは用法用量を守れば美味しく食べられるけれど、それがある一定の許容量を超えて口に含んでしまうともう文字通り涙目になってしまうわけである。

たぶんそういった顔を店の人は見ているのかもしれない。最近気が付いたのだけど、立ち食い寿司の店で食べた一貫目のわさびが妙に効いてて涙目になっていたら、次からかなり量を減らしたものが出てきた。良く見てるもんだなぁと思うと同時に、ちょっと情けなかったかな、と思うなどした。でも涙目にならなくて済むのでそのまま食べ続けたわけである。

まあそういう時は我慢せずに少なくしてくれって言う方がお互い良いんだと思うけど、どうもね。

 

職場のお土産どうするか問題

旅先でお土産を購入するのはそれなりに難しさがある。特に私のように毎月のようにどこかしら出かけている人間からすると、そもそもお土産を都度買っていくべきなのか? という話はある。自宅用は適当である。別に買っても買わなくてもどっちでもいいし、自分で消費するのが主だし、変なものでも失敗しても別に困るのは自分だけだしさほど困りはしないから何でもいいのだ。

問題は贈答目的のものである。職場用のお土産というのがどういったタイミングで買っていくべきなのかは悩ましいものだ。お盆やゴールデンウィーク、年末年始などの長期休みの時に旅行した場合は買っていくことが多い。他の人も配っているからタイミングが難しくないし、当たり障りなく悪い意味で目立たなくてよい。あとは有給等を取得して出かけた場合はできるだけ買っていく。だがそれ以外の場合は何とも微妙だ。土日で出かけた場合は頻度が高すぎて微妙だし、ライブやスポーツ観戦などの遠征はもっと微妙だ。毎度毎度持参するとこちらの懐事情を鑑みてもかなり面倒なことになる。だから前者のようにとりあえず大っぴらに出かけた時だけ買ってくるようにとりあえずはしている。どれくらいが適正なのかはよくわかっていない。
自宅用のお土産はもうフリーダムである。好き嫌いのはっきりする珍味の類だって平気で購入できる。漬物だって好きなものを買えばいい。馬鹿にされようが何だろうが私は仙台では「青南蛮の味噌漬け」を買うし、飛騨高山では「めしどろぼ漬け」を買う。どうせ自分で食べるのだからそれでいい。

職場用のお土産はそうはいかない。いろいろ考えていると面倒くさいことこの上ないので、できるだけ無難な物を買う。「萩の月」が「かもめの玉子」になったり「とおりもん」が「ひよこ」になるくらいのマイナーチェンジはあるだろうけれど、できるだけ無難にしたいという思考が働くわけである。直接文句を言ってくるような人は仲良しかただの不届きものなのでどうでもいいが、こんなところで不興を買うのは嫌だ。そういう意味で私は極めて保守的になる。
だから結果的にどうなるのかといえば、そもそもの旅行の予定を会社で話さなくなるというわけである。
「今度の三連休どうするの?」
に対して、
「あー、特に何もないですね、買い物とかですかねー」
とか、
「家で野球でも見てます」
なんてことを返すようになるわけである。

滑稽な話だ。

幸い、最近は特にこういったことは深く考えないで済んでいるので、上記のような会話は発生していないのが救いである。比較的狭いスペースで仕事をしているのがいいのだろう。どの範囲の人まで渡すのかとか一番偉い人に渡したらいいのだろうかとか一つずつ配ればいいのだろうかとか考えたらきりがない。

お土産を職場に買っていくときに付きまとうのが、いわれのない罪悪感だ。平日万全に活動するために休日があるのだと言われれば、日曜に外出など気持ちよくできるわけがなかろう。そんな後ろめたさを孕んで購入するお土産はただの負担でしかない。先輩への接待か何かだ。
「平日のために休日がある」という環境から、どちらかといえば「休日のために平日がある」環境に移動できたので、雑談で旅行話をした後にお土産があろうとなかろうと特段何もないので助かっている。旅行をしてきたことへの後ろめたさがないのがよい。半休を使った先輩は間近に迫った自宅購入のために実印を作りに行っていた。休みとはかくあるべきだ。

話が逸れた。
お土産選びの負担が気持ち的にずいぶん軽くなって楽になったのは間違いない。職場にお土産どうするか問題、結構考えている人はいると思うのだけどどうだろう。
そういうのをそつなくこなせる大人になりたいもんだな。